便利と脅威は紙一重

「ステレオタイプ」は何かと嫌われがちな概念だ。

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ステレオタイプ【stereotype】
1 印刷で用いる鉛版。ステロタイプ。

2 行動や考え方が、固定的・画一的であり、新鮮味のないこと。紋切り型。ステロタイプ。「ステレオタイプの批評家」

(https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97)

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この世には科学的になんの根拠もない呪いのような言葉が多く存在する。

例えば、「女は数学ができない」など。

女という生き物には数学はできっこないだろう、という偏見にまみれた文章だ。

逆だって存在する。さしづめ「男は国語ができない。」と言ったところだろうか。

もちろん、この文章の整合性を示す事実はどこにもない。

学問に限らず、女だから、男だから、といったものは存在しない、と思う。(生理的なこと以外は)

しかしこの世界にはなぜか「女は数学ができない」「男は国語ができない」といったイメージが蔓延っている。

私たちはこれをステレオタイプと呼ぶ。

どこからともなく現れて、私たちの思考や脳にイメージを植えつけてくる。

そして厄介なのが、この考え方自体が実際のパフォーマンスに影響を与えかねないということだ。

調べてみるとこの現象を「ステレオタイプの驚異(stereotype threat)」と言うらしい。

本来能力的な部分に差が無いにも関わらず、「○○は~できない」といった言葉に支配されて、結果に表れてしまう。

このstereotype threatが使われ始めたのは古く1995年あたりから。

当時は、「黒人は白人よりも学力が劣っている(intellectual inferiority)」というステレオタイプが黒人の学力検査の結果を下げた、という研究が行われていた、、、らしい。(doi: 10.1037/0033-295X.115.2.336 An Integrated Process Model of Stereotype Threat Effects on Performance, 2008)どこかのreview論文から。

私は、本来の能力を下に見てしまうほど恐ろしいことはないと思う。ステレオタイプな物の見方は、まるで本当の呪文のようである。

やはりこうした考え方は人から嫌われて仕方ないのだとも思う。

では、なぜこれほど嫌われているはずの「ステレオタイプ」というものが未だに無くならないのだろうか。

それは何かを伝えるときに非常に便利だからだろう。

ステレオタイプは人々の共通認識として存在している。

人にイメージを伝えるときに最も簡単に迅速に行う方法として、この共通認識の部分が使われる。

例えば、大学受験の塾でもいいし大人の英会話教室でもいい。「勉強が得意な人」というイメージをCMで伝えるとき。

一般的なテレビCMは長くて30秒、短いときは10秒ほどである。

この短い時間の中で「勉強が得意」といった側面を持つ人物を表現しなければならないとする。

このとき、CM内にもし派手な格好の人物が出てきたら・・・もし、上下スウェットで寝癖のついた人物が出てきたら・・・

私たちはその登場人物に対してすぐに「勉強が得意」なんだろうなという認識はもてないだろう。

この場合たいていそのCMには眼鏡をかけたピシッとした印象の人物が出てくるのだ。

むろん、「眼鏡をかけていること」と「勉強が得意」なことは関わりは無い。

「服装が派手であること」「だらしないこと」が「勉強が不得意である」ということに繋がることもない。

ただ私たちは自然とそういうステレオタイプを使ってしまう。

もはやステレオタイプというものは生活の中に溶け込みすぎてしまっているのだ。

このことを踏まえて、ステレオタイプというものの見方が絶対悪ではないのだろうなと思った。

うまく付き合っていく方法を探っていければと思う。



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