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【短編小説】或る2人の人間の会話 「顔」

 顔がないってあんた、顔ならちゃんとそこに……。
 いえいえ、こんなの顔じゃあありません。顔に見える何かです。あなたのそれも、顔じゃあない。
 これが顔じゃないなら、あんた、これは何なのさ。
 さあてさて、わかりません。首の上に乗っかってる何かです。その点では皆に共通しています。それだけは確かです。まあ、これを仮に「顔」と呼ぶことに決めるのなら、無論、わたくしに異論はありません。
 そうしましょうよ。昔から皆そうしてきたのですから。
 待ってください。そうは言ったものの、そんな投げやりな姿勢でこれを「顔」と呼ぶのは、やはりいただけませんな。うむ。やはり、これは顔ではありません。顔ではありえません。
 何があんたをそんなにこだわらせるんだい。ただ身体のひとつの部位をどう呼ぶかだけの問題じゃないかい。
 いやあいや、違います。それだけの問題じゃあありません。確かにものには名前が必要です。そうですとも。名前がなけりゃあ会話をするときに困りますからな。例えば、「ときに、あれのことなんだがな」「あれとは、どれです?」「あれはあれだよ。わかるだろ。ほら、決まってあそこの上にあるあれだよ」「あれあれ言うだけじゃわかりませんよ」「だって、あれには名前がないから、あれとしか言いようがないだろ」「ふうむ、困った。それじゃあ話にならん」なんてことになりかねません。これではいっこうに会話が進まないですから。
 だからあんた、「顔」と呼べばいいんだよ。
 そうじゃあない。「顔」とはどうしても呼べないのですよ。「顔」ではない何か別のならよいでしょう。それならば、問題はありません。
 あんたも頑固だねえ。それなら、そうだねえ、「尻」とか、どうだい?
 それはいけませんねえ。確かに先ほどわたくしは「顔」でないなら良いみたいなことを言ってしまいましたが、「尻」はあんまりですよ。ええ、あんまりです。
 そうかね? いったいぜんたい、「尻」のどこがいけないんだい?
 まあ、それがあの「尻」だからというのももちろんあります。それが首の上に、こう、乗っかっているなんて、想像したくないじゃあないですか。ですが、ここはひとつ、その点には目をつむるとしましょう。問題がややこしくなりますから。ええ、つむりましょうとも。
 じゃあ、あんた、「尻」で決定だね。
 いいえいえ、いけません。「尻」はいけません。身体の別の部位と同一の呼び名というところがよくないのです。ほら、それについて会話をするときに困るじゃないですか。例えばこんな具合です。「ときに、尻のことなんだがな」「え、なんだって? 尻がどうかしたかい」「女房の尻だよ」「旦那のかみさんの尻!? ああ、いやいや、失礼。その尻というのは、首の上の方の?」「もちろん首の上の方だよ。何を想像しとる」とまあ、会話は成り立つわけですが、一瞬どきっとしちまうわけです。
 まあ、言いたいことはわかるよ。まあ、いいよもう、頭が回んねえ。あんた、結局どうするのがいいんだい。もう、教えとくれ。
 それがわかりゃあ苦労してませんよ。わたくしもこんなに悩んじゃあいません。けれど、そうですねえ。あなたとここまで話して、すこおし解決の糸口が見えてきた気がいたします。この部位を呼ぶのにふさわしい名前。「顔」でも「尻」でもない呼び名。
 なんだい。もったいぶらずに、ほれ、言ってごらんなさい。
 いやあ、喉のこの辺まで出てきているのですがね。いかんせん、そこから先に進んでくれないのです。
 すると、あんた、もう少しでまさに今話題にしている部位に到達しそうということだね。あんた、そういうことだね。
 そういうことですとも。まさにもう、あとひと押しでこの部位まで到達しますとも。
 ああ。いいよ、もう、わたしゃ疲れたよ。いい。呼び名なんてもうこの際、どうでもいいさ。
 なんですか、急に。なんだか話の腰が折られた気持ちです。
 いいんだよ、もう。疲れたときは話の腰なんていくらでも折りゃあいいんだよ。けど、せめて「顔」では具合が悪い理由を教えとくれ。そうしなきゃ、話のすわりが悪いってもんだい。
 話の腰は折っても、すわりは大事ということですか。はてさて、それはまた奇妙な話ですな。まあ、いいでしょう。いいです。思えば肝心なところに触れずにおったわたくしも悪かった。これは大変失礼いたしました。
 さあ、教えとくれ。
 わかりました。「顔」というのはですね、それはもう深淵な言葉でございます。ただ、首の上に乗っかっているこれを指すだけに留まりません。例えば、「顔」はある集団を代表する人のことを指すことがあります。誰々首相はわが国の顔だなんて言うわけであります。また例えば、対面や名誉の意味で使われることもあります。顔がつぶされるなんて言うわけですね。わたくしはそんな何かの集団を代表するような立派な人物ではありませんし、わたくしの顔は元からつぶれているようなもんです。わたくしのこれを「顔」なんて、とても呼べないわけであります。
 はあ……。あんた、それはちと考えすぎじゃないかい?
 いいえ、ちっとも考えすぎじゃあありません。「顔」という言葉はわたくしの預かり知らぬところで大きく大きく成長しすぎました。もう、おいそれと使っていい言葉じゃありません。
 あんたが生まれる前から「顔」にはいろいろな意味があったと思うけどねえ。まあ、いいよ。あんたの考えることはわかったよ。じゃあ、あんたのそれは「顔」とは呼ばねえが、わたしのこれは「顔」って呼んでいいかい?
 それはいっこうに構いません。ええ、それはもう、各々の勝手でございますから。

(了)

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