ジークアクス完全に理解した─ジークアクス前編の意味とは─
前回のノートから3日。ずぅーーーっとあの虫唾が走る前編について考えていた。それも庵野氏が描いたとなればさもありなん。まさかスタジオカラーというのは、そういう程度なのか?と心底ガッカリして劇場から出て今、しかし、そこであえて今日1日、空き時間に肯定的に捉えてみることにした。つまりは、あの前編の作劇的な効果と意味である。
ここからの文は考察でもない妄想です。好きな方のみお読みください。
シャアという偶像
まずとっかかりは、シャリアブル→シャアへの感情である。今作のシャリアブルは、シャアアズナブルに対し異常な執着を持ちシャア版のボッシュのような性質になっている。そこから逆算して、今回の自分なりの答えに至った。この物語は、偶像崇拝から始まる──(憧憬かもしれない)
さて、シャアという人物は本来どういう人物かは、少なくとも逆襲のシャアまで視聴済みの方は容易に理解しているだろう。今作のシャアはそこから大きく逸脱した、一言でいえば「シャアのことを知らない人が考えるシャア」になっていたように思う。
自分はそのことに対して、心底落胆した。だがスタジオカラーの面々が、なにより逆襲のシャア友の会をまとめた庵野氏が、あの描写を素面でするのだろうか?少なくとも、あれを「面白がって」やる集団ではないと思う(思いたい)。つまり、何か意味がある。その意味とは偶像としてのシャアを描写することにある。
シャアとは、言ってしまえば道化をやらざるを得なかった男である。本心を抱えながら、人身御供の家系や運命によって上に立たなければならなかった。メタ的な意味でも本来は死んでいたはずの初代ガンダム時点から生かされてしまった人間であり、「本人の意図していない役回りを求められ、それをやれてしまう」という属性がある。そのことを視聴者である僕たちは知っているのだが、では、作中の一部、つまりシャアから少し遠い人物はどうだろうか。シャアのカリスマ性は過去作中で書かれているとおりであり、我々が知っているような弱い面を知らない──つまり、外面のシャアしかしらないのだ。
今作のシャアは、徹頭徹尾わざとらしい格好良さを演じている。そう、演じているのである。そこを強調した結果が恐らくはジークアクスのシャアなのではないか。彼の過去や信条を抜いた時、現実の一般人としてシャアに触れた時のシャア。そういうものを出そうとした意図があるのではないか。
新しい声優を起用したのも、そこにあると思う。シャアという人物の客観視。つまりは、人類が初めてシャアに接した状態というものを、if世界まで使って作りたかったのではないか?
それを踏まえて考えると、シャリア・ブルが見ているのは、本当に偶像だ。シャアという男の、綺麗な所しか見えていない──というよりも見せてもらえなかった程度の人間なのだ。シャリア・ブルという男は。それだと言うのに、彼は滑稽にも執着し、戦後彼を探し回っているわけで──。そう、彼はそもそも手ゴマ程度にしか相手にされていないのだ。
更にこれは妄想ではあるけれど、宇宙世紀をやり続けることに対する、痛烈な皮肉なのではないか。作られた作品の思いを無視して広がっていく執着に対しての皮肉。お前たちのやっていることは、こんなに滑稽なことなんだということ。そしてその象徴として、シャリア・ブルがいるのではないか?
今回のまた様々な反応がみてとれた。僕のようにブチギレる派閥。ネタとして面白がる派閥、これはシンガンダムなんだという派閥。この前編は、それらをシャリア・ブルと共に一括りにして「初代ガンダムに対する憧憬から動けないもの達」として皮肉っているのではないだろうか。
そして、主人公マチュが見ているキラキラもまた偶像、形のない綺麗なものだ。地球に対する憧れも、現実は言ってしまえばコロニー落としで荒廃している大地がほとんどではないのか。コロニーという宇宙の閉塞した空間の中で抱えるすべて偽物の世界というコンプレックス。その中で出会った、閉塞をぶち破る存在MSとガンダムとそしてキラキラ──。これは、憧憬によって突き動かされた、若い力の象徴であり、ガンダムという形を持って、新しい物語を紡ごうとしている。
そして今作のGは、初代ガンダムというものの形であり、その列から外れられないという象徴そのものだ。いわば、ガンダムという檻だ。
コロニーという檻、閉じこもった世界。そして、ガンダムという名の檻。
形のない偶像を求めて、檻から飛び立とうとして、登場人物たちは事件に巻き込まれていく。逆に、過去に囚われ続けるシャリア・ブルはそれと対比的だ。機動戦士ガンダムジークアクス。偶像から生まれた物語はいったいどこに向かうのだろうか、、、、。続きが楽しみだ。