小じさん第七話「黒い小じさん」

 気がついたらいつもの天井があった。僕の部屋の天井。僕は仰向けになっているらしい。背中の感触は布団のものだ。長年使っていてすでに弾力が失われた硬い布団。状況はわかった。僕は今まで寝ていて、たった今目を覚ましたということだ。今何時だ。ていうか、何曜日だ。頭が朦朧としている。寝る前の記憶がない。
 カーテンが引かれた窓からは微かな光が漏れていた。寝ぼけた頭では、それが昇りつつある朝日の光なのか、月明かりなのか判断がつかなかった。
 首をひねって壁の掛け時計を見る。光の加減で針の位置がよく見えない。諦めて僕はスマホを探した。それも見つからなかった。
 今が何曜日の何時かをはっきりさせないと、僕は次の行動を決められない。
 平日の朝なら、通勤しなければならない。時間に余裕があれば2度寝してもいいし、時間に余裕がなければ急いで支度しなければならない。
 休日なのだとしたら時間など気にせずもう一度寝るだけだ。僕はまだ眠かった。
 仕方がない。とにかく部屋の明かりをつけないことには、何も始まらない。僕は重たい身体を起こして立ち上がり、足を引きずるようにしてどうにか壁のスイッチにたどり着いた。
 パチッという軽妙な音とともに電球がつき、部屋が明るく照らし出される。急な明暗の変化に僕は反射的に目を閉じた。しかし、その直後、電球はせわしなく明滅し、しまいには力なく消灯してしまった。
 そうだ、思い出した。この部屋の電球は切れかかっていて、替えなければと思っていたところだった。

 ……詰んだ。

 いや、まだだ。カーテンを開ければ外の光が部屋の中に差し込む。そうすれば時計を見ることもできるし、スマホを探すこともできる。
 しかし、そこでふと僕は気がついた。この位置からなら、カーテンの隙間から入る微かな光の加減で部屋の様子がなんとなく見える。
 僕は時計を見た。
 長さの異なる2本の針は、2時ちょうどを伝えていた。
 カーテンから漏れ入る微かな光は月明かりで、今は朝の2時だと結論づけた。カーテンが引かれているとはいえ、昼の2時がこんなに暗いなら、それは暗雲が空を覆い尽くす世界の終わりだ。
 時間が確認できたところで、僕はもうひとつ気にかかっていることを確かめるために、窓際へと歩を進めた。そして、ゆっくりとカーテンを開けた。
 月明かりが部屋の中を照らす。
 布団のすぐ隣の床に、黒い小さな存在がある。身を縮こませて気配を隠している。気づかれていないとでも思っているのだろうか。

「今日は何ですか? 小じさん」
「なんや、バレとったんか」

 小さな存在は、目も鼻も口もないのっぺりとした黒一色の顔をもたげ、言った。ほんとうに、どうやって話しているのかと、いつも不思議だ。

「月明かりのおかげで微かに見えていました。はじめは、なんか床に変な物体があるくらいにしか思いませんでしたが」
「変な物体ゆうな」
「すみません」
「それにしても、ずいぶん荒れとったなぁ」

 小じさんは言った。
 何のことか、僕にはわかっていた。
 月明かりですっかり様子が見えるようになった部屋の床に、ビールの缶がいくつも転がっていた。探していたスマホもその中にまぎれていた。昨晩、仕事から帰ってきてひとりで飲んだ。記憶がはっきりと戻った。

「まぁ、別に何かあったわけではないんですけど……」
「ま、そういうこともあるで」

 小じさんのこのあっさりした感じは、こういうときは助かる。

「でも、水くさいな。飲みたいんやったら、なんで呼んでくれへんかったんや」
「え……小じさん飲めるんですか?」

 のっぺりと平面の顔がこちらに向いている。

「それは、酒が飲めるかっちゅうことか? それとも、そもそも飲食できるんかっちゅうことか?」
「どっちもです」
「ワイかて飲食くらいするで。酒も大好きや。身体の大きさのわりにけっこういけるんやで。ビールよりは日本酒やけどな」

 身体のどこからどう飲むのだろう。純粋に気になる。

「ワイと飲み直さへん? 冷蔵庫にまだあるんは知っとうで。ひとりで飲むより、誰かと飲んだほうが心はすっきりするで」
「気持ちだけいただいておきます。でも、僕はもう少し寝ます。仕事にひびくので」
「今日、金曜やで」
「はい、確かに金曜日です。金曜日の午前2時。僕はあと数時間したら通勤の支度を始めないといけないので」
「しもた」
「しもた、じゃないですよ。ただの飲みたがりですか」
「ちゃうちゃう、お前さんを気遣ってやな……まぁええわ。また今度飲も。今日のところは退散するわ」
「そうしてください」
「なんや、冷たない?」
「いえ、感謝してますよ。こうやって話すだけでも、少し落ち着くので」

 本心だった。僕はここのところ、少し小じさんに救われていた。

「ほんまか? まぁ、そう言ってもらえると、ワイも救われるわ」

 小じさんは「ほな」と言い残して姿を消した。本当に、スッと姿が見えなくなった。

 僕は目が冴えてしまって、それから一睡もできなかった。

■これまでの小じさん


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