カリフ制とは?
イスラーム圏では君主について様々な称号がある。スルタン(sultan)、アミール(提督admiralの語源だったりする)、カリフ(caliph)など色々あるが、歴史的な背景の深さのために、他の言葉に簡単には訳せない、複雑な響を持っている。アラビア語で王はmalikという言葉で表すが、近代になるまでmalikはほとんど用いられてはいない――何でも、預言者が「王の中の王」malik al-mulūkという名前を忌み嫌ったかららしい――。
中でも「カリフ」というのが教科書ではもっとも最初に出てくるはず。
カリフは英語に訛った形であり、アラビア語ではkhalīfa。本来は『代理』を意味する。何の代理であるかというと、預言者ムハンマドの代理、それも預言者の政治的立場の代理。
預言者が死んだ後イスラーム教徒の間では内紛が起こったものの、その支配領域は着実に拡大し、指導者はアブー・バクル、ウマル、ウスマーンと三代にわたり受け継がれる。
しかし、イスラーム教徒の増加から多くの新参者が現れ地位をつかもうとする中、ウスマーンは要地の太守をすげかえ多く同族を任用したため反発を買い、殺害されてしまう。
四代目には預言者の親族アリーが就いた。ところがシリア総督のムアーウィヤがウスマーン暗殺の罪をアリーに着せたことで内乱に発展。アリーが最終的に和平を結んだことに憤激した一派が彼を暗殺したことで唯一のカリフの地位がムアーウィヤの血族に定まり、初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝が始まる。
このウマイヤ朝は前述したようにアラブ系偏重の政策やアリー殺害のために反乱分子を最初から抱えており、預言者の叔父の血を受け継ぐアッバース家はアブー・ムスリムをホラーサーン(イラン東部)に送りこんで反乱を起こさせるなど、地道に地下工作を続けていた。
ついに749年、ウマイヤ朝を倒してアッバース朝初代カリフとなったアブー・アッバースはサッファーフ(saffāh)「血を注ぐ者」という別名の通り、ウマイヤ王族の粛清を始める。
次々と同族が殺される中、ウマイヤ家の生残であるアブドゥッラフマーンがスペイン、ポルトガルにまたがるイベリア半島に逃れ、756年以降ふたたびウマイヤ朝を存続させるのである。
また北アフリカ、チュニジアではシーア派の一派イスマーイール派を奉じるファーティマ朝が909年に起こり、920年モロッコのイドリース朝を滅ぼし、969年アル・カーヒラすなわちカイロを建てて都とし、以降二百年間エジプトを自領として確保してさらにカリフを称した。
北アフリカのファーティマ朝、カリフの三国鼎立とでも呼ぶべき状況が出現したのである。
ウマイヤ朝は1031年無数の小国に分裂して相争う戦国時代に突入し、アッバース朝はその後、トルコ系など諸民族がカリフはほとんど実権を失い、イスラーム世界統合の象徴程度に落ちぶれてしまう。もしかしたら春秋戦国時代の周王朝と似ているかもしれない。諸国の君主から敬意は払われるが、それ自体は統治する能力をもはや許されず、時として利益獲得のための道具として利用されることさえあった。
ファーティマ朝は十字軍からエルサレムを奪還した英雄、サラディンの手で滅びる。
アッバース朝の滅亡は、1251年、モンゴル軍の猛将フラグがバグダードを破壊したことによる。
最後のカリフ・ムスタアシムも処刑され、ついにカリフ制は崩壊したのだ。
その後も一応カリフの血筋は存続するが、もはや政治において必要な権威とは見られなかった。
○参考文献
前嶋信次「世界の歴史8 イスラム世界」河出書房新社、2016/11/10
小杉泰「イスラーム世界のジハード」講談社学術文庫、1989/10/4
梅田修「人名から読み解く」大修館書店、2016/8/10
アミン・マアルーフ、牟田口義郎、・新川雅子訳「アラブが見た十字軍」ちくま学芸文庫、2001/2/7
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