悲しいほどお天気

https://youtu.be/S2UvXW5BVuE

先日のオンライン瞑想会では、マジュヌのリードで
「コロナで出会ったいいことある?」というシェアをしました。
やっぱり皆さん、満員電車のストレスからの解放や、
生活が瞑想に満ちてきたこと、世界が静かになったことなどを
シェアしてくれました。神・宇宙は必然だけを連れてくるのだ
という信頼が確かになるのを感じます。

そして、人に直接出会うことが少なくなった今、人の温もりや
声のバイブレーションが、より深く沁み渡ります。

私はずっと地元にいるので、小学校1年生からの幼馴染ともたまに
会うこともあります。
あの、無垢で無邪気な頃からどうしようもなく生意気盛りの
青春時代もずっと一緒に育ってきて、半世紀を経た今ではお互いに
人生の後半に入り、環境も背負っているものも大きく変わりました。

年老いた親や病気の家族、仕事の苦悩や自分の病気など、
責任ある大人になろうと必死に生きてきて、そんな時間のなかで受けた
傷の数々はまだ生々しく痛々しいものもあります。
心の傷は私たちの顔にシミやシワとして刻印されていて、
もうあの頃のピカピカした私たちではないけれど、
シミやシワは、そんな傷を温かい思いやりや共感へと変容させてきた
月日に残された道しるべのようです。

私たちは一緒にベジ餃子を包みながら、子供のように大きな声でユーミンを歌い、彼女は洟水をすすりながら、「悲しいほどお天気」って、
どんな天気なんだろうね?と聞きます。私は背中で「そうだね〜」
と答えながら野菜を刻み続けます。

するとユーミンは
「似てる苦しみを持つ人は、行く先を聞かない。」と答えました。
私たちは子供の頃からずっとユーミンを聞きながら一緒に育って
きました。ユーミンの声と私たちの声が重なると、
心の中に懐かしい風景や色、匂いが柔らかく立ち上って、
忘却という名の共有フォルダに入ったセピア色のデータが、突如として色鮮やかに展開されます。ケーキはどうやってカットするかが大問題で、喧嘩しないようにミリ単位で測ってから正確にカットしたこと、コーラを飲みすぎて 酔っ払ったみたいになったこと、箸が転がっても可笑しかったあの頃のこと。

人生色々あって、箸が転げたくらいじゃ笑えなくなってなって、感動の筋肉が多少衰え気味の大人になって、少々のことでは動じないくらいの経験は積んできたはずだけど、まさかこんなコロナの状況に立ち会うことに
なろうとは、正直想定外でした。それだけに、内側にしまいっぱなしで
放置されてきたものたち、忙しさという大義名分のもとに見て見ぬ振りして置き去りにしたものたちは、いやが応にも存在感を増して主張してきます。
この人生でも、今のコロナ自粛の中でも、失いたくないのに失ったものもあるけれど、残ったものたちの大切さもまた、存在感を増しています。

ほんの少しだけ残ったもの...それを感じるとき、不思議に胸に広がる甘やかで穏やかな小川のせせらぎのような流れは、世界の経済システムが崩壊しつつあって、それを食い止めようとして苦闘する表面上のマインドのサバイバルゲームよりも、限りなくハートに近いところにあるエッセンスなんだと思うのです。

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