小じさん第十五話「砂地の小じさん 3」

 男は小屋の扉の取っ手を握り、扉の左下あたりを思い切り蹴ると同時に扉を引いた。すると、扉はぎいぎい音をたてて開いた。

「こうしないと開かない」

 男は言った。
 雨が降りしきる中に風も出てきた。横薙ぎの強い風だ。扉を開けて小屋の中へ入る数秒の間にも、吹き込んだ雨が小屋の木張りの床を濡らした。

「ここ俺の家。雨止むまでここ居たらいい。この雨すぐ止む」
「ありがとうございます。登山の装備どころか雨具のひとつも持ってきていなかったので、助かりました」

 僕が戸口で靴を脱ごうとすると、

「脱がなくていい」
「でも、靴のまま上がったら、小屋の中が汚れますよ」
「この足拭きタオルで拭けばいい」

 男は自分の足の下にあるタオルを指して言った。外から帰ってくる際に足を拭いてから小屋の中へ上がれるように、入口にタオルを敷いているらしい。足拭きタオルという言葉がこの男の野性的な風貌と比して不自然に響いた。

「汚れる自然。脱ぐ不自然」

 男が続けて言った。
 汚れるのが自然で脱ぐのが不自然ということが、僕にはいまひとつピンとこなかったが、ここでは僕は部外者だ。部外者はその地の習慣に従うのがいい。
 僕は男の言う通り、靴のままそのタオルの上に乗り、靴の底を拭いた。タオルは土汚れが酷く元の布地の色が分からないほどだったが、端のほうに微かに何かの刺繍のような模様が見えた。それは、機械縫いで量産販売されているタオルのそれに見えた。
 また、小屋の中を見回してみると――10メートル四方ほどの小さな部屋だ――鍋や薬罐、食器や小さな机、布団など、人里のものと思われるものが乱雑に散らばっていた。
 それらは、彼自身がかつて暮らしていた人里から持ってきたものなのか、人里のゴミ置き場等からこっそりくすねてきたものなのか、それとも僕のようにこの山に迷い込んだ者から譲ってもらったものなのか――まさか、男はこれから僕を殺し、持ち物を全て奪うつもりなのではあるまいな? いや、殺すなら初めに会った場所で殺せばいい。わざわざ小屋に連れてくる意味はない。それに、初めに会ったときからずっと、男から敵意は感じられなかった。
 部屋の中央には囲炉裏が設けられ、それを囲うように藁で作った敷物が敷かれていた。僕は男に導かれるまま、そこに腰を下ろした。
 男からタオルが手渡された。比較的、きれいなタオルだった。僕はそれで髪や顔を拭いた。服もぐしょぐしょに濡れているが、どうすることもできなかった。眼の前の男が半裸だからといって、自分も半裸になる気にはちょっとなれなかった。雨が止んだらこのまま下山し、服は宿で乾かそう。
 男は火打石を使って手際よく囲炉裏に火をつけた。オレンジの炎がパチパチと音を鳴らして揺らめいた。僕は手をかざした。心地よい温もりが伝わってくる。しかし、濡れた服が貼り付く身体にその温もりが届くには、まだもう少し時間がかかりそうだった。

「俺、もともと東京住んでた」

 僕が黙っていると、男が口を開いた。
 どうやら、僕の想像――石器時代から現代に迷い出てきた猿人だか原人という想像は外れたようだ。

「そうでしたか。僕も東京から来ました。あなたは、どうしてここに?」
「東京、合わなかった」
「合わなかったというのは、つまり、東京という環境に馴染めなかった?」
「そう」
「……それで、次の住処として、ここを選ばれた?」
「そう」
「東京ではどのような暮らしを?」
「安いアパートの部屋借りてひとり暮らし。小さい印刷会社の事務してた」
「そうでしたか」

 そこでいったん会話が途切れた。
 濡れた身体と、身体に貼り付く衣服が鬱陶しかった。雨が小屋の屋根を打つ音が絶え間なく続いていた。靴を履いたままの状態が落ち着かなかった。男の突飛な話を聞いて理解し、質問を投げかけて会話を進めていくには、コンディションが悪すぎる。
 囲炉裏の炎がパチンと音を立てて爆ぜた。

「東京いると、頭おかしくなりそうだった」

 僕が黙っていると、また男の方から話し始めた。男は意外とお喋りなのかもしれない。僕の方から積極的に会話を続けようと努力する必要はないのかもしれない。

「それはつまり、合わない環境で生活していると……というようなことですか?」
「だいたい」
「だいたい……」

 僕は男の表現を繰り返した。
 だいたい――およそそのようなことだが、その他にも様々な要因が絡まり合い、頭がおかしくなりそうだったと、僕は解釈した。

「ここにいると、頭は大丈夫ですか?」
「大丈夫。ここ、不自然なことない。文字通り、自然に囲まれている。頭いつもすっきり」

 囲炉裏の炎がまたパチンと爆ぜた。

「東京は不自然なことが多くて、それで頭がおかしく?」
「そう。東京だけじゃない。人間、不自然なことばかり」

 どのあたりを不自然と思いましたかといった質問はしないことにした。自分にも何となく心当たりはあったし、それは具体的にどこがという問題ではないのだ。

「そういえば、すみません。まだお名前を伺っていませんでしたね」

 すると、男は明らかに不機嫌な顔をした。それは、男に出会ってから初めて感じた表情の変化だった。

「名前聞く、不自然。ふたりだけの会話、名前不要」
「そうですね……」

 たしかにそうかもしれない。ふたりで話す限りにおいて、名前は特に知らなくてもいい情報だ。少なくとも、これ以上名前を聞こうとすれば、話がこじれることは明白だった。
 この男にとって、自然であるか否かが、物事を判断する際に最も重要なポイントなのだ。それは仕事を含めた東京での生活を一切捨てて、山の自然に身を投じるだけの動機になりうる。僕が不自然に名前を問い続ければ、僕はたぶんただでは済まないだろう。
 しばらく少し気まずい沈黙が流れた。そうしているうちに、雨が小ぶりになってきたことが、外の気配でわかった。

「そういえば、雨がすぐに止むというのは、どうして分かるんですか?」
「この山全体、俺の庭みたいなもの。植物たちの顔色、動物たちの声色、天気示す」

 僕は感心して頷いた。男はここの自然をものにしていた。ここの自然の一部として溶け込み、自然に生活している。
 都会の生活を捨て、自然の中で暮らしたいと願う都会民は多い。しかしそれを実際に行動に移し、且つ成功を収めるのは簡単なことではない。

「石器時代のような服装や道具を携帯しているのはどうしてですか?」
「雰囲気出る。俺、まず形から入るタイプ」
「なるほど」

 なるほど。

「その話し方もですか?」
「これは元から」
「すみません」
「いい」

 と、囲炉裏の炎の向こうに何かの気配を感じた。

 ――いる。

 囲炉裏を挟んで僕の真向かいに、小じさんが。
 小じさんは炎に両手をかざしてくつろいでいた。くいと、顔を僕の方へ向けた。文字通りのっぺりとした顔を。
 男は小じさんの方をじっと見ていた。

「見えるんですか?」
「見える。長い付き合い」

 長い付き合い?

「それは、小じさん――つまり、この方と昔からの知り合いということですか?」
「そう。ここ移り住む少し前から知ってる」

(つづく)

■これまでの小じさん


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