遅くなり過ぎたガンダムシード映画rev2
こんにちは、こんばんは
note、書くことは難しいですね。。
6月ごろにはまった、ガンダムSEEDFREEDOMについて書いていきます。。
ガンダムSEED FREEDOM 良かったですよね。
私は2回観ました。
1回目は前情報なしで、5月下旬に見て、2回目は上映が終わる前に駆け込みで見に行きました。
1回目も、2回目も、見るのが遅かったのですけど、観客は多かったですねぇ。俺たちのガンダムシードは終わらねぇッッ。
私は1回目を見て、絵がきれいで、懐かしのキャラが出て、喋っているのを見てそれだけで感無量でした。ありがとう、成仏しました。
フレイ・アルスターというキャラがおりまして、上映後、フレイ出てこなかったなと思い、思い出したくなってガンダムSEED(アニメ全50話くらい)を見て、ガンダムSEEDDESTINY(全50話くらい)を見ました。気付いたら、視聴していたのです。信じられないと思いますがry(ポルナレフ風)
そうこうして映画、2回目を見に行きました。上映、終わるらしいんでね。(2024,6月ごろ)
追加上映?2024/10/27現在、く、、い、いくしか。
そうして、2回みた映画の感想のnoteになります。
3回目、4回目はまだ、見てないです。
フレイ・アルスターのキャラについてです。
共感でした。
私のフレイのおぼろげな記憶(映画1回目)は、何か髪赤くて、最後の方は主人公と一緒にいなくて、あまりイイ印象はありませんでした。けれど人間くさいところが、共感を呼んでいました。
映画1回目を見た後、私の時間はフリーダムになったのか、
アラサーになって、ガンダムSEEDを見ていました。
この方はちゃんと個人の思い出に向き合っている感想で、幼少期の記憶のままフレイと折り合いをつけていました。私はおぼろげな記憶では折り合いを付けられない(フレイをもう一度知りたいというか、動機は現実逃避になっちゃうのかな、うぅ)ので、ので!もう一度見ちゃいました。見ていました。気付いたら。無意識だから、仕方ない、抗えない。うんうん。
自分と向き合う、っていろんな場面で出てくると思いますし、どれも億劫に感じるのですが、この方は逃げずに言語化したのです。すごいです。
映画の感想です。
視聴1回目 情緒はジェットコースター いい意味です。
ジェットコースターの内容,感想↓↓
1)キラとラクスのすれ違い。SEED世界でも、しんどいすね。
2)ラクスさん、揚げ物作り過ぎじゃないですか。
3)歌、音楽、動き、うっうぅ、泣
4)アークエンジェルが撃沈!?、、映画だからってなんでもして言い訳じゃないすよ(憤り)⇒ズゴック!?⇒アスラン!?
5)シン、YOUやっちまいなっ。
6)マリュウさん達怒涛のクライマックスに心の桶が決壊。
他の方の感想を見ながら、ふと友人の言葉を思い出しました。
”美術館にもし2回行くときがあるなら、1回目より作品を調べてから見ないといけないよ。そうして作品をより深く見ていくんだ” CV:石田彰
って言葉がありまして、げふんげふn、きっとこの声のせいで私は無意識に合計100話近いアニメを、気付いたら見ていたのです。
そういう訳で、きちんとガンダムSEEDを履修した、
ガンダム人間となり果てたのです。
子供の時にはわからなかった設定、世界観、ストーリーを理解できたのは良かったのです。映画の理解に役立つし。
けれど、ここで大誤算です、私はフレイ・アルスターに大,大,大没入していました。予期せぬ副生成物。誤差範囲にならない数値のズレです。修正せねば。。
フレイ・アルスターというアンリマユと呼びましょうか(失礼)
を抱えたまま臨んだ2戦目(映画2回目)を見ました
視聴2回目 心は高速道路運交中 なんかおじさん臭い例えですね。
ガンダムSEEDが良すぎて消化不良で、正直、眠たくなりました。映画を11回観たファンがいるとか、6回観た!とかyoutubeの宣伝のコメント欄に見かけましたが私はちょっと無理でした。
原因はわかっています。正史を履修してしまったからです。
本映画はアニメ終了後10年以上経ち、そのかつて観た方のおぼろげな記憶,思い出をベースに成り立つ映画だと感じました。私の最初の1回目が一番良い楽しみ方だったのかもしれません。正史を学び、臨んだとしても現実世界における空白の10年間がありません。SEED世界の時系列を学んだとして、実際は現実世界の時系列,時間が必要だったのだと気づきました。
みんな忘れてるよね、思い出させてあげるよ、っていう演出が確かに多かったですもんね。ラクスと結ばれたのが、急だったなぁとか、アスランとカガリはどうなのかなぁとか、シンは結局どうしてるのかなぁとか、ぼんやりとしか、覚えていない気持ちが必要だったのです。そこであの映画のクオリティや、キラがラクスへはっきりと伝える気持ちによる、渾身のストレートで我々の情緒は決壊していたのです。そうですよね?
ただ、それでも正史を学んだだけなら、楽しめるはずです。私自身進研ゼミをした小学生のような気持ちで映画を見ていた瞬間が多々ありましたし、解釈もまた1回目と異なる見解を持ちえたのです。
私には正史を学ぶ中で得てしまったフレイ・アルスターが生成されていました。そして、映画にはフレイ・アルスターは出演されません。
ガンダムSEED46話の、キラがぼろぼろになりながら、フレイの救助ポットを追って、でも追いつけず、機体がぼろぼろに損傷するところで止まっているのです。
キラ(主人公)の僕が守ってあげなきゃいけない人なんだってセリフが好きすぎるわけです。
初めてフレイに対しての気持ちを言ったその言葉が、キラ自身思うところがずっとあったのだな、とわかるわけです。そしてお互いに生きていたことがやっとお互いわかった瞬間だったのです。けれど通信による会話は出来なかった。明確なコミュニケーションが叶わない。フリーダムガンダムは無敗無敵って思い出補正がありましたが、取り分けガンダムSEEDにおいては引き分けか負けが多い印象で、、。キラが本当に守りたいものは、守れないはがゆさが、辛かった。
最終話にてフレイは敵に殺されてしまいます。その後、イマジネーションのような形でフレイの最後の言葉が流れるのですが、その言葉はキラに通じていないと監督は名言されています。すごい、悲しい。
続編のガンダムSEEDDESTINYでは、主人公が入れ替わったのもあり、キラの心の回復の描写は見受けられませんでした。情勢に振り回されるアスランと新主人公のシンに描写が注がれていたというのもあります。フレイへの描写は最後の撃たれるシーンばかり反芻されます。
明確な心の救済は描かれないまま、SEED DESTINYは終わりました。
幼少のころだったため、戦闘描写以外興味ありませんでした。(重要)
そして、2回目の映画でした。
アニメを見て、正史を学んだ私は、現代の迫力でごまかされません。
そうして、臨んだわけですが、フレイは出て来ないのです。
もう、キラにとっても、思い出の中の人、過去の人なのかもしれません。
ここで現実世界の空白の10年間が必要なのです。
彼らにとって、デュランダルが持ち出した、デスティニープランが楔のように心に刺さっているように。
私にとってはフレイ・アルスターが心のわだかまりとして残っています。
フレイを持ち出すと、テーマが異なるのもわかりますが、でもせめて思い出す描写あってほしかったですね。あのアクマ(私)に救済ヲッ
まぁ、視聴者それぞれのフレイがいる、それでいいんでしょうね。たぶん。
うぐぐ。
「護るから、本当の私の想いが、あなたを護るから」
このセリフは上述の正史(アニメ)の、フレイ最後のシーンの、フレイのセリフです。しかし監督からのメタ発言では、キラに届いていません。
フレイはずっと、キラがコーディネイターという血筋で、地球人とは異なることに抵抗感を抱いていました。そして利用まで企てていました。その反面、普通に接することも願っていました。物語後半。
守る、守られる、支える、支えられる、そんな利害関係ばかり、でしか関わることができなかった(多分)二人ですが、そういう関係性を無しにして、もう一度話しをしたかったフレイが伝えるセリフになります。
矛盾なのです。物語後半の存命時には、ただ話しをしたい、素直な心で関わりたいと思っていたフレイが、最後護ると発言するのです。(護る、守る、どちらでもいいと思うのですが)フレイは当初キラに戦わせ、そうして自身の父の仇をキラに取ってもらうこと、それが生きる目的としていたところがありました。その歪んだ関わり方を正すために、もう一度会いたいと願っていたはずが、最後また護るという、護る、護られる、のイーブンの関係ではない状態を伝えるのです。
フレイだけが、キラ(主人公)の戦闘を肯定していました。
その理由はシンプルに言えば上述の父の仇を取らせるため、でした。
ガンダムシードの世界では、誰もが、戦争を止めよう、戦うのは良くない、といいながらも戦い続けています。そして戦争に巻き込まれた主人公キラに対して、ごめんね、と言いながら戦わせ、勝たせ、周りはキラを支えていく中で、唯一、彼女だけが、キラの戦闘行為に、敵を倒してもらう、と戦闘の目的を言語化し、キラの戦闘を肯定的に評価していました。父の仇打ちが背景にあるといえ、キラにとって嫌な戦闘を唯一、はっきりと肯定してくれる存在だったのです。いびつな関係であれ、当初はキラの理解者だったという認識です。
再会を願った物語後半で、フレイは自身の復讐への気持ちに変化が生じていることに気付きます。そして、フラットな気持ちでもう一度アークエンジェルに戻ることを願っていきます。
この存命時の行動から、フレイの最後のセリフ、”本当の私の想い”という所が、キラに父の敵討ちをしてもらうために生きてもらう、当初の気持ちではない。そう受け取れます。
そして、護る、と続く訳ですので、キラが望んでいない戦闘をすることは避けられないことも知っているのです。ではせめて、私はどうするかというところでのセリフだと、私(筆者)は感じています。
本当の私の想い⇒単純に身を案じている、そう受け取っています。
だってフレイが人の心配って、本当に、本当にうう、うう偉くなったなあ。
恋愛的な意味なのかなぁ、もっと上位の尊重のような、そんな気持ちな気がする。
映画の中で、何度かキラは絶体絶命に陥ります。
その中で奇跡的に生きのびるのですが、なぜ生き延びたかというと、単に偶然という理由しかありません。
”ただ、100本の矢がコックピットを外していた”
”ただ、斧でガンダムを一刀両断した際にコックピットは免れた”
”ただ、救援が間に合った”という事実だけです。
この偶然に意味を見出すとするなら、フレイが護ってくれたのかもしれません。(そう解釈されている方も一部いらっしゃいました。)
ただ、私が思うのは、願うのは
一度くらい思い出す描写を入れて下さい、、です。
おわり。