本当の自分と向き合う。
無知の知とは、よく言ったものです。
私自身もそうですが、外向けの顔は謙虚にしつつ、本心では自分自身を優秀でなんでもできる人間だと思いたい自分がいます。
そうすることで、自分を慰めているのだと思います。
もちろん、その感覚を否定する気は一切ありません。
自分を強く見せたいという思いから、自分の至らなさが自覚できるし、だからこそ自分を伸ばすことができます。
自分の無知を自覚することによって、それを知らずに生きている人と比べて「何が自分に足りていないか」を知っている段階にあるだけ、一歩先に進んでいますよね。
これが、無知の知の考え方です。
自分への無知の知を向けられているか?
私もそうですが、今時の若者は自分と対話することをしていない人がほとんどだと思います。
というのも、もう言わずもがなですが、テクノロジーの進化によって、情報が溢れかえっている時代で、SNSという他者と繋がるツールが当たり前に存在し、どんな時も他者と繋がっている時代において、自分と対話する機会が取れないのは当然のことです。
個人的には、他者との繋がりが当たり前すぎて「自分との対話」という概念すら持ち合わせていなかったような感覚もあります。
往々にして言えるのが、いわゆる職人が育ちにくい環境にあります。
何となく、職人のイメージとして「こだわり」だったり「信念」を持っていると思います。
その信念は、他人から受け継いだものかもしれませんが、その道を突き詰めていくにあたって確実に自分の中で何かが生み出されていくはずです。
いわゆる、守破離の「破る」や「離れる」という部分です。
結局、守(とにかく真似る)のフェーズを行わなければ、ほとんど自分自身の意思は入らないことになります。
テクノロジーによって様々な物事が民主化されていることにより、いろいろなことに手を出すことができるようになりました。
その結果、1つのことに集中し、それをとことん突き詰めることがほとんどなくなっていると思います。
私自身がそうだったのもありますし、きっとこれを読んでくださっているZ世代の皆さんも、同じような感覚を持った人は少なくないはずです。
だからこそ、もっと自分の声に耳を傾ける時間を確保し、その時間を大切にすることを意識的にやっていく必要があると思います。
自分への無知の知を持って、自分と語り、
本当の自分は何をしたいのか。
どんな想いを持っているのか。
それらを問いかけて、自分らしさを大事にした生き方をしていきましょう。