感情論で話す〜アステロイド・シティ〜
テーマと結論が好きなので、まとめておきます。
前説
作品の中で問われているのは、おそらく「意味」である。
それは作中における。死別した妻やその周り、そして、脚本や「手を焼く口実」に示されている。
アステロイド・シティは多重構造的な舞台設定で、「TV番組の中にあるフィクションのTV番組」という構造になっている。。
つまりは、本当に全てが嘘で構築されていて、意味を持っていないということになる
そして、意味を持っていないという意味──みたいな堂々巡りの話をしたいのではなく、「意味づけること」の話がこの作品の肝かと思う、
単刀直入に言ってしまえば、この何も無い世界の中で、世界そのもの、観測地点たる自分自身の世界を作るということは、意味をつけることだ、創作とは、意味を作るものだ。という感覚である。
映画の示したところで話すなら、実の所、世界は劇的では無く、全てが時間という名前の大きな波に流されて、最終的には無くなってしまう虚無です。宇宙人が突然現れたって、日々は変わらず続いていく。
しかし、その時間を物語るのは誰なのか。そしてその行動に、理由をつけるのは誰なのか。他の誰でもない、それは自分自身だ、
他人から属性を与えられても、その物事に価値がなかったとしても、過去の遺物としてありふれていても、当人がそこに意味を感じれば、物語れば──ひとつの特別な詩情になる。人生も、フィクションも。
人は死んだらお星様になるか?
オーギーが、手を焼く口実って?
意味は無い。現実的でない。けれど、僕らはそこに、意味を求めて語りだしてしまう。
なにより、主人公が持っているカメラというものは、それこそ何も無いこの世界に対して、ものに対して、瞬間に対して意味を与える装置じゃないか。
ラストに象徴的に語られる部分もそうだ。
「眠らなければ起きることはできない」
当たり前のことだ。しかし、あの映像の中で、アステロイドシティがわからないという人の中にも、何か意味のあることとして、猛烈に焼き付いているだろう。
それが意味づけだし、理由付けで、僕らは生きている間、それを永遠にやり続ける。
時間の感覚すら、それぞれ一人ひとり違う感覚と意味を持っている。生きている間。僕らは意味を作りづづけていこう。その先に、きっと楽しいものがあると信じて。
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