伊藤廣太郎

自分を理解するため、書く練習をしてみよう。

伊藤廣太郎

自分を理解するため、書く練習をしてみよう。

最近の記事

ひとつの商売をやってみて

いま、コーヒー屋の商売をしている。 実のとこ、散発的なイベント営業なので正業とは言えない。 この文章は、曲がりなりにも商売を始めてみたことで思った、ひとつのことについて書いている。想定読者は、将来読み返すかもしれない自分だ。 コーヒー屋をやってみた。 地元のコーヒー会社が作っているコーヒーがとても美味しいのに、ネットか都内の百貨店でしか買えないのがもったいないと思っていたら、たまたまそのコーヒーを卸してもらえることになったのだ。 まずは店頭販売として、知り合いのパン屋の

    • よあけ

      団地の朝の美しさよ。 日が昇り出した頃、そこにある闇がじわじわと透明になってくる。 空の下の方は象牙のような色が出てきて、上の闇とのグラデーションが現れる。 団地の建物はまだ、その身の潔白を証明するのを待つようにぬっと建っている。 手入れの行き届いた緑の、その鮮やかさは少しずつ起き始めた。 かつて崩した小高い丘や森は、今はコンクリートとアスファルトの下。 でも、この美しさよ。 人々の営為が作った丁寧な美しさよ。 さあ、今日がはじまる。

      • その緑とは

        緑が豊かだと言われる所に住んでいる。 ビルだらけの都会から電車で30分もかからない。 きれいに整えられた街路樹。色とりどりの花を庭や玄関に飾った家。 いくつもある公園には、バッタやセミがわんさかいる。 春は桜が咲き乱れ、夏は緑が生い茂り、秋には色づく。冬の乾いた晴空には落葉した木が映える。 自慢をしたくて書いたのではない。 なんか、つまらないのだ。 ここの緑には、こちらを圧倒するものがない。 自然の大きさや生命力など、ときには恐怖すら覚えるものがないのだ。

        • 夏の光

          風景画を好きになったかもしれない。 現実を描いたものなんだけど、そこにあるのは現実じゃない。 風も、音も、匂いも、そこには無いけど感じるんだ。自分の中にそれはあるんだ。 でも、いちばん惹きつけられるのは、道。 その道はどこに繋がってるんだろう。歩いている人たちはどこから来たんだろう。 道のその先を覗きたい。歩いて見に行きたい。 こういう風に思えるようになって、風景画に動きを探すようになった。 夏の光が尊く儚い。 今年は緑がとてもきれいだ。

          テレビジョン

          TV is DEAD 昨日はテレビを見ただろうか?いや、いつから見ていないのか?と言った方が正しい気がするし、テレビを付けていたが認識していなかった。のかもしれない。 まぁ、テレビというものを見るという行為がもう何年も前から無理なのです。体が受け付けないのです。 小さい頃からハイティーンを過ぎて20代半ばまではご多分に漏れず、しっかりとした視聴者だったけど、きっかけはもう分からないが、降りたのです。 僕の人格形成に大いに影響を与えたものが、もはや触れられることすら無い

          テレビジョン

          ハラワタ

          新型コロナで外出自粛中だった時の話を知り合いから聞いた。 その人は、近所のホルモン焼き屋が店頭で生のホルモンを配っているのに出くわしたそうだ。店内で食べれない時期だったので、処分するくらいなら、ということだったのだろう。 もちろん、美味しいものだったので、営業再開後には食べに行ったから、宣伝としては良い方法だったのではないかという話だった。 それを聞いて、もしホルモンをもらった人がその後、車に轢かれたらスプラッター映画みたいになるだろうなーと想像してしまった。 運転手が

          静かなゴハンはありますか?

          このタイトルは童謡の「静かな湖畔」のメロディーで、3歳の娘が口ずさんだのだのだが、なにか哲学的な問いのようなで虚をつかれた。 静かなゴハンはありますか? もっと静かに食べたいのだろうか・・・

          静かなゴハンはありますか?

          苦手だと思っていること、避けていることをあえてやってみる。本当に苦手かはそれで分かるかも。

          苦手だと思っていること、避けていることをあえてやってみる。本当に苦手かはそれで分かるかも。