ごはんをよそうとき、ふと思い出すこと
思い出すことがある。
お父さんはいつもお母さんをじっとさせなかった。
朝食も昼食も夕食も夜食も
「○○、箸。」
「ごはん、おかわり」いやおかわりと自分で言う前に
時には、母が「まだ食べる?」とごはんの茶碗を受け取るのだ。
よそったフカフカの湯気のたった白いごはんを前に
父が一言「多い、半分でいいわ」
という。最初から半分によそわなかった母が間違えたように指摘する。
※よそうは関西の方言
父はダイニングテーブルにやってきて、席についたまま
一歩も、本当に一歩も動かず、新聞をひらく。
いつも母が走っているかのように歩き、
料理を用意し、いろんなものを冷蔵庫からだし、食器棚からだし、
家の外に置いているもう一つの冷蔵庫へ野菜をとりにいき、
子どもの食事も全て並べる。
よく考えていなかった頃は受け入れていた光景でも
私は母をずっと観察していたから、その光景が不思議だと思うようになって
なんで、この人は自分で動かないんだろう。
と思うようになっていた。
「お父さんがすれば?(箸)」
「自分でおかわりしーや」
「ビール飲むの自分やろ?自分で出せば?」
明らかにこの人は動いていない。
母は家のことを全てやり、うちの店の掃除や仕込みもして
夜は店に出て店員として働いている。
少し家に母がいたと思ったら、母はいつも疲れていて
横になって眠る。それも父がいない一瞬を狙って眠るのだ。
母は父も忙しいように思っている。
でも私は子どもとして父親もずっと観察している。
父は母の何分のいちしか動いていない。この事実は揺るがせない。
本当に自分のことが忙しいと思っているのは父で、父を忙しいと思ってる母がいて、父は自分が大変だと思ってるだけで、大変なのは母親だと思っている私がいた。
兄は同じように食卓に座ると母にいう「お母さん、箸」
母はああごめんと走るように歩いて箸を渡す。
そんな兄を見て思う。自分で箸をとりに行こう。
母に箸を頼む私もいるが、私は忙しい母に食事を用意してもらっている、その上で箸を運んでもらったとわかっておきたいと。母に何かをしてもらっている自分がいると。
ある日、日々の疑問を父にぶつける。
それは、いつもと同じ夕食の時間。
中学生の私は部活から帰宅後、家族とご飯を食べる。
今日もごはんのおかわりを自分でよそわない父
「○○、ごはん」いつもの言葉が飛ぶ。
台所で洗い物をする母がまた動き出す。母は同じ家族の食卓に座りさえできていない。
「それくらい自分でやりーや。
自分でご飯くらい入れられへんの?おかしいんちゃうん?」
自分なりに強く、父へ抵抗をする。
なんでこれが当たり前になるのか、私にはわからない。物事を考えられるようになって、ずっと不思議でしょうがない。
すると、予想だにしない声が発せられる
「そんなん言わんとき、ええねん。あんたはええねん、やるねん」
その声は母で、しかも怒った口調で、怒りの矛先は私に向く。
え?なんで?
動かないのは父で、母はよく全ての不満を私に言って、時には死にたいとまで言ってきて、
私は父が席から一歩も動かない状況が不思議でしょうがないのに。もし怒るとしてもそれは私にではない、父に対してなのに。
とても心が傷ついて、意味がわからないなと。
そのことを私は大人になっても定期的に思い出す。
こうして書きたくなるほどにふと出てくるのだ。
今でもやっぱり私は父に「自分で動けよ」と思う。そしてそれを父にも言うだろうと。
なんら、間違ったことは言ってなかったなぁと思う。
ずっとそのスタンスで、いいなと思う。
思い返しても、自分の考えは変わらないし、あの時傷ついたなぁ〜ってあの状況で傷つく結果になるのわけわからんな〜とね!
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