linanoa

会社員。旅好き。7年前からシルクロードに魅了され、古代の芸能や民俗について調べています。 趣味で書いてますので、間違えていたら教えてください!

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最近の記事

営州と安禄山、そして渤海

山口博先生の「ソグド文化回廊の中の日本」を読み始めました。 安禄山や史思明がソグド人であることは知ってましたが、生まれも育ちも営州(現在の遼寧省朝陽市)とのこと。当時、西の長安、東の営州と呼ばれており、営州はシルクロード交易の拠点だったらしい。 営州にはソグド人や突厥人が多く暮らしていたという。ソグド人のコロニーは300人から1000人単位だと言うから相当数のソグド人が営州に住んでいたと考えられる。その営州のバザールで商人をして節度使に媚び売って成り上がったのが安禄山なの

    • 羊と多胡碑⑤

      「羊」とは誰なのか。「羊」と書かれた瓦が多胡郡から見つかっていることから、やはり一族の名前だったのではないかと思います。 群馬では5世紀から馬の生産が始まっていることから見ても、この地にはかなり昔から渡来人が住んでいたことが考えられます。その渡来人の中に羊氏がいたのではないでしょうか。加羅の人、百済の人、新羅の人、高句麗の人かわかりません。馬の生産に長けているとすれば、北魏の可能性も捨てがたいです。それに北魏の泰山には古くから羊氏がいたのですから。 多胡碑の字を見ると、大

      • 羊と多胡碑④

        多胡碑記念館に売っていた『上野三碑』の井上清『羊大夫二十話』には、  「羊」は新羅からの渡来人であった と断定されていました。新羅の済州島などに羊姓があり、663年3月に上毛野君稚子が新羅との戦いで勝った際に、連れて帰ったのだろうと。(その数ヵ月後に白村江の戦いが起こります) 多胡碑の近くには韓級郷という地域があり、多胡郡の総鎮守と言われる辛科神社が建っています。創建は701年~703年と言われており、韓という漢字からも想像できるように、新羅系渡来人が建てたと伝えられていま

        • 羊と多胡碑③

          「羊」が動物だったというのはやはり現実的ではない気がします。石碑に刻むからにはそのことを後世に伝えたいと願うからであり、羊の牧場について刻む意味がわかりません。 やはり「羊」は人だったのだと思います。 「多胡郡」がソグド人が暮らした町だったと仮定すると、「羊」もソグド人であるのが自然に思えますが、これは違うと言えます。 日本にソグド人が住んでいたとすれば、それはソグディアナから直接日本に来たのではなく、中国を経由して日本に入ります。というよりも、おそらく唐に住んでいたソグ

          羊と多胡碑②

          「羊」が動物の羊だったと仮定した場合、飼っていたのは誰だったのでしょう。 郡名となった「多胡」はすごく興味深い漢字です。 飛鳥~奈良時代に流行した伎楽の「酔胡王」「酔胡従」がソグド人(シルクロードで莫大な富を築いたと言われる中央アジアの幻の民族)をモデルとしていたことがわかってきた今、奈良時代の碑に刻まれた「胡」という文字はソグド人を指すのではないかと期待してしまいます。 胡人が多いから「多胡郡」と名付けられていたとしたら夢が広がります。 多胡郡が創設された頃の世界は、

          羊と多胡碑②

          羊と多胡碑①

          前回の投稿から4年が空いてしまいました。この4年間、中央アジアにも行き、ネタはたまっているので、少しずつ整理していこうと思っています。 上毛かるた「昔を語る 多胡の古碑」 先週、群馬県吉井町にある多胡碑を見に行きました。多胡碑は和銅4年(711)年の多胡群創設を記念して建てられた碑です。平安時代以前に建てられた碑は非常に珍しく、多胡碑の近くにある山上碑と金井沢碑とあわせて「上野三碑」と呼ばれ、ユネスコ「世界の記憶」に登録されています。 吉井駅から徒歩30分くらいのところ

          羊と多胡碑①

          西安博物館のユーモラスな石像

          西安博物館の庭で見かけた、獅子に跨る胡人の石像。 一つではなく、その石像がずらりと並ぶ。 胡人と獅子は関係が深い。 中国語でいう「胡人」は西域の人。ペルシャ人もソグド人も皆一様に「胡人」となる。ソグディアナを故郷としたソグド人は、東西シルクロード交易で莫大な富を得た民族であり、中国に獅子つまりライオンを連れてきたのも彼らだったのではないかと考えられる。 ライオンは古代、アフリカ、西アジア、インドに生息していた。戸倉英美氏の『獅子舞の来た道』によれば、20世紀初頭までは、ラ

          西安博物館のユーモラスな石像