小じさん第6話「くすんだ桃色の小じさん」
彼とは、その後何の進展もなし。
というより、本当に私は彼のことが好きなのか、分からなくなってきた。好意を抱いていることは間違いないのだけれど、これを恋と呼んでいいものかどうか、だんだん分からなくなってきたのだ。
私は恋に向いていないと思う。別に恋に臆病とか、そんなのじゃないけれど、いつも途中で自分の気持ちが分からなくなってしまって、もういいやってなってしまう。
恋なんて明確な定義があるわけじゃなくて、好意の延長線上にあって、みんなそれぞれ「このレベルを超えたら恋」みたいな線引きがあったり、「こういう感情を抱いたら恋」みたいなのがあったりするだけ。もしかしたら、異性に抱く好意は全部恋ってことにしちゃってる人もいるかもしれない。でも、別にそれはそれでアリだ。
同じように、私が今彼に抱いている感情を恋と言ってしまってもそれは私の勝手だし誰も文句は言わないだろう。けど、それはなんか違う気がする。
私はまだ、恋を知らない。
でもいいんだ、別に。特に恋に飢えているわけでもないし。
そう考えると彼の前でいいカッコをする必要もなくなって、教授の私に対するほとんど虐めみたいな態度も、もうどうでもよくなってきた。
ゼミの後、同じゼミ生たちが慰めてくれるし。「あれは酷かったよな。大丈夫?」って。
それで充分。ゼミなんて一生続くわけじゃない。
まあ、でも。
全然ストレスが溜まらないかというと嘘になる。ストレスなんて、意識するのとしないのとに関わらず自然にたまっていくものだ。まるで深夜のうちに人知れず降りしきる無音の雪のように。
そんなわけで、私は少し気持ちをリセットしようと、美術館に来ていた。特に私には芸術方面の趣味はない。美術館なんて、学生時代の課外活動で行って以来だ。
ただ、気持ちを落ち着かせるなら美術館かな……と、安易な発想で決めた。
ネットで調べて、うちから1番近い美術館をチョイスした。入場料が500円とお手頃だったのが決め手だった。
特に展示内容は調べずに来たけれど、チョイスはあながち悪くなかったようだ。どうやら抽象画を展示している美術館のようであり、一見何が描かれているのかさっぱり分からない絵画が並んでいるけれど、ただ眺めるだけに徹すれば、むしろ余計なことを考えずに済み、気持ちを落ち着かせたいだけの今の私にはぴったりだった。
しかし、不幸なことに、そうはさせてくれない絵画が今、私の目の前に現れた。
「恋」
このタイトル。その絵画はよりにもよって今の私に、「恋とは何か」を抽象的表現というまどろっこしい方法によって示そうとしていた。作者不詳。
はぁ〜……。
私はため息をひとつ、その絵画の前を通り過ぎようとしたが、そうはさせてくれなかった。それはその絵画の特殊性にあった。どうしても目を止めずにはいられなかったのだ。
私ははじめ、それを絵画だと認識できなかった。というのは、私の目の前にあるものが、絵画のタイトルと説明文が記載されたプレートのみだったのだ。私はてっきり、本来ならここに展示されるべき絵画が、何かしらの理由で撤去されているのだと思った。けれど、この絵画の説明文を読むと、どうもそうではないらしい。
「本来は説明を避けたいのだが、当作においては、ひと言だけ申し添えぬわけにはいかないだろう。確かにそこに作品は展示されている」
私にはどう見てもそれはただの壁に見えた。くすんだ桃色の壁。近づいて目を凝らしてみても、やはりそこには何かが展示されているようには見えなかった。その状況と、この説明文を合わせて考えると……この何も飾られていない“壁”が絵画ということ?
「御名答や!」
急に声がしたので、私は思わず、わぁ! と叫んで1、2歩後じさった。
目の前の壁に変な凹凸が見えたかと思うと、そのまま床に飛び降りた凹凸は、よく見ると前に見た小じさんだった。顔がのっぺらぼうで2足歩行の小さな不思議生命体。全身単色。今回は壁と同じくすんだ桃色。
「そない驚くことないやろ。ワイらの仲やんか」
私は面食らった。会うのはまだ2回目の私たちが、いったいどんな仲だというのか。
「まあ、ええわ」
小じさんは気だるそうにそう言った。私にしてみれば、まあよくないのだけれど、話をこじらせても仕方がないので黙っていた。
「おまえさんの鑑賞眼はええ線いってるで。“壁”が絵画。凡人はなかなかそこには辿り着けへん。ええ線やわ〜。けど、ちょっとおしいわ。あともう一歩やな」
「もう一歩?」
私は褒められてちょっと得意になった。ゼミでけなされ続けて、褒められることに飢えていたのかもしれない。
「せや。あともう一歩や。壁が絵画というよりは、“何も飾られていないということそのもの”がこの作品なんや。わかるか?」
「なるほど。つまり、逆に考えると、“恋”は特定の絵画では表現できないテーマってこと。恋とは何か、自分で考えなさいって、作者はそう言ってるのかな……」
私の頭は調子よく回った。
「そうや! なんや、アホそうな顔しといて、なかなか頭回るんやな〜」
「小じさん、いつもひと言多いですよ!」
「そりゃ、すまんかった。かんにんかんにん」
私はなんだか小じさんと話すのが上手になっていた。いいのか悪いのか……。
ていうか、私の頭、大丈夫だろうか。前のときもそうだったけれど、どうも小じさんが見えているのは私だけみたいだし。
「あなたにとっての恋をここに飾りなさいと、そういうことらしいで。まあ、芸術家ですら恋を一個の絵画に表すことはできへんかったんや。焦らずじっくり悩んだらええんちゃうか?」
小じさんはいつも決まって、ちょっといいことを言う。
■これまでの小じさん
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