映画『共同性の地平を求めて』の感想

岡山映画祭2022で『共同性の地平を求めて』(1968・1975 能勢伊勢雄)を観た。
『共同性の地平を求めて』は荻原勝という造反教員のモノローグの映画だ。荻原氏は1968年岡山大学の学園紛争で学生側に味方して、沈黙の講義をした人物。教員側からも学生側からも孤立した。そのような状況を生きていた中で荻原氏から語られ、掬い上げられた言葉には、本当の孤独と共同とはなにかについての考察が記録されている。
モノローグ。現代に溢れている言葉が、SNSやチャットが全くモノローグではない点を示しているとも言える。情報であり、承認欲求であり、自意識の塊であり、そういうものでしかない文章や言葉が溢れているのは確か。そう考えるとモノローグという形式は、今日こそ必要な形式のように思えてくる。
さらに現在の政治的意識は分断の時代でもあって、分断された中で連帯に属するのか、連帯とは異なる人間の関係性を見つけることが出来るのかを試されているように思えた。
萩原氏が宮沢賢治を語るくだりは、宮沢賢治論の発見があって面白い。宮沢賢治の言葉を「お経」と発見する。詩になると形式だけど、お経もモノローグに近いんじゃないか。
宗教性のある言葉。人間の内面が、カメラ(録音)という「ただ写す(録る)」だけが可能な機械から関係性をすくい上げることが出来るということも、これだけ映像作品が溢れている現代において、とても新鮮だった。

映画に映る学園紛争の景色に、現代的なSNSの連帯っぽさを感じた。だから、この映画は全然古くなくて、むしろ今見た方がいろいろわかりそうだ、と思った。この映画が学園紛争は素材であって、ほんとうの主題ではないところもそうさせている。

この映画で学生が綺麗に連なってデモをしている映像に、小学校の運動会の時の集団演技っぽさを想起させられた。外れた行動をとる人がいない。練習や訓練に見間違う。先頭に一列の警察隊が一列程対峙していたと思うけど、それもそういう形式であるような。その規格に沿って並べられた人たちの姿が、現代のSNS(特にTwitter)の具現化された姿のように感じてしまった。普段からそうでもあるし、デモで言えば、Twitterデモの、タイムラインに並べられた、Twitterという枠の中だけで起きる点や、ハッシュタグデモの上下の投稿は全く関係ない話題だったりする点など。いちいち誰がそのハッシュタグを投稿しているかも知らない。
最近見た闘争の映画は香港の学生の籠城の『理大囲城』(2020香港ドキュメンタリー映画工作者)で、これはよく日本の68年の学園紛争と比べられる。今回の映像よりもはるかに『理大囲城』の方が混沌とした状況が映っていた。岡大闘争ももっと激しい暴力的な場面も多分にあったのだろう。上映後のトークでは学園紛争の映像は、当時ニューズリール的に撮影されていたという話もあった。
それから、私が知っている映像的学園紛争は、『パルチザン前史』(1969 土本典昭)と『マイバックベージ』(2011山下敦弘)か。『パルチザン前史』は火炎瓶の作り方が印象的な映画、『マイバックベージ』はフィクションのドラマだし、結局社会的出来事の事実としての学園紛争は、私は結局よくわかっていない。
学園紛争が日本の歴史的な事実だけど、どこかフィクションめいた感じがするのは、その特殊な状況に対する本質的な理解と、当事者たちの内面の理解の両方にたどり着くのが難しいからなのではないか、と思う。
会場の質問者の女性に同時代を生きたのに、いまだに理解できなくて執着して学園紛争が何だったかを探し続けている、と言っていた人がいたけれど、その時代を同時代の人ですらそうなのだ。だけど、その政治や政治に対する感覚も、何も学園紛争に限ったことではない。

モノローグは孤独の重さだ。けれど、言葉は共同の可能性を持っている。この映画は時代とは無関係に孤独を共有する。

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