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人として実存がブれている

自己認識がブレているのに気づいたのは最近のことで、社会人になって3年目の春だった。

自分はカメラというものに手を出し、ところ構わず写真を撮っていた。家族と会う時も当然持っていき、あえてMF(手動でのピント合わせ)で撮ってみせるんだよというウンチクを口から垂れ流すなどしていた。

そこで、妹がカメラを僕から取り上げた。
「ほら、こっち向いて」
僕はやめろよ……といいながら、笑ってカメラに手を伸ばす。カメラを取り上げる前にシャッターは切られて、僕のその「時」は、1枚のデータになった。

家に帰って、僕は写真を整理した。写真の群内に、妹の姿や、実家から来ていた父親の姿が写っている。やはり、人が映っている写真は良い。人の意志や時間が乗っているような気がして、なんだか特別なものを感じる。

当然その中に、妹に撮られた僕の姿があった。手を少し伸ばしながら、薄ら笑を浮かべている。じゃがいもみたいな頭と顔の男がいた。

いい写真だった。裸の表情があったと思う。しかし、そこに僕がいるのだな──という感覚は、ものすごく他人事だった。

家族と久しぶりに話した時間は、決して苦なものではなくむしろ楽しかった。家族向けの仮面「〇〇〇〇(本名)」である自分を被ってはいたけれど、楽しかったのは本心だし、なにより、僕はそこにいた自覚がある。

ただ、それがなにか空虚だった。僕なんだなぁという感覚というか、浮遊感がある。自分という時間がデータの中に切り離されて、それを傍から見ているということは、幽体離脱のような客観視だった。

また、別の時間。風呂上がりに姿見で自分の姿を見た。小太りの、餓鬼みたいな体型の男がそこに立っていた。短い足で、汚らしい部屋の真ん中に、その男がたっていた。

鏡の前で、頬を常ったり、伸ばしたり、関節を曲げてみたり、ポーズを撮ってみたりした。どうやら、今自分は自分の体を動かしているらしかった。

自分の思索の中では、自己の身体性というものは見えないから、存在しなくなってしまう。ここに僕はいるというのに、その感覚はどこまでも浮いていて、実感がない。

思索している僕という生き物がいて、その場で判断を下している……ようにも思えるけど、本当にそうなのだろうかという気がしてくる。なにかしらの楽な方向に流れているだけの、そういう、人間性のかけた何かになりつつあるような恐怖感だけがあって、時折気が狂いそうになる。

それに、インターネットに長くいすぎだ。バーチャルの世界で受肉して鏡を見れば、そこには愛くるしいケモノがいて、それが僕だと他人からも認められる。そんなわけが無いのに。そうあっていいはずも無いのに。

さらに、本名よりハンドルネームで呼ばれることの方が多くなっている今の人生だと、本名の方が偽物みたいで、そこにアイデンティティを感じられなくなりつつある。むしろ、薄汚い、自分という人間の象徴的なものとして君臨している。

はっきり言って、人から好かれる見た目をしていない。そういう現実を薄ら細めで見ながら目を背けようとしているから、そういう、実存があやふやになっていくのだという実感もある。

だいたい、これは愚痴なのだけれどアバターだけを見て好きだの、なんだのを断定してしまえるというのは「俺の実(ジツ)を知らない癖に」という感情しかわかない。というか、そもそも実の部分を晒す気がないのにこの物言いも考えてみればおかしい気もする。

けれどやっぱり、仮面を作って応対してしまうから相手に勘違いをさせている。これも良くない。本当に良くない。俺はインターネットで人の良心を騙して愛を得ている

俺の一人称は僕じゃなくて俺だったはずだろう。もう少し覇気のある喋り方をしていたはずだ。高3の一年で全部おかしくなってから、もう7年もたってしまって、そこから全部おかしくなっている。甘えた声を出しながら、インターネットの海で人に媚びを売るのは、楽しいぞ。多分。

以上、書き散らしでした。ブレブレ人間でもきっと君がいれば変わるんでしょうか……そんなヤツいるわけないだろ!!!!!!!!ファック!!!!!

あーでも実存というか、実感としてある確かなのもはあって、それは死にたくないのと、死ぬなら死ぬ納得が欲しいなという贅沢品な気はする。自分で死ぬなんて以ての外で、馬鹿らしいから……やっぱり死ぬの怖いからね……怖い。

人生が死ぬことへの恐怖をぼやかすことへの終始なら、そんな辛いことは無いと思うけども。

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