書きものをしてみます
連休中に立て続けて読んだエッセイが面白かった。そしたら「文章を書く」ことが頭を占めはじめた。
わたしは日々、言葉のことを考えているのではないかと思う。一つは吃音者だから。わたしの吃音は、物心ついた時から発語にまつわる心身のコントロールできないものだ(と、わたしは解釈している)。立ちはだかる吃音の壁にぼろぼろになりながら、「言いやすい言葉に瞬時に到達する思考回路」は、壁をかわし、よじ登り、その場を突破する手段なのだと自然と心得て、自分で生み出せる(=話せる)言葉の引き出しを大切に持つことは生き抜く術となった(だからといって未だ語彙に自信はない)。
また、成長し自我を持つにつれて、日々SNSをしながら、親しい人と対話しながら、そして生きる道を選択をしながら、持っている言葉の引き出しのなかから最も適切な言葉を探すことにこだわり始めた。多感な時期に吃音を分かってくれる人となかなか出会えなかったからか、自分をよく見つめ、できる限り自分に正直でありたい大人になった。
願わくばいつか自分以外の人々に吃音のことをうまく伝え、理解してもらいたいとも思いながら。
一方、言葉のことを考えている別の理由は、純粋に言葉と自分を見つめることが好きだからなのかもしれない。吃音があることにより言葉や自分を見つめる時間をかけてきたことが、アイデンティティを形成したのはあるのだろうが、別に吃音を前面に押し出す必要もないよなと感じている。
いままでの文章は、間違えてはいないけれど正しくもない気がする。日々心地よいこと、嬉しいことをわたしが納得する正確な言葉で表現するためにはけっこう頭を捻らせるのはいつもできるわけではない。できた時は楽しい。なんて書けばわたしをぴたりと説明できるのだろう。
吃音の症状から楽になるためだけではなく、こんな風に純粋に言葉選び、言葉並べに思いを巡らせ、時間を費やしているのも確かにわたしだ。
今のわたしはできるようになりたいことがたくさんある。でもトライしていない上なかなか始められないことに悩んでいる、さらにはやってもないのにいい感じの状態になりたい阿呆。なぜ手をつけてみないのか?
だけどここまで文章は書けた。まだまだ書ける、どんどん支離滅裂になっていける。全然いい感じの状態になれない。これ以上支離滅裂にはなりたくないからここまでにして、また書こうと思えるから、文章を書くことはトライできる気がする。
ここ数日で読み面白かったいくつかの文章はテイストが違った。コミカルな文章、明徹な文章、どちらにも憧れるし書いてみたい。でもわたしが一番書けるようになりたい文章がどんなものかまだよく分からない。テイストなんて目標以前に、もっと、生きていく日々のいろいろを、思うままに伝えられるようになりたいんだろう。だから書きものをしてみようとnoteに手をつけた。