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怒涛の2024年12月〜2025年1月をふりかえる

やっと落ち着いた2月。

公私ともに昨年12月から1月一杯ぐらいまでドタバタしていました。
そのドタバタについて軽くふりかえっておこうかと思います。


病気スタート:2024年12月25日

子どもたちの冬休みがはじまった日であり、クリスマスの日

ツリーの下にあるプレゼントを楽しみにしながらワクワクした顔で降りてきて、その下にあるプレゼントを見て安堵し喜びの顔をするのが毎年の楽しみでした。

家族全員分のプレゼント

写真にあるプレゼントを見ても、長女のテンションがそこまで高くなく、プレゼントを喜びつつもソファーに横になったときから異変を感じました。

熱をはかると「38度」
学校では病気が流行っている中、なんとか冬休みまで病気にならずにこれたものの初日に発症したようでした。

病院で検査した結果は「インフルエンザA型」

我が家の病気になったときの方針は次です

  • 病気を全員に広げないこと

  • 全員にうつったとしても同時にならないこと

なので、私と次女は別の部屋(リビング)で生活をすることとし、寝室を長女と面倒をみる妻の場所とし隔離生活をスタートしました。

隔離生活をはじめる直前に作り終えたのが毎年恒例のチキンです。
結局、この美味しいチキンは私と次女で数日かけて食べることになりました。

我が家のクリスマス定番料理

介護スタート:12月25日〜1月1日まで

長女と妻には基本的にリビングには入ってこないようにしてもらい、寝室で生活をしてもらうようにしました。

このときの生活の中でのルールは次のような感じにしていました。

  • 食事(3食)の用意と配膳:私

    • 出来たら部屋に持っていく(マスクは当然つけて入る)

    • 食器・コップは紙類を使用

  • 長女と妻の洗濯物を洗濯機に入れて洗濯機を動かす:妻

    • 夜、リビングで私と次女が寝てから動かす

    • おしゃれ着がないため乾燥までやれます

    • 服は畳んで私が部屋の前に置いておきました

  • トイレは別々の場所のを使用

  • ゴミは寝室にゴミ袋を用意し、そこにすべて入れてもらう

12月26日過ぎから妻の体調も悪化し、検査した結果は「インフルエンザA型」
想定はしていまいたが、ここから妻もあまり動けなくなりました。

熱は早めに下がったこともあり、長女は12月31日に隔離生活を終了で妻は1月1日にという予定になっていました。

この期間は、「食事を用意する」「家事全般をする」「次女と遊ぶ」を繰り返す日々でした。

次女との自転車練習

妻の不調:1月1日〜1月7日

妻は1月1日に隔離生活を終えたものの、まだ体調が微妙なようでした。
熱があるとかではなくて、頭痛など含めてですがそこまで動けるような感じではありませんでした(妻はちょっと体が強くありません)。

なので引き続き、冬休み中は家事全般と子どもの面倒の大半を担当していました。

長女は12月31日には復活し、そこから「学校の冬休みの宿題」と「チャレンジ12月号全般」を終わらせる必要がありました。

今年は長い連休ではあったものの、こういったこともあり昨年おこなった「東京美食旅」はできませんでした(無念)。

これで妻が復活したらすべてが元通りになるかと思っていました。


仕事スタートと学校スタート:1月6日〜1月13日

1月6日から私は仕事が始まり、子どもたちは1月8日からはじまりました。
この頃から妻の体調は多少良くなって動けるようにはなっていました。

なので、またある程度は日常に戻るかなと思っていました。

そう思っていたものの公私ともにドタバタへ。

まず、学校では3学期スタート時点で少しドタバタすることがありました。

仕事においては、今期がはじまって少しドタバタすることは想定内ではありました。

私が所属するSmartHRは1月が期のスタートなので、1月はミッション(目標)を決めるタイミングです。

今期は等級要件を大幅アップデートしたこともあり、そこに向けてミッションを決めるのがドタバタするであろうと思っていました(そこは想定内でした)。
※ここらへんの話は今度どこかでできればなぁとは思っています。

そこに向けてドタバタし始めた中、義理の祖父の悲報が仕事中に届きました。

義理の祖父の死去と葬儀:1月14日〜1月19日

義理の祖父は昨年から体調がよくなくて、覚悟はしていました。

なので、生きているうちにとういことで妻は12月に会いに行っていました(私は長女の学校もありますし、いかずに家にいました)。
また、なにかあれば家族全員で葬儀に行くと決めていたので必要なものは揃えていました。
(これが年末のドタバタもあり、揃ったのがこの前の週ぐらいという状況でした)

亡くなったという連絡を受けて、そこから急いで行く準備をしました。
会社のルールは事前にチェックはしていたので、そこまで対応に困りませんでしたが(会社にも感謝)、遠方なのでいろいろと旅路に準備が必要でした。

義理の祖父は90前半まで働いていたパワフルな人で、最初にあったときの悪書の力強さが今でも思い出せるぐらいの人でした。

出会ってからずっといっしょに食事をするときはお酒とお魚をたしなむ人で私もそうあり続けたいと思える人でした。

老衰ではありましたが、そんな人でも最期は来るのだなと痛感しました。
(私の両家の祖父母はもう結構前に亡くなっているので、葬儀に参加したのは何十年ぶりなんだろうという感じでした)

忌引をとり、葬儀全般に参加しました。

すべてを終えて、1日だけゆっくりと海を楽しんでから次の日に帰宅しました(移動時間が7時間です)。

いつもいくラーメン屋
近くの海

誕生日祭り:1月19日〜1月22日

最期は蛇足なのですが、1月19日は次女の誕生日で1月22日は私の誕生日です。
我が家は記念日を大切にするようにしています(私の意向です)。

葬儀から帰ってきた日が次女の誕生日でした。
すぐ次女のケーキを受け取りにいき、食事を用意し、用意していたプレゼントを渡してパーティをしました。

私の誕生日は次女の数日後で、その日はお休みを取ろうと思ってたもののいろいろなドタバタが重なり、働く時間をゆるくする程度にとどめました。

その日は家族に祝ってもらって、外で食事をして家で誕生日ケーキを食べました。

誕生日ケーキ(一部)とカード

いろいろとドタバタしましたが、お祝いでしめることが出来てよかったです。

こうやって書いてみるといろいろとありました。
重なるときは重なるものだなと思いました。

子どもたちも病気になる回数も減ってきて強くなったと思いますし、いろいろと気をつけてはいますが、病気にならないわけではありません。

そういった中でも、今は家族全員元気に過ごせているので良かったです。

今年がさらにいい年であるように、いい年にできるように日々楽しんでいきたいと思います。


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