KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭『TANZ』批評:内臓を再発見させるための装置
フロレンティナ・ホルツィンガーの演出する『TANZ』はロマンティック・バレエを題材にした舞台である。
1.学習
『TANZ』の冒頭、舞台中央で一人の女性がお腹の中から長い内臓をかき出していく場面の後、年長の女性が先生役として登場し、生徒役の若い女性ダンサー達にバーレッスンを行うところから始まる。この文章はそれに倣い、普段は分厚い身体に覆われて見ることが出来ない内臓のような、伝統に覆われたバレエの歴史を復習することになるだろう。『TANZ』は比喩としてのロマンティック・バレエの歴史が豊富なユーモアをもって全編様々に散りばめられたパロディは、ある種のレクチャー演劇の様相を呈している。
ロマンティック・バレエは近年、フェミニズムの観点を取り入れた研究が注目されている。『TANZ』はこのロマンティック・バレエにおける女性の身体と、それに対する男性からの性的な眼差しへの議論が主題のひとつであることは、舞台の登場人物たちが全員女性の身体を持ち、裸でロマンティック・バレエに興じることにも表れる。またそこから、女性身体や身体そのものへの観察と問いに関心が広がることは、出産シーンや流血、生と死などのモチーフが盛り込まれることなどにも明らかである。
しかし、歴史をさらに遡って気がつくのは、バレエにおいてロマンティック・バレエ以前は男性ダンサーが中心の時代があったことだ。つまり、バレエにおける女性身体への男性からの性的な眼差しは、後から形成されたと言える。にもかかわらず、フェミニズム運動の活発な現在において、また、よりその議論が進んでいるであろうヨーロッパを含む世界中で、三百年前の演目や技法が上演され続けるのはなぜか? その問いを、この『TANZ』という作品を通して考えることも可能だろう。
2.鏡とカメラ
『TANZ』の「身体支配の学習 バレエの練習」と題された第一幕は、バレエスタジオの壁面を囲う鏡を想像させるべく、舞台をシンメトリーに配置する。人や物や出来事がおおよそ左右対象にして均等を保ち、真ん中に位置するのは、先生役の女性であり、奥にある大きな壁だ。先生の左右にバーが配置されて、生徒役の女性達が教えられるがままにバレエの基礎レッスンに興じる。
寡黙で従順な生徒たちに比べ、先生はうるさいくらいにしゃべり、指導する。その中で何度も発せられる「マエストロ、音楽をかけて」という言葉は、口癖のようにも聞こえるが、これもバレエにおける身体支配のための重要な合図の一つだ。バレエは技術のみを誇示するのではなく、音楽に調和した身体の動きが求められる。音楽はリズムによって身体支配を促す。
突然、先生は「ここは暑いから服を脱ぎましょう」と言い出す。女性の身体と衣装の関係はしばしば、フェミニズム観点で議論される。ロマンティック・チュチュは、スカート丈を短く切り詰めることで、軽量化、短縮化し、身体の可動性の拡大へと繋がり、それにより技法の進歩を導いたとされる。しかし一方で、機能性だけでなく、性的表象による変化とも指摘される。
先生は「暑いから」というもっともらしい理由を付け、服を脱ぐように生徒に促し、身体を露出させる。そこには本来の目的を婉曲に指示するいやらしさがあり、極度の不快感を伴う狡猾さがあった。そしてその後、結局実際に全員が裸になり、舞台上の人物たちがそのまま裸体で演技が進行したり、また、舞台上を駆け回るカメラによって撮影され、詳細に映し出された映像や、その後の先生による明からさまな性的な発言よりも、この婉曲な台詞の方が、不快感が勝っていたのが印象的だった。それは、バレエにおいて押し込められた女性の歴史のようでもある。
3.バイクの舞踏
舞台上ではバレエレッスンと並行して、同時多発的に異なる文脈のパフォーマンスが複数現れる。奥に二つ、白い布に被さった物体(のちに布が取り払われてバイクと判明する)の中から赤毛の女性が目を覚まし、鏡を見ながら化粧をする。奥の壁の上からは黒いジャケットを着た魔女風の女性が降りてきて、舞台上で嘔吐したり、箒ではなく現代風に掃除機を乗り回す。バレエの背景にあるヨーロッパの伝統や風習、風俗としての女性の象徴が、化粧や魔女といった形で表象される。
二人の女性が舞台の左右に分かれて、腰まである長い髪を水の入ったバケツに入れ、髪の毛を洗う。身だしなみの延長かと思われたその作業では、一方の女性が三つ編みにした髪の毛に丸い銀色の輪を組み込んで、頭の上に取っ手のような輪を頭の上に付けた。頭上に取り付けられたそのリングは、レッスン項目の一つである「床から離れる方法」の実践として、のちにワイヤーで吊り下げられ、女性の身体を浮遊させるサーカスへと変貌する。しかしこの宙吊りは過去においては一般的なバレエの手法として存在した。
ワイヤーで吊り下げられているものは他にもある。それはバイクだ。舞台上でエンジンの止まった、どこへ行くことも不可能な、宙ずりにされた移動のための機械は、人間の裸の身体とは対象的に、硬くて大きな鉄の塊である。また、多少一面的かもしれないことを断りつつ、一般的にバイクは男性を想起させるアイテムとしても機能している。舞台の左右に配置された二台のバイクには、各々に女性が全身を滑らかに絡ませて、静と動、硬と柔を併せ持った繊細でアクロバティックな舞踏を舞う。それはダンスの素材としてバイクを扱っているというよりも、バイクの身体とともにダンスをしているように思えてくる。
4.誕生する子ネズミ
「子ネズミ(プチ・ラ)」という言葉が登場する。第一幕で先生は生徒たちにネズミになるように促す。舞台の流れではそのあと、生徒たちにその場に並んで自慰行為をするように促す。
子ネズミとは、バレエではダンサーの卵のことを指す。いくつか由来があり、練習で小刻みに動かす足音がネズミの足音に似ていることや、ダンサーという職業が田舎から出てきた貧しい家の娘の受け皿としても機能し、パンくずなどを食べて痩せ飢えていたため、ネズミといわれたことなどが挙げられる。その貧しい娘を性的な眼差しで見つめたパトロンのブルジョア男性の存在は前述の通りである。
また、第二幕では先生は自らの身体から生物の機能として子ネズミを出産する。椅子に横たわり赤い血糊で血まみれになる老年の女性の身体を持つ先生、黒くて鳴かない子ネズミを取りあげる魔女、時間をかけて展開されるその出産の様子を撮影するカメラ。現実と虚構の混ざり具合によって、そこには誕生の神秘性以上に、増幅されたグロテスクさが感じられる。
先生は舞台上で、第一幕ではレッスンによりダンサーという子ネズミを産み、第二幕では生物学的な出産により子ネズミを産む。二つの誕生には、この舞台における生物学的な男性の不在と、それ以上に存在感のある社会的な眼差しとしての男性が、子ネズミを通して描かれる。
5.妖精の森
『TANZ』において、妖精の存在をもちいてこの舞台がロマンチックバレエの歴史を再現する重要な場面がある。第一幕と第二幕の間で、妖精の森を保護するための寄付をダンサーが観客に募る場面だ。舞台上のダンサーは観客に対して、誰でもいいのでお金を貸して欲しいと呼びかける。一人の観客が立ち上がり、お金を提供しようとした際に、ダンサーはさらに、少額の硬貨ではなく、高額の紙幣を要求する。
ここでの演出は巧妙に、観客とその経済力へ目を向けさせている。
ロマンティック・バレエのフェミニズム観点の議論では、技術面や衣装面だけでなく、経済面でのダンサーと観客の関係が指摘される。それにはバレエのメッカであるオペラ座の財源確保への取り組みが大きく関与する。
ポイントは二つある。一つは、フランス革命や産業革命といった政治体制・経済発展の変化でその担い手も変化し、オペラ座でも観客の標的は、男性の新興ブルジョアになっていったこと。そしてもう一つは、国立だったオペラ座が民営化に伴い、威信を保ちつつ一人でも多くの新規ブルジョアを引き込むため、観客の序列誇示システムが導入されたことだ。観客席をランク分けし、財力によって観客を差別化する。そしてボックス席は、高級座席にいる自分の姿が他の観客から見える構造にした。それにより自らの特権を他人に誇示し、優越感を得ることが出来るのだ。また、限られた階級の男性観客のみ、バレリーナの練習場の出入りが許されるパトロン制度が存在した。こうして貧しい女性ダンサーを経済的に支える男性の新興ブルジョアが誕生した。
当時隆盛していたロマン主義は、オリエンタリズムや神秘主義に傾倒し、教条主義から解放された結果、個人的感情や恋愛賛美などが容認される様になる。それは、妖精の存在を支え、妖精の住む郊外の森を支える思想であり、パトロンという一種の自由恋愛を促進する背景となった。
さて、『TANZ』における妖精の森の寄付を観客に募るパフォーマンスである。妖精は女性ダンサーの比喩であるが、寄付はパトロンを意味する。ダンサーによる提案方法は、会場にいる観客のジェンダーを問わずパトロンになる機会が提示され、現代的に平等に基づいていたといえる。しかし、金額に紙幣を指示をした点は、オペラ座における財源確保システムに倣い、一定額以上の金額を指定したのだろう。そして、寄付者がパフォーマンスに組み込まれ、注目されることで、寄付自体を特権として捉えることも可能であるし、特別な証明書も渡される。また、このパフォーマンスの続きは、寄付者から差し出された紙幣を用い、客同士が座席間でその紙幣を受け渡し、最後に一人がその紙幣を隠し持ち、ダンサーがその紙幣を隠した観客を当てるゲームへと展開する。観客が紙幣を通して観客同士を観察する仕組み自体が、オペラ座における観客の序列誇示システムの比喩なのである。
6.飛躍の秘密
妖精の飛躍と人間の飛躍を比較する。妖精は架空の身体を持つため、痛みを感じることはない。一方で、ロマンティック・バレエでは、トゥ・シューズを代表とした痛みを人間の身体は引き受けながらも、その痛みを隠蔽し、あたかも妖精のように優雅に舞踏することが奨励される。妖精という概念が人間の理想に合わせてカスタマイズされる様に、ロマンティック・バレエにおいては人間の身体が妖精の概念に合わせてカスタマイズされる。
『TANZ』では、裸の人物の背中の皮膚に直接施された天使の羽根のように巨大なボディピアスを装着し、ダンサーは飛躍する。舞台上、奥の片隅で、ゴム手袋を装着したパートナーによって入念に身体にボディピアスが装着される。準備からすでにパフォーマンスの一部であり、ボディピアスを装着する過程において、両者の信頼関係が伝わってくる。それは女性ばかりのこの舞台が、シスターフッドとも捉えられることを示唆する。単純な二項対立の片側としてのジェンダー以上に、多様なジェンダー概念の存在をその舞台上の役者の距離感から感じ入る。目の前にある現実の身体がそのように物語っていたように見えたことのも事実である。
そのように現実に目の前で準備された痛みを伴う身体の跳躍は、物理的な原理が銀色の大型のボディピアスと身体と鎖という、見た目には単純明快な種も仕掛けもない手法であることを証明する。にもかかわらず、その状態で人が宙に浮かぶ事実は、本公演でも最も驚きと緊張をもたらす場面の一つであり、現実からかけ離れたイリュージョンを見ている心地があった。しかし、このイリュージョンの種明かしの本質は、目に見えていた物理的なものではない。目に見えない、長年時間を掛けて行われた特別な身体訓練とその訓練の経験が刻まれた身体ということになる。
7.内臓の再発見
最初の問いに戻ろう。バレエがすでに何度も隆盛を繰り返す中、現在の形で現存する理由は、それを覆ってきた伝統や権威といった皮の厚さそのものが原因の一つではないか。
バレエのフェミニズム批判を含む身体支配への抵抗として、イザドラ・ダンカンらの登場によって誕生したモダンダンスというバレエの外部の潮流や、伝統や形式を保った脱構築というバレエ内部のポストモダニズム的な創造が、その伝統や権威を内在させてしまっていたのではないか。内臓はそこにあるとはわかっていながらも、人間がどれだけ裸になったとしても、身体に納まり分厚い皮膚に覆われて、本来なら見ることの出来ない。
その内臓を、全く別の方法で、別の目的を持ち、『TANZ』は様々なパフォーマンスの融合を試みる。『TANZ』は、舞台の観客、ひいてはその背後にある社会に対して、隠れていたロマンティック・バレエにおけるフェミニズムの歴史という内臓の存在を再発見させる。そして、攻撃や対立で終わらせるのではなく、床に散らばった、舞台上で繰り広げられる歴史という名の内臓を空中から眺めることで、考察とダンスの両側面において、次の段階へと飛躍させる装置となることを目的とする。そのために、豊富なユーモアと創造力と時間を掛けた鍛錬を用意し、女性自らの思考と、女性自らの身体を、女性自らの責任を持って利用するのである。
参考文献
『バレエとダンスの歴史 欧米劇場舞踊史』(鈴木晶 編著 平凡社)
『バレエの歴史 フランス・バレエ史 宮廷バレエから20世紀まで』(佐々木涼子 学研)
「ロマンティック・バレエとクラシック・バレエの技法とイリュージョン~見える原理と見えない原理」(稲田奈緒美、2003)