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[難病] 病気による「見た目の変化」に対する気持ちの言語化
自分が難病になった理由を、自分なりに理解しようとしている。
難病がわかってから、もう約6年は経つのかな。
ずっと病院に通って、毎日薬を飲み続けて、それがライフワークのようになってしまっていて、重い病気にかかっていることをまだ自分ごとのように捉えられていない。
10代、20代、今も、気にしている”見た目”の話。
自分を客観視して、髪を整えたり、お化粧をしたり、どんな服を着ようか考えるのも大好きで楽しかった。それは、飾るのが楽しいと思える「自分」が物理的に居るから、居てくれるからだった。
難病がわかった時から約4年ほどは、足が腫れてしまうために着圧ソックスを履いていないと生活ができなくなった。
着圧ソックスは黒やベージュしかなく、膝下からの長さがほとんどで、夏だろうがどんな時も黒くて長い着圧ソックスを履き続けた。サンダルやヒールのある靴は履くことができなくなった。
この段階で、自分が今まで楽しんでいたファッションはかなり制限されるようになった。
今は治療も進み、着圧ソックスが不要なほどに改善できていることが救い。それでも足に負担はかけられないから裸足は無理で、靴下の色を楽しめるくらい。履ける靴もかなり限られている。
足は腫れ、足首も見たことがないくらい太くなった。どこも打っていないのに足にはたくさんのアザができた。足首は色素沈着している。病気をする前の、自分本来の何もない足が尊く感じた。
そして薬の副作用はさらに大きく、自分の顔も身体も変えていった。
特に、約6年間飲み続けているプレドニン(ステロイド)が影響している。最初は3mg程度から始まり、10mg台を3年くらいかな。一気に45mgまで増やし、そこからまた減らしてきている最中。
見た目の変化としてはムーンフェイス、野牛肩、お腹が出る、太りやすいなど。
そんな今、自分自身を飾ることを楽しめなくなってしまった。
こんな髪型にしたい、でも今の自分じゃ似合わないだろうな。
こんな服を着たい、でも肩が盛り上がってしまっているからおかしいだろうな。
この人に会いたい、でもこの見た目で会いたくないな。
今を写真に残したい、でも写真を撮るのが怖いな。
自分の見た目を重視することは浅はかなことだと思っている。わかっている。
だけど、自分の努力だけでは何も解決できないことが、今まで普通に暮らしていた時には知り得ない感覚だった。
そして視覚情報はあまりにダイレクトで、自分の心を落ち込ませた。
鏡を見ることも、写真を撮ることも、少なくなった。
自分の見た目のことを考えないようにした。
だけど、服を新調したり、髪を整えたりすると、やっぱり心は踊った。
それでも写真を見て驚いて落ち込んで・・その繰り返しだ。
これは、過去に見た目を重視しすぎていたことへの罰なんじゃないか。
見た目よりも大事なことに気付くようにと、教えてくれているんじゃないか。
自分が病気になったことを、そう理解しようとしていたりもする。
(これは本当に私個人の話なので、どうか他の人には当てはめないでほしい。)
病気になってから、圧倒的に色々な物事への視野が広くなった。
こうやって自分の意思とは関係なく、身体に影響が出て、悩んでいる人がきっとたくさんいる。痛みや苦しさといった、本人にしか程度がわからないものではなく、視覚情報として周りの人から見える部分での話。
視覚情報に重きをおいて考えてしまうのは、その人の意思や考えが表(見た目)に現れるもの、という気持ちがあるからかもしれない。
服装、髪型、持ち物、化粧、体型、など全てにおいて。生まれもっていて変えられないもの以外の全て。
だからこそ、「自分の意思とは反する、見た目に関しての副作用」が出ていて、それに合わせたものを選び取らなくてはいけないことに、辛さを感じるのかもしれない。
そんなもの気にせず、自由に好きなものを選びなよ!って思う部分もあるんだけど、今までの人生で、個性よりも「合っているか、合っていないか」に敏感に生きていきたから、どうしても今の自分に合わせてしまう。
いつか前の自分に戻れることを信じているから、まだ気持ちはどん底まではいっていないけど、戻れなかったら?どうする?でもそんなことも考えたくない。
きっと完全には元に戻れない。
いつか、新しい今の自分のいいところも見つけられるかな。