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終末ホスピス、人のおわりについて思うこと

録画していた「情熱大陸」、在宅ホスピス医の内藤いづみさんの回を観て、やっぱり最近自分のなかでずっと考えている、命とかその終わりとかについて徒然に思う。

内藤いづみ(在宅ホスピス)
日本でまだホスピス医療の概念がない時から、24時間休むことなく「命に向き合う医療」のために、その人の病状や環境、家族や周囲の人間関係までも配慮した、究極の"その人のための医療"を実践。(番組propfile抜粋)
https://www.mbs.jp/jounetsu/2019/10_06.shtml

番組では、老衰で幕を閉じようとしている94歳の女性患者に密着していた。個人的には、30分の番組で、94年間の人生の最期が切り取られていることに、驚きというか、畏怖というか、なんかわからんけど、いいの?って思ったし、それでいてやっぱり「人は死ぬ」っていう事実に圧倒された。

ここ最近は、「人は死に向かって生きている」という当たり前の言説が、非常に怖い。そんなん、死ぬことと生きることっていうのは全くもって違う要素なのに、それをおんなじ文章の中で並べていて、そしてそれが、揺るがしようのない事実として存在していることが、めちゃくちゃ意味わからん。

小学校3年とか4年生の時くらい、人が死ぬってことを想像して、その恐怖が横をかすって通った。おばけが怖くないということで大尊敬していた母親も、毎日新聞を読んでNHKを観て人と人が罵り合う討論番組を観ていた父親も、もしかしたらみんないなくなってしまうのか?と少しだけ気がついてしまった。
寝ようとしても、隣でグアグアいびきをかいている両親がフア〜と消えてしまうことを想像してしまう。ねれない。頭の中がディズニーランドのスペースシャトルのように豪速でちかちかしていて、冴えわたる。冴えわたるほどに、恐怖の穴に落ちていく。ときたま無呼吸になる父親の寝顔を見ながら涙したことを覚えている。(そしてたまに息ができるように背中をぐいぐい押した)

その時よりも、出来事として「死」に遭遇してきた、いま。
乱暴な幕引きにも度々直面した。
スーパーで吟味する賞味期限よりも、自分が長く生きていられる確証は誰にも、どこにもない、いま。
継続して存在し続けることを前提である「生」とそれにまつわる様々な営みだけど、そのすぐ隣に「死」があるっていう事実を、みんなうまく隠して生きている。一体、どういう了見なんだ。あたまがおかしくなりそうだ。

こんな世の中で、自分はいったいどのように生きていけばいいのだろうか。いまこの時を大切にしよう?わかっているけど。どうせ死ぬんならこんなこと考えて立ち止まっている時間は無駄じゃない?わかってるけどね。
ゾンビみたいな毎日、一体希望はどこに。

こんな世の中に、新しい命を生み出してしまっていいのだろうか。

死ぬためにある生を、その恐怖を、なんのために生み出すのか。

94歳の患者さんは、3人の娘さんに見守られながら息を引き取った。自分たちが生み出した命に、自分自身の命をゆだねて亡くなった。内藤いづみさんは、死亡証明書を「卒業証書」と語り、ご家族に手渡す。代理、として受理してほしいと。卒業、この世界で生きたという功績、を讃える、証書。死亡した、という事実が、そのまま生にたいする称賛。死に向き合うということは。そこになにか大切なものがある、気がしてならない。

卒業証書。享年X歳。よく、生きました。

よく、生きました。「よく」生きました。よく、よく。

私は、まだわからない。
これでは証書をもらえません。





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