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小さな死・Little death

こんにちは!魔タリカ779歳、魂のR指定です!
長い旅からの帰宅途中、確かに疲れもあるんだけど。
セクシャルアルケミストの認定トレーニング京都合宿を終えて、なんと仙台のダンス&メディテーション(TDM)まで終わってしまいました!だいぶ前にこのメルマガを書き始めたというのに💦
なんであれ、仕事が生命エネルギーのフル充電になるのは、生命の道に沿った私のTAOが導くところだと思えるのは、幸運なことです。

仙台ではまったくの初参加の方にたくさんご参加いただきました。最近はサニヤシンの増殖に伴って、サニヤシン率が上がっているTDMですが、そういうときはホントに楽させてもらってます。
サニヤシンじゃなくても、女性率が高い時には生命がすぐに湧き立って、新しい次元への移行が比較的スムーズに行われます。
仙台の男性参加者はほとんどが経営者ばかりだったので、さすがに勘所は冴えていて、多くの方が「今、何が起こっているのか」を理解してくれたんじゃないかと思います。

女性の皆さんは、上司や旦那さんが「踊ろう!愛を語ろう!」というシチュエーションに巻き込まれた時のことを想像してみてください。「いや、それはちょっと想像できない」と思う人の方が圧倒的に多いですよね!?
だからこそ、女性たちの熱く真正なエネルギーが、ダンスや瞑想に縁のない戸惑う男性たちを巻き込んで目覚めさせるのに、どれほど助けになったことか!女性の力はやっぱり偉大です。

振り返ってみると、これは「カタカムナ」のいうところの「アマウツシ」の一つの表現形態じゃないかと思います。

……………..続き

女性は常に環境から電気をとって高い電位に在り得るものであるが、男性は大抵は電子の足りない状態にある。
しかも、一般に男性は、女性を通さなければ、電気を取りえないから、
その足りないものを求めて、男性の性の衝動が生じてくる。

これは人間の頭で考えた理屈ではなく、天然の相として人間のみならず、
広く生物に通じる天然のことわりである。
女性自身は、その意識がなくても、常に男性を前駆し、
男性がそれに魅かれるのは生物の天然の姿である。

その女性を前駆させているもの、つまり環境から常に
取り入れている電気的なものを上古代人はアマナと言っているが、
それが女性の魅力の根源のものである。

「カタカムナへの道」稲田芳弘著

性エネルギーは「愛と喜び」という熱で、創造の生命エネルギーへと変換されて初めて使えるエネルギー、誰かが受け取れるエネルギーとして顕現します。それは概念ではなく、実際に私たちの肉体を通してしか起こり得ない「大いなる変容」なのです。

だけど!どんなワークでも、終わって家に戻ると、ともに過ごした時間はまるで夢の中の出来事だったかのように感じて、いつも通りの何も変わらない日常が流れ始めます。これが、瞑想やマインドフルネスとは対を為す「機械」のような意識状態の自動運転です。

そんなことを考えていたら、仙台のTDMで瞑想をシェアしてくれた大先輩、Deva Yoshiro の投稿が飛び込んできました。


三日月を愛でながら
月見酒 宴会もよし 独酌もよし
友人がリタイアして、奥さんを伴って半年がかりの世界一周の旅に出た。
すべての日程を終えて、帰国した。

そして思うのは…これまでの旅がまるで夢だったように感じる、と。
人生の最期にも、このように感じるのではないだろうか?
という深い洞察を述べていた。

いまバリバリに働いている壮年期の人たちや、夢や野望をもって動いている人たちには、目の前で起きている現実も、これまでの物語も、クソリアリティを伴った生々しい現実と感じることだろう。

それでも、最後の最期の瞬間になって、夢だったのでは?と…
人はそれを何回も、何十回も、何百回も、繰り返して来ている。
どんなにいい夢をみても、終わりではない。
自分も含めて、ホントに目覚めるまでは・・・

Deva Yoshiro


私の仕事は非日常空間を提供することで、3泊や4泊のリトリートがメインです。1日や半日のワークですらも、心の痛み、苦しみ、悲しみ、不安、いのちが抱く疑問、そして愛、喜び、幸せとはなにか?など、普段の自動運転モードでいると立ち止まらずに通り過ぎてしまうことに向き合って、生き辛さの根源を抱きしめに行くのです。非日常空間は、通り過ぎてしまえば、昨夜見た夢のように儚く、海の藻屑の如く消えていきます。

非日常空間は「小さな死」にも似ています。
報われなかった感情、無視してきた心の痛みや苦しみは、地縛霊のように私たちの自己成長を抑制して、自己実現を妨げます。
地縛霊化した見捨てられた感情は、準備ができていれば安らかに「成仏」できます。意識的に(マインドフルネスに)気づいているほど、どんな種類の苦しみや悲しみでさえ、天国への階段を昇っていくのですが、やり残したことがある場合や延命装置に繋がれていたりすると、取り憑いて離れない、というわけです。感情が想念体だと言われる所以でもあります。その感情を「エゴ」と言い換えることもできます。

OSHOはセックスを「小さな死 (Little death)」と表現しましたが、フランス語でオーガズムを「la petite mort (小さな死)」と呼ぶことから来ています。性は単なる生物学的行為を超えて、深い精神的、霊的な経験になり得ると、OSHOは言います。そのためには、性エネルギーを高次の意識状態に変容させることが重要ですが、この過程ではタオのプラクティスが助けになります。さらにエゴの死を通過してはじめて、大きな存在との一体感(オーガズム)を感じることができるのです。このプロセスは、瞑想と気づき-アウェアネスなしに進むことはできません。

私たちの魂は、この肉体を持ったままであらゆる種類の小さな死を何度も経験して、生まれ変わりたいという憧憬を抱えながら生きているんじゃないかと思います。

自分が「何のために生まれてきて、何のために生きているのか?」などという問いは、論理的に言葉でどのように説明されたとて、納得できるような答えなどありはしません。
ただ、経験を智慧に変えながら、未知の未来に向かって生きていくだけなのかもしれませんが、その変容のプロセスは小さな死を伴っているので、怖いし、できれば経験したくないと思うでしょう。
だけど、眠りもまた「小さな死」です。毎晩夜毎に一度死んで、目が覚めたら新しい人生が始まるという意味で。

人生は、お金があれば豊かだと思うかもしれませんが、夢と情熱がなければ儚いだけです。だからね、ここで起こったことを夢だったと思わずに、あなたのソウルに記憶させて欲しいと切に願っています。
何度も繰り返し夢と現実を行き来すると、やがてその二つの世界は統合されて、一つのものとなって人生に顕現して行くのだと思います。

Love♡

Tarika

2024/ 6月26日発行メルマガより


小さな死




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