【駄文】変・恋・愛
子どもの頃に、玩具を買っては貰えず、近所の子どもと遊んでもらえず、辞書と本の世界にいることが多かったためか、駄洒落も含め、言葉遊びが好きな福島太郎です。
と、この書き出しで「今は」と聞かれたら、趣味もなく、友達ともあまり遊んでもらず、ネットとnoteにいることが多い、駄洒落も含め、言葉遊びが好きという現状と、ほとんど変わっていないことに気づいてしまいましたよ。せっかくなので、この気づきを表題に併せて深めていきます。
なお、子どもの頃の想いは、この記事で書いたところです。
私の好きな言葉の一つに、マザーテレサさんの
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」
という言葉がありますが、逆説的に考えると、愛の始まりは関心を抱くことと言えるのかも、愛していただくための、まず関心を抱くきっかけの一つに「変」と感じる部分があるような気がします。
子どもたちが、大人に対して、ちょっとおどけたような、変わったことをするのも、関心を引きたい、愛して欲しいという気持ちがあるのかもしれません。
そして、「変」という気持ちに、心が加わると「恋」になります。久しいという字を消すために、頻繁に一緒にいるようなことも必要かもしれません。2メートル婚とか言われるものや、職場内の恋愛も、そう考えると納得です。ただ、ここで、少し気をつけて欲しいのは、せっかくの「恋」も、心が離れて、久しくなると「変」になりますので、ストーカーやDVなどに進んでしまうことがあるのかもしれません。
また、「恋にあるのは下心」ですので、どちらかと言えば、「相手に求める」、「相手に期待する」ような気持ちが強く出がちになります。もう少し進んで「愛」に行かないと、お互いに幸せな気持ちになれないのかもです。
「愛」は真ん中に心があり、久しいが心を下から支えます。相手のことを長く思い続けるような気持ちなのかもです。「相手のために何かできること」という相手中心の考えを持つことが、愛なのかもしれません。「恋にあるのは下心、愛にあるのは真心」と理解するようにしています。
そういう意味で言えば、元妻と私はお互いに「恋心」は抱きましたが、愛に育てることができなかったのかも知れません。その後の私の愛は、娘や郷土に向かっている感じで、異性にも同性にも向いていないですが、それはそれで良しとしましょう。
話が変な展開になりましたが、賢明な読者の方は、ご推察していると思います。何故、朝からこんなことを考えているかというと、このような私の考えを「物語」にしたものが、「恋する旅人」に収録している「題名のない物語」です、という宣伝がしたかったのです。と申しますか、宣伝をするために、昨夜「恋する旅人」を読みながら、「変・恋・愛」について考えてしまいました。ちなみに、自分で書いた物語なのに、泣きながら読んでいましたよ。かなりグっときてしまいました。表現や技巧は稚拙さがありますが、スピーディで大胆な展開に、ドキドキしてしまいました。
自分で言うのも何ですが、「西野」というキャラクターが、実に良いです。
この「西野」が生まれたきっかけが、noteに投稿された「紫蘇を枯らした話」で、その方が合唱好きなので、歌が上手いという設定になりました。その方は、今はnote街にいらっしゃいませんが、愛に近い感情を抱いていたのかもしれません。なので「題名のない物語」は小説というよりも、その方へのラブレターという位置づけです。
彼女には届かない、砂に書いたようなラブレターではあります。彼女を思う時、「ハチミツとクローバー」という漫画の一場面が心に浮かびます。
『実らなかった恋に意味はあるのだろうか』
答えはわからないけれど、彼女に伝えたい。
「あなたが生きていてくれるから、幸せです」
本日は、相互フォローしているラベンダーさんの手元に「恋する旅人」の紙書籍が届くはずです。楽しんでいただけると嬉しいです。本稿をお読みの皆様にも、楽しんでいただければ嬉しいです。紙書籍は高いので、電子書籍がお勧めです。今月は電子版が1冊も売れず、kindle unlimitedでは1ページも読まれていません。
そんなdabunを今日も愛してください。