感情論で語る、「君たちはどう生きるか」
ファーストインプレッションと一週間の思考の変遷
あれを見終わった時、まず自分は泣きました。ふざけんなよと泣きました。それは何故かと言うと、宮崎駿という世界一クラスのクリエイターが、勝手に自分を終わらせたかのように感じたからです。映像は冒頭の時点で素晴らしく、母親の病院が燃えている、その中をかける液体を床にぶちまけたようなドロドロの疾走に見とれてしまいましたし、宮崎駿だ!!と興奮しました。一方で、これは彼自身のことを語っているのではないかというメッセージがふんだんにあって、そこから読み取れてしまったことがすごく僕にとって、寂しかった。
自分の世界をつくりあげた男が、誰にも託せず、その世界が終えていくのを自ら受けいれて、その因子を受け取った真人に対して「いつかそれは消えていくものだけれども、それでもいいんだ」というまるで自分の役目は終わったかのような、そういう悲愴を感じました。もちろんこれはもっとプラスな感情で言ってる話ではあるんですけど、でも、俺はこういうことを宮崎駿に言って欲しくなかったんですよね。俺は俺だと言ってほしかった。「俺は俺が思うままに悪であったぞ」的な、強靭で、狂人なエゴイズムが欲しかった。
しかし、考えていく中でそれは文学っぽいよなぁという感覚がでてくる。なんというか、純文学チックだなという感覚。考えれば考えるほど、これは自由の産物なのだという確信が芽生えてきた。
じゃあ、宮崎駿という人間が文学性を保持して、自分の伝えたいことを書いたとするなら、それは肯定されるべきことであり、これまでの功績やらを考えると、「やっていい」ことなんじゃあないかと思う。
さらにいうなら、作家で実はそういうものじゃん、という話がある。思想や思考を押し付けてなんぼだと。個人的には、それを物語というオブラートにつつむことが物語の価値を向上させるものであると信じているのだけれど、さらに一方で、作家の当事者性は尊ばれるべきものではない(つまりは、そこで描写されるものの面白さや深さこそが重要なのである)という考えもある。ここ最近は、それの板挟みになっていて、自分の中で若干結論が付きづらくなっている。というのがある。さらに最近Gのレコンギスタを一気に見たこともあって余計に頭がおかしくなっていて、あれはカオスと人間個々人のあり方の肯定をしていると思うのだけれど、そこに作者の顔が見えてこない。キャラクターが生み出した流れや結果をみてそう思えて、最後の最後に作者の顔が見えてくる。あれ、それの方が作品として優れてるんじゃないの?と思っちゃう。当事者性が濃くても、それを感じさせないのが創作だろう。しかし、それが濃いのもまた味なのだよな──というように思考がぐるぐる回っている。しかしまあ、自分はそのあり方は文学性で、それを発露できた作品というのは、素晴らしいなと思いました、思考停止です。
作品の話
この映画は、母親を家事で失った主人公の真人少年が、母親の妹を新たな妻として迎えた父と共に、母の実家に向かうところからスタートします。そして、そこで描写されるのは、あまりにもグロテスクな愛です。真人に対して、あなたの弟よとお腹を触らせるシーンや、妹と父のキスシーン。これは本当に辛い。作中で妹は元の母親に似ていることが言われており、その事が余計に胸締め付けます。火事で焼け死ぬ母親の夢を見ているくらいまだ苦しんでいる真人からしてみれば、父親は母親をもう愛していないのだ……代わりを見つけたのだと思ってしまうでしょう。きつい。めちゃくちゃキツい。
でも、父親は父親で、息子である真人のことを真剣に愛しているように思えます。ポーズなどではなく、真剣に思っているんだろうなと言う気がしますし、父親をやっている。そう感じました。さらに、妹も姉の代わりをやっているという自覚があった上で、母親をやろうとしている。そこがとても人間的な気がします。姉に似た妹と結婚してしまういびつさを抱えながら、姉が残した遺物である息子のことを溺愛する父と、本物の母でなくても、姉が残した真人に対して「母」であろうとする誠実さとそれに苦悩する弱さを持った妹──人らしさです。それが嫌味たらしくなく、風景としてというか、自然に描かれているのが素晴らしいなぁと、僕は思います。こういう可哀想なキャラですよ!!というふうに言うのではなく、ちゃんと分かりやすく、地に足着いた生活の描写で明示した上で読み取らせる映像と話だなと思いました。
また、真人という主人公の痛々しさというものも感じました。彼は一見気丈なように見えますが、そのメンタル面はきちんと子供です。育ちの良い子供である事が節々でわかる素直な子だなと言う印象を僕は受けました。一方で、自傷して試し行為をするという子供らしさを持っていて、それは母の死を受け入れきれないことや、父親と妹の関係に対する反抗心でもあると思いますし、そのショックから来るものだと思います。しかし一方で、男の子らしい気丈さ。強くなくてはならないという意地というか、そういうものも感じられてその行動力があります。問題解決力というのでしょうか。恐らくですが工場を経営しているバリバリのビジネスマンである父親の背中を見ていて、学んだんだろうな、もしくは教えられたんだろうなと言う感覚があります。さらに、受け入れることは出来ないながらも、妹が「母」をやろうとしていることをしっかり感じとって、それに答えようともしている。そういう矛盾を持っている子供が真人です。
なんというか、そういうよく出来たキャラクター造形なんですよね。そこがすごく好み。ちゃんと人生があるなという気持ちになります。
そして、この物語は多分、宮崎駿はおいておいて考えると、主人公が、妹という新たな母親を受け入れるまでの物語かつ、それまで持っていた自分の世界や構成していたもの、つまりは記憶も、持っていく話なのかな……というふうに思います。
あの塔は恐らく、一個人という命、世界であり、それを保ち続けた男の意地です。塔の主は個々人で命の形を表現し続けた男であり、そしてそれが受け継がれなかったことは、個人というものの限界なのです。
そして、真人の冒険は、思いを受け継ぐ、愛を受けとる冒険でした。おばあちゃんたち、実の母親、ペリカン、妹、いろんな人の思いを受け継いで
過去を乗り越えていく。そして、大叔父の人生をもってして、それを忘却することをも肯定し、「君たちはどういきるか」というタイトル兼命題を回収している。そういう風に感じ取れました。つまりこれは、歴史であり、人生であり、関わり合いの話です。人は死んでも、忘れ去られても残る。つまり、大きな意味での人間賛歌なのだと。
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