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【小説】白い猫と青い砂

 成人式を迎えるオーブンレンジを買った。二〇〇三年製。二十歳というと人間で言うとただの大人だけれど、猫の年齢に換算してみたら、もういい年寄りだ。春に地元の大学の文学部を卒業して、新卒で就職したはじめてひとり暮らしをした。引っ越した街のリサイクルショップにあった一番安い中古品のオーブンレンジだった。「千円」と赤いペンで値段が書かれた紙は少し日に焼けていたけれど、定期的に掃除をしているようで、埃も被らず小綺麗だった。店のおじさんは自分の店で売っておきながら、口ではレジで規定の接客をしながら、妙なものを買う奴だと目だけでこちらに言う。目は口ほどにものを言う。大きな白い四角を抱えながら店を出た。向かいのマンションの桜が満開に咲いていた。桜の陰になった塀の上に毛並みのよい白い猫が寝ている。白い体に薄桃の斑が出来ていた。猫のあくびが空まで浮かぶぐらい晴れた青い空だった。

 寝る前に飲む牛乳を温める。オーブンレンジを使うのはその時ぐらいだ。夏でも温かい牛乳を飲むとよく眠れる。ワンルームの東窓のある台所の冷蔵庫の上で、白い四角い箱が収まる光景は白い猫が寝ているみたいだ。秋口にもなれば日々の生活の一部として見慣れたものになった。「猫だったら鳴くかもね」と思ったりしていると、冬になって少しばかり、だけど大きな難がオーブンレンジに出始める。その具合は、旧式円形回転盤を回しながら、ジージーと稼働音を鳴らすのだ。猫の鳴き声とは程遠い機械音。冬の寒さで調子が悪くなるのは、人も機械もよく似ている。だけどその音は日増しに大きくなっている。静かな夜に壁の向こうのマンションの隣人の目が覚めるのではないかとヒヤヒヤするくらいに。
 夜の黒さとはどこまでも対照的な液体を冷蔵庫から取り出す。注ぐマグカップは子どもの頃から使っている。側面に描いてあるのは昔テレビで見てたアニメのキャラクターの青いロボットだ。毎週困ってる誰かを不思議な発明品で助けてくれる。子どもたちのヒーローだ。子どもの頃は大人になったらいつかヒーローが現れるんだろうと思っていたけれど、大人になるにつれて子どもの夢の中にしかヒーローはいないように思えてくる。
 温まった牛乳がお腹の中に辿り着くと、夜の断片を体の中に連れてくるみたいに、眠りにスッと変わる。優しい眠りの妖精だ。だけど、ドイツの作家の小説では、眠りの妖精である砂男は、眠らない人間に砂をかけて、その人間の目玉をくり抜き、半月にある家にいる自分の子どもにその目玉を食べさせる。その奇妙で恐ろしげな話は悪魔じみている。鉄の扉のようなまぶたを閉じて目玉を隠す。

 その日も夜に牛乳を温めた。寒いとうんと温かいものを飲みたくなる。それから余計とオーブンレンジの稼働音が大きくなる。
「もうちょっとだけ静かにならないものかな」オーブンレンジのボタンを押すと、庫内が明るくなり、またあの騒音が鳴り出すかと思いきや、聞こえてきたのは声だった。
「隣人が目覚めてもご安心を。我々の悩みを解決してくれるヒーローを連れてまいりました」
気がつくとオーブンレンジの左上角に小さな老人が足を組んで座っていた。その小さな老人はスッと立ち上がり、したり顔で胸の前に手をやり丁寧なお辞儀をした。
「私はジャック。砂男でございます」
「人から生み出されてこのかた、世界の片隅で長年過ごしているモノたちの意識の集い。私どものように家電製品をはじめとする「物」。それから、人が生み出したのは物だけではございません。妖精や悪魔といった「者」たちもおります。老いたモノたちの集る場所で、私はジャックさんと出会いました」
 この小さな老人がずっとしゃべているように思えたけれど、声色は二つある。太いダミ声と甲高い声だ。ダミ声は砂男が口を閉じている間も聞こえている。
「お察しの通り。初めましてと言うには水臭い気もします」
 ダミ声はオーブンレンジだと名乗った。信じられないけれど。オーブンレンジの上で神妙に頷いていた砂男の口が開く。甲高い声が響く。
「いろいろとお話を伺いしましてね。私は眠りの妖精でございます。私が力になれることでしょう」自信ありげな態度だった。
「ヒーローのような方ですよ」とダミ声の主が嬉しそうに呟く。
「もし隣人が起きてこようなら、その目に私が砂を投げ込んでやりますよ。すると一瞬でそいつはまた眠ってしまうことでしょう」
 奇妙に不快な心地のする音が鳴り響く。不安な気持ちにさせる。だけどそれはジャックの笑い声だと気付いた。その不気味な笑い声や、丁寧さに混じるささくれだった物言いに、砂男が人の目玉をくり抜く話を思い出した。好意で心配された末に犯罪が行われては困る。
「滅相もございません。昔話を持ち出されちゃ困ります。残酷さなど時代遅れも甚だしい。昔は眠らない子どもをいかに脅すかが主な役目でしたけれど、今じゃ現代の価値観に寄り添うことが重要であり、価値観の変化は技術の進歩を促します」
 砂男はそばにある灰色の袋を叩いた。膨らんだ袋は拳二つ分ほどの大きさか。
「最新の砂がこの中に入っています」

「子どもの疑問は宝です。ある日、眠らない子どもが問いました。砂が目に入ると、目が痛くなって寝られなくなる。生意気じゃありませんか。目に砂どころか口に大きな石をぶち込んで、二度としゃべれなくしてやりました」
 またあの奇妙な音。耳の中で響きこびりつくようだ。この笑い声を聞くと生理的に不安になる。オーブンレンジがヒーローと呼ぶこの砂男の何を信用出来るか。疑心暗鬼になる。
「冷静になってから、子どもの話を真剣に考えてみたのです。砂の改良を重ねました。そして完成した砂は投げ込んでも目が痛くならず、異物混入に反射して目を閉じそのまま眠りにつく効果が発揮されます」
砂男の話にこう答えた。
「目に入れても痛くならないなら粉末型点眼睡眠薬ですね」
「今粉末とおっしゃいましたか?」
「砂を目に入れるのだから粉の目薬じゃないですか」
砂男はさっきまでの余裕ある態度から急に顔を真っ赤にして立ち上がり、オーブンレンジの上で激しく興奮の地団駄を踏んだ。予期せぬ襲撃にオーブンレンジは意味を成さない悲鳴をあげ、砂男はそれ以上に大きな声で怒鳴った。
「砂は砂だ。断じて粉ではない」

 冷蔵庫の中で寝てるみたいだった。だけどそこは台所で冷蔵庫の前だ。冬の早朝の底冷えた床はそれくらい寒かった。磨りガラスの窓に黄色い色の光が差し込んでいる。そんな場所で朝を迎えた。なぜこんなところで寝てるんだっけ、とぼやけた頭を抱えて、ふと、オーブンレンジを見ると、中にマグカップが入っている。そういえば、昨日も寝しなに牛乳を飲もうとしていた。取り出した牛乳は冷たかったけれど、それが一度熱が通ってから冷めたものであることは、表面で揺れる薄皮が物語っている。温め直そうか、とぼんやりする頭で考えようとしたら、急にひどい寒気、次にクシャミを一つして、ガンガンと頭痛がはじまった。体温計は三十八度六分の熱がある。目がいつもより重い気がした。
 三日間仕事を休み、寝込んだその間、こんな時こそオーブンレンジの温め機能が便利なのだけれど、朦朧とした意識の中で、どういうわけかそれが憚られた。牛乳もガスコンロで温めた。

 風邪が治った頃に久しぶりにオーブンレンジで牛乳を温めてみた。ボタンを押す。聞こえてきた声色は、意識の水平線の彼方ほどに押しやっていた数日前の記憶を波のように引き戻した。
「先日はご厄介をおかけしました」ダミ声は少し弱気だった。オーブンレンジの上に小さな老人が座っている既視感ある景色。途切れていた線が一本に繋がり、同時にその線は絡まった。
「ジャックさんがあの晩、あなたの目に砂を投げつけたせいで、あなたは一瞬にして眠りました。そのあとひどい病気になられて」
 腕組みをしながらふてくされた顔が口を開く。
「黙らせて眠らせるだけのつもりが病気になるとは、人間は軟弱だ」
「人助けに来て喧嘩してもらっちゃ困ります」ダミ声の主が仲裁する。
「なにか怒っているのだろうか」一向に訳がわからない。
「反省のない大人の愚問はまるで沼だ。貴様なんてその沼の泥の底に沈んでしまえばいい」
砂男はまたオーブンレンジの上で激しく地団駄を踏み始めた。
「貴様は私の砂を粉と呼んだ。砂は砂だ。粉では毛頭ない。これは立派な砂だ」
ようやく粉末型点眼睡眠薬と口を滑らせたことを思い出した。
「ジャックさんは砂を誇りにされています」ダミ声の主は苦痛に耐えながら訴えた。
口は災いの元だったようだ。だけどそれなら、砂男の怒りを鎮めるかもしれない方法を試す。
「先日その砂には強い感銘を受けました」
砂男の尖った耳がウサギのようにピンっと立ち、地団駄を踏む足がピタッと止まった。
「あの晩目の痛みはなく、いつ眠ったか全く気付かなかった。それはあなたがが言う通りだった」
砂男は嬉しげな顔をした。
「おやそうでしたか」
「これ程までその砂の効果を堪能したら感動する他はない。素晴らしい砂ですね」
「まあそうですとも」
 砂男は引き寄せた袋の口を開いた。そこには青色の砂が入っていた。それから砂男はこの最新の砂を作るまでの工夫を熱弁した。その試行錯誤はまるで錬金術を思わせた。
 砂男は、次は眠りだけでなく、夢を支配する砂を作りたいと意欲を語った。そして、それからまた、砂男は例の奇妙で不気味な音を立てて笑った。安心感は束の間、不安な気持ちを増幅させながら、夜は更けていった。

 翌日、オーブンレンジはパタリと動かなくなってしまった。何度ボタンを押しても電源が入らない。猫だったら土に埋めたりお墓を作ることもできただろうけれど、動かなくなったオーブンレンジは素っ気なく粗大ゴミのトラックに回収されていった。
 結局隣人から何も騒音のクレームはこなかった。あれ程おしゃべりをしたオーブンレンジと砂男の会話は現実だったのか夢だったのか。境目の曖昧な記憶が残った。
 生活の中でオーブンレンジがないと不便だから、冬のボーナスで新しいものを買った。以前から気になっていたスチーム調理機能がついた機種だ。二〇〇四年に開発されたこの技術は二十年経ってより改善されている。新しく便利な機能で、前よりも料理をする機会が増えた。手作りのパンやラザニアなんかのこれまで作ったことのない料理を新しいオーブンレンジで作る。多様な料理を作って活躍するオーブンレンジは猫みたいではなく、ただのオーブンレンジだったし、一向にオーブンレンジからおしゃべりは生まれなかった。

 翌年の春。オーブンレンジの上に毛並みの良い白い猫が乗っていた。驚いたが、気候が良くなり開け放った窓から春風に乗って入ったようだ。捕まえようと寄っていくと、足元に痛みがあった。床にはマグカップの青い破片に混ざって、桜の花びらが広がっていた。猫の後ろ姿が窓の外に消えた。
 新しいオーブンレンジの上に、青色の小さなものが載っていた。それは小ぶりの青いマグカップだった。他にないので仕方なく、夜、牛乳を入れて温めた。
 その日の夢にあの見慣れたオーブンレンジが現れた。懐かしいボタンを押すとダミ声が聞こえる。
「ジャックさんの新しい世界へようこそ」
「ミルクのお味はいかがでしたか。マグカップは私の新しい砂から作りました。新しい砂は眠りを促した上、その眠りに夢を引き寄せます。その夢は我々のいる場所へ続いているのです。これで私は夢の支配者となりました」
「これでいつでもまた我々はお会いすることが出来ますね」
 夢のような現実から、現実に続く夢へ。幾重にも重なった夢の中で、またあの音がした。やはり奇妙で不気味で不安な、さらには執着的な依存を予感させる笑い声だった。この夢が覚めたら、マグカップを割ってしまおう。きっとどこまでも追いかけてくるこの夢から解放されるだろう。だけど、目覚めるた時まで覚えていられるだろうか。
 その空間は自分の部屋とそっくりだった。白い猫がいた。白い猫は青い砂の敷き詰められた空間に座っている。青い砂は次第に机や本棚、ベッドの上に積もり、ゆっくりと厚みを増していく。それはまるで砂時計のようだった。(了)

2022.3.9.22:56最終改稿

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