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福翁自伝 6. 始めて亜米利加に渡る

咸臨丸

ソレカラ、私が江戸に来た翌年、即(すなわ)ち安政六年の冬、徳川政府から亜米利加(アメリカ)に軍艦をやるという日本開闢(かいびゃく)以来、未曾有(みぞう)の事を決断しました。さて、その軍艦と申しても至極(しごく)小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入でいりに蒸気を焚くばかりで、航海中はただ風を頼りに運転せねばなりません。二、三年前、和蘭(オランダ)から買い入れ、価格は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸(かんりんまる)といいます。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行って、蘭人に航海術を伝習して、その技術もようやく進歩したから、この度、使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海とこういうわけで、幕議(ばくぎ)一決しました。

艦長は時の軍艦奉行木村摂津守(きむらせっつのかみ)、
これに随従する指揮官は勝麟太郎(かつりんたろう)、
運用方は佐々倉桐太郎(ささくらきりたろう)、
浜口興右衛門(はまぐちおきえもん)、
鈴藤勇次郎(すずふじゆうじろう)、
測量は小野友五郎(おのともごろう)、
伴鉄太郎(ばんてつたろう)、
松岡磐吉(まつおかばんきち)、
蒸気は肥田浜五郎(ひだはまごろう)、
山本金次郎(やまもときんじろう)、
公用方には吉岡勇平(よしおかゆうへい)、
小永井五八郎(こながいごはちろう)、
通弁官は中浜万次郎(なかはままんじろう)、
少年士官には根津欽次郎(ねづきんじろう)、
赤松大三郎(あかまつだいざぶろう)、
岡田井蔵(おかだせいぞう)、
小杉雅之進(こすぎまさのしん)と、

医師二人、水夫、火夫が六十五人、艦長の従者を合わせて九十六人。船の割りにしては多勢の乗組人でありましたが、この航海の事については色々お話があります。

この時の咸臨丸(かんりんまる)の航海は日本開闢(かいびゃく)以来、初めての大事業で、乗組士官の面々はもとより日本人ばかりで事に当たると覚悟していました。ところが、その時、亜米利加(アメリカ)の甲比丹(カピテン)ブルツクという人が、太平洋の海底測量のために小帆前船(しょうほまえせん)ヘネモコパラ号乗って航海中、薩摩の大島沖(おおしまおき)で難船してしまいました。幸いに助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹(カピテン)以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留(たいりゅう)の折柄(おりから)、日本の軍艦がサンフランシスコに航海すると聞き、幸便(こうびん)だから、これに乗って帰国したいと言いました。その事が決まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは嫌だと言うのです。何故なぜかと言うと、もし、その人達を連れて帰れば、かえって銘々共(めいめいども)が亜米利加(アメリカ)人に連れて行ってもらったように思われて、日本人の名誉にかかるから乗せない、と剛情を張るのです。それこれで、政府も余程困った様子でありましたが、とうとうソレを無理やり押し付けて同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の技量を覚束(おぼつか)なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらば、マサカの時に何かの便利になろうという老婆心であったと思われます。

木村摂津守

艦長、木村摂津守(きむらせっつのかみ)という人は、軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いないのです。それから、私はどうにか、その船に乗って亜米利加(アメリカ)に行ってみたいという志はあったのですが、木村という人は、一向にに知りませんでした。去年、大阪から出て来たばかりで、そんな幕府の役人などに縁があるわけはないのです。ところが、幸いにも江戸に桂川(かつらがわ)という幕府の蘭家(らんか)の侍医がいました。その家は、日本国中蘭学医の総本山とでも名を命(つ)けてよろしい名家でありますから、江戸はさておき、日本国中、蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はいませんでした。ソレゆえ、私なども江戸に来れば、何はさて置き桂川の家に訪問していたので、度々その家に出入りしていました。その桂川の家と、木村の家とは親類――ごく近い親類でありました。それから私は桂川に頼んで、どうにかして木村さんの御供をして亜米利加(アメリカ)に行きたいのだが、紹介して下さることは出来まいか、と懇願しました。桂川の手紙をもらって木村の家に行って、その願意を述べたところが、木村は即刻許してくれて、連れて行ってやろう、とこういうことになりました。と言うのは、案ずるに、その時の世態(せたい)人情において、外国航海などといえば、開闢(かいびゃく)以来の珍事と言おうか、寧(むし)ろ恐ろしい命掛けの事でした。木村はもちろん軍艦奉行であるから家来はいました。いましたけれども、その家来という者も余り行く気はないというところに、仮初(かりそめ)にも自分から進んで行きたいと言うのでありますから、実はあっちでも妙な奴だ、幸いというくらいなことであったろうと思います。すぐに許されて、私は御供をすることになりました。

浦賀に上陸して酒を飲む

咸臨丸(かんりんまる)の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て、まず浦賀に行いきました。同時に日本から亜米利加(アメリカ)に使節が立って行くので、亜米利加(アメリカ)からその使節の迎船(むかいせん)が来ました。ポーハタンというその軍艦に乗って行くのですが、そのポーハタンは、後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して、まず浦賀に泊まりました。浦賀にいて面白い事がありました。船に乗組んでいる人は皆若い人で、もうこれが日本との別れであるから、浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと言い出した者がありました。いずれも同説で、それから陸に上がって茶屋みたいなところに行って、散々に酒を飲んで、サア船に帰るという時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀(うがいぢゃわん)が一つありました。これは船の中で役に立ちそうな物だと思って、ちょいと私がそれを盗んで来ました。その時は冬の事で、サア出帆したところが大嵐で、毎日々々の大嵐。なかなか茶椀に飯を盛って本式に食べるなんということは容易な事ではありませんでした。ところが、私の盗んだ嗽茶椀(うがいぢゃわん)が役に立って、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立ったまま食べるのです。誠に世話のない話で、大層(たいそう)便利を得て、亜米利加(アメリカ)まで行って、帰りの航海中も毎日用いて、とうとう日本まで持って帰って、久しく私の家にゴロチャラしていました。程経(ほどへ)て聞けば、その浦賀で上陸して飲食いしたところは遊女屋だということでした。それは、その当時私は知らなかったのですが、そうしてみると、あの大きな茶椀は女郎の嗽茶椀(うがいぢゃわん)であったのだろうと思います。思えば汚いようですが、航海中は誠に重宝しました。唯一の宝物であったのが可笑しいです。

銀貨狼藉

さて、それから船が出てずっと北の方に乗り出しました。その咸臨丸(かんりんまる)というのは百馬力の船ですから、航府中、始終石炭を焚くということは出来ません。ただ、港を出るときと入るときに焚くだけで、沖に出れば、まるで帆前船(ほまえせん)です。というのは、石炭が積めないのです。石炭がなければ帆で行かなければなりません。その帆前船(ほまえせん)に乗って太平海を渡るのですから、それは、それは毎日の暴風で、艀船(はしけぶね)が四艘(しそう)ありましたが、激浪(げきろう)のために、二艘取られてしまいました。その時は、私は艦長の家来ですから、艦長のために始終左右の用を弁じていました。艦長は、船の(とも)の方の部屋にいるので、ある日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思って艫(とも)の部屋に行きました。ところが、その部屋に(ドルラル)が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱していました。どうしたのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入れの中に積上げてあった弗(ドルラル)、定(さだ)めし錠(じょう)も卸(おろ)してあったに違いないですが、激しい船の動揺で、弗(ドルラル)の袋が戸を押破って外に散乱したものと見えます。これは大変な事と思って、すぐに引き返して(おもて)の方にいる公用方の吉岡勇平(よしおかゆうへい)にその次第を告げると、同人も大いに驚き、場所に駆けつけ、私も加勢してその弗(ドルラル)を拾い集めて袋に入れて、元の通り戸棚に入れたことがありました。元来、なぜ船中でこんな事が起こるのかというその次第は、当時外国為替という事について一寸(ちょい)とも考えが及ばなかったのですが、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持って行く、というごく簡単な話で、何万弗(ドルラル)だか知れない弗(ドルラル)を、袋などに入れて艦長の部屋に納めて置いたその金が、嵐のために溢れ出たというような奇談を生じたのであります。それで、たいてい四十年前の事情が分かりましょう。今ならば、いっこうわけはない話です。為替で一寸(ちょい)と送ってやれば、何も正金(しょうきん)を船に積んで行く必要はないのですが、商売思想のない昔の武家は、大抵こんなものです。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げました。今でも私は覚えていますが、甲板の下にいると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋(たいよう)の立浪(たつなみ)がよく見えます。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くということは毎度の事でありました。四十五度傾くと沈むというけれども、幸いに大きな災いもなく、ただその航路を進んで行きました。進んで行く中に、何も見えるものはないその中でもって、一度、帆前船(ほまえせんに)遭ったことがありました。ソレは亜米利加(アメリカ)の船で、支那人を乗せて行くのだというその船を一艘見た切りで、ほかには何も見ませんでした。

牢屋に大地震の如し

ところで、三十七日かかって桑港(サンフランシスコ)に着つきました。航海中、私は身体が丈夫だと見えて、怖いと思ったことは一度もありませんでした。始終、私は同船の人に戯れて、

「これは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に入って毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか。」

と笑っているくらいな事で、船が沈もうということは一寸とも思いませんでした。と言うのは、私が西洋を信ずるの念が骨に徹していたものと見えて、一寸(ちょい)とも怖いと思ったことがありません。それから、途中で水が乏しくなったので、布哇(ハワイ)に寄るか寄らぬかという説が起こりました。辛抱して行けば布哇(ハワイ)に寄らないでも間に合うであろうが、ごく用心をすれば寄港して水を取って行くべきだが、どうしようかというが、遂に布哇(ハワイ)に寄らずに桑港(サンフランシスコ)に直航することに決定して、それから水の倹約をしました。何でも飲むよりほかは、一切水を使うことはならぬということになりました。ところで、その時に大いに人を感激せしめた事があります。と言うのは、船中に亜米利加(アメリカ)の水夫が四、五人いましたが、その水夫等が、ややもすると水を使うので、甲比丹(カピテン)ブルックに、どうも水夫が水を使って困る、と言ったら甲比丹(カピテン)の言うには、水を使ったらすぐに鉄砲で撃ち殺してくれ。これは共同の敵じゃから説諭(せつゆ)も要らなければ、理由を質問するにも及ばない。即刻銃殺して下さいと言うのです。理屈を言えば、その通りに違いない。それから水夫を呼んで、水を使えは鉄砲で撃殺すから、そう思えというようなわけで、水を倹約したから、どうやら、こうやら、水の尽きるということがなくて、同勢(どうぜい)合わせて九十六人、無事に亜米利加(アメリカ)に着きました。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆、筒袖(つつそで)の着物は着ているけれども、履物は草鞋(わらじ)です。草鞋(わらじ)が何百、何千足も貯えてあったものと見えます。船中はもうビショビショで、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったくらいと思います。誠に船の中は大変な混雑でありました。桑港(サンフランシスコ)着船の上、艦長の奮発で、水夫共に長靴を一足ずつ買ってやって、それから大いに体裁がよくなりました。

日本国人の大胆

しかし、この航海については、大いに日本のために誇ることがあります。と言うのは、抑(そ)も、日本の人が初めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年で、航海を学び始めたのは安政二年の事です。安政二年に長崎において和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりです。その業(ぎょう)成(な)って外国に船を乗り出そう、ということを決したのは安政六年の冬です。すなわち、目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しようというその時、少しも他人の手を借りずに出掛けて行こうと決断しました。その勇気といい、その伎倆(ぎりょう)といい、これだけは、日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思います。前にも申した通り、航海中は一切、外国人の甲比丹(カピテン)ブルックの助力は借りないということで、測量するにも日本人自身で測量しました。亜米利加(アメリカ)の人もまた、自分で測量していました。互いに測量したものを、後で見合わせるだけの話で、決して亜米利加(あめりか)人に助けてもらうということは、一寸(ちょっと)でもなかったのです。ソレだけは、大いに誇ってもよい事だと思います。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡したところで、航海術を五年学んで太平海を乗り越そうというその事業、その勇気のある者は決してありはしません。ソレどころではありません。昔々、露西亜(ロシア)のペートル帝が和蘭(オランダ)に行って航海術を学んだといいますが、ペートル大帝でもこの事は出来なかったでしょう。仮令(たと)い大帝は一種絶倫の人傑(じんけつ)なりとするも、当時の露西亜(ロシア)において、日本人の如く大胆にして、且(か)つ、学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われます。

米国人の歓迎祝砲

海上では、恙(つつが)なく桑港(サンフランシスコ)に到着しました。着くやいなや、土地の主(おも)だった人々は船まで来て祝意を表し、これを歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山のようでした。次いで、陸から祝砲を打つということになって、あちらから打てば咸臨丸(かんりんまる)から応砲せねばならぬとなりました。この事について、一奇談があります。勝麟太郎(かつりんたろう)という人は艦長木村の次にいて指揮官ですが、しごく船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったのですが、着港すると指揮官の職として万端(ばんたん)差図(さしず)する中に、かの祝砲の事が起こりました。ところで勝の説に、

「ソレはとても出来る事でない。ナマジ応砲などしてやりそこなうよりも、こちらは打たぬほうがいい。」

と言うのです。そうすると、運用方(がた)の佐々倉桐太郎(ささくらきりたろう)は、

「イヤ、打てないことはない。乃公(おれ)が撃って見せる。」

「馬鹿言え。貴様達に出来たら、乃公(おれ)の首をやる。」

と冷やかされて、佐々倉はいよいよ承知しません。何でも応砲して見せると言うので、それから水夫共を差図して、大砲の掃除、火薬の用意をして、砂時計をもって時を計り、物の見事に応砲が出来ました。サア、佐々倉が威張り出した。首尾よく出来たから、勝の首は乃公(おれ)の物だ。しかし、航海中、用も多いから暫くあの首を当人に預けておく、と言って、大いに船中を笑わした事があります。兎も角も、マア祝砲だけは立派に出来ました。

ソコで、無事に港に着いたらば、サアどうもあっちの人の歓迎というものは、それは、それは実に至れり尽くせりで、この上の仕様がないという程の歓迎でした。亜米利加(アメリカ)人の身になってみれば、亜米利加(アメリカ)人が日本に来て、初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行きより八年目に自分の国に航海して来たというわけですから、ちょうど、自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じ事をすると同様、乃公(おれ)がその端緒(たんちょ)を開いた、と言わぬばかりの心持ちであったに違いありません。ソコで、もう日本人を掌(てのひら)の上に乗せて、不自由をさせぬように、不自由をさせぬように、とばかり、桑港(サンフランシスコ)に上陸するや否や、馬車をもって迎えに来て、とりあえず市中のホテルに休息ということになりました。そのホテルには、市中の役人か何か知りませんが、市中の主(おも)だった人が雲霞(うんか)のごとく出掛けて来ました。様々な接待饗応(きょうおう)です。ソレカラ、桑港(サンフランシスコ)の近傍の、メールアイランドというところに海軍港附属の官舎を咸臨丸(かんりんまる)一行の止宿所(ししゅくじょ)に貸してくれて、船は航海中なかなか損所(そんしょ)が出来たからといって、船渠(ドック)に入れて修覆をしてくれました。逗留(とうりゅう)中はもちろん、あっちで賄(まかない)も何もそっくりしてくれるはずでしたが、水夫を始め、日本人が洋食に慣れず、やはり日本の飯でなければ食えないというので、自分賄(まかない)というわけにしたところが、亜米利加(アメリカ)の人は兼ねて日本人が魚類を好むということをよく知っているので、毎日々々魚を持って来てくれたり、あるいは、日本人は風呂に入ることが好きだというので、毎日風呂を立ててくれるというようなわけでした。ところで、メールアイランドというところは、町でないものですから、折節(おりふし)今日は桑港(サンフランシスコ)に来いといって誘われます。それから、船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応(きょうおう)するというような事が毎度ありました。

敷物に驚く

ところが、こっちは一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても初めてだから実に驚きました。そこに車があって、馬が付いていれば乗物だということは分かりそうなものですが、一見したばかりでは一寸(ちょい)と考え付かないのです。そこで、戸を開けて入ると馬が駈けだします。なるほど、これは馬の引く車だと初めて発明するようなわけです。いずれも日本人は、大小を挟(さ)して穿物(はきもの)は麻裏草履(あさうらぞうり)を履いています。ソレでホテルに案内されて行ってみると、絨氈(じゅうたん)が敷詰めてあり、その絨氈(じゅうたん)はどんな物かというと、まず日本でいえば余程の贅沢者(ぜいたくもの)がいっすん四方幾干(いくら)といって金を出して買って、紙入れにするとか、莨(たばこ)入れにするとかいうような、ソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広いところに敷詰めてあるのです。その上を靴で歩くとは、さてさて途方もない事だと実に驚きました。けれども、亜米利加(アメリカ)人が往来を歩いた靴のままで颯々(さつさつ)と上がるから、こっちも麻裏草履(あさうらぞうり)でその上に上がりました。上がると、突然(いきなり)酒が出るのです。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、まず変な事だと思ったのはシャンパンです。そのコップの中に何か浮いているのも分からないのです。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々(めいめい)の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様(ありさま)を申せば、列座の日本人中で、まずコップに浮いているものを口の中に入れて、胆(きも)を潰して吹き出す者もあれば、口から出さずにガリガリと噛む者もあるというようなわけで、漸(ようや)く氷が入っているということが分かりました。ソコでまた、煙草(タバコ)を一服と思ったところで、煙草盆がない、灰吹(はいふき)がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸(ちょい)と点(つ)けました。マッチも出ていたろうけれども、マッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けたところが、どうも灰吹(はいふき)がないので吸殻(すいがら)を棄てる所がないのです。それから、懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉んで、揉んで、火の気のないように捩付(ねじつ)けて袂(たもと)に入れて、暫くしてまた後の一服をやろうとするその時に、袂(たもと)から煙が出ているのです。何ぞ図らん、よく消したと思ったその吸殻の火が紙に移って煙が出て来たとは、大いに胆を潰しました。

磊落(らいらく)書生も花嫁の如し

すべてこんな事ばかりで、私は生まれてから嫁入りをしたことはないが、花嫁が勝手の分からぬ家に住み込んで、見ず知らずの人に取り巻かれてチヤフヤいわれて、笑う者もあれば雑談(ぞうだん)を言う者もあるその中で、お嫁さんばかりひとり静かにしてお行儀を繕い、人に笑われぬようにしようとして、かえってマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、およそ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし、怖い者なし、と威張っていた磊落(らいらく)書生も、初めて亜米利加(アメリカ)に来て、花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でも可笑(おか)しかった。それから、あちらの貴女紳士が打寄(うちよ)りダンシングとかいって踊りをして見せるというのは毎度の事で、さて行って見たところが少しも分からず、妙な風をして男女が座敷中を飛廻るその様子は、どうにもこうにも、ただ可笑(おか)しくて堪らないのです。けれども、笑っては悪いと思うから、なるたけ我慢して笑わないようにして見ていましたが、これも初めの中は随分苦労でありました。

女尊男卑の風俗に驚

一寸(ちょっと)した事でも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は少しも分かりませんでした。ある時に、メールアイランドの近所にバレーフォーというところがあって、そこに和蘭(オランダ)の医者がいました。和蘭(オランダ)人は、どうしても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待したいから来てくれないかと言うので、その医者の家に行ったところが、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走が出る中に、いかにも不審な事には、お内儀(かみ)さんが出て来て座敷に座り込んでしきりに客の取持(とりもち)をすると、御亭主が周旋(しゅうせん)奔走している。これは可笑(おか)しい。まるで日本とアベコベな事をしている。御亭主が客の相手になって、お内儀(かみ)さんが周旋(しゅうせん)奔走するのが当然であるに、左(さ)りとはどうも可笑(おか)しい。ソコで、御馳走は何かというと、豚の子の丸煮が出た。これにも胆を潰しました。どうだ、マア呆れかえったな。まるで安達(あだち)ヶ原に行ったようなわけだと、こう思いました。散々ご馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかといわれました。ソレは面白い、久し振りだから乗ろうといって、その馬を借りて乗って来ました。艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乗ることは上手です。江戸にいれば毎日馬に乗らないことはありません。それから、その馬に乗ってどんどん駆けて来ると、亜米利加(アメリカ)人が驚いて、「日本人が馬の乗り方を知っている」と言って、不思議な顔をしていました。そういうわけで、双方共に事情が少しも分からないのです。

事物の説明に隔靴(かっか)のあり

それからまた、亜米利加(アメリカ)人が案内して諸方の製作所などを見せてくれました。その時は、桑港(サンフランシスコ)地方にマダ鉄道が出来ていない時代であります。工業は様々の製作所があって、ソレを見せてくれました。そこがどうも不思議なわけで、電気利用の電灯はないけれども、電信はあるのです。それから、ガルヴァニの鍍金(めっき)法というものも実際に行われていました。亜米利加(アメリカ)人が考えるに、そういうものは日本人は夢にも知らない事だろうと思って見せてくれたのですが、こっちはチャント知っているのです。これはテレグラフだ。これはガルヴァニの力でこういうことをしているのだ。また、砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするということをやっています。ソレを懇々(こんこん)と説くけれども、こっちは知っているのです。つまり、真空にすれば沸騰が早くなるということを。且(か)つ、その砂糖を清浄(しょうじょう)にするには骨炭(こったん)で濾(こ)せば清浄(しょうじょう)になるということもチャント知っています。先方では、そういう事は思いも寄らぬ事だと、こう察して、懇(ねんごろ)に教えてくれるのでしょうが、こっちは日本にいる中に数年の間、そんな事ばかり穿鑿(せんさく)していたのですから、ソレは少しも驚くに足らないことなのです。ただ、驚いたのは、掃溜(はきだめ)に行って見ても、浜辺に行って見ても、鉄の多いのには驚きました。言ってみれば、石油の箱のような物とか、色々な缶詰の空殻(あきがら)などが沢山たくさん捨ててあるのです。これは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾(くぎひろ)いがウヤウヤ出てきます。ところが、亜米利加(アメリカ)に行って見ると、鉄は丸で塵埃(ごみ)同様に捨ててあるので、どうも不思議だと思ったことがあります。

それから、物価の高いのにも驚きました。牡蠣(かき)を一罎(いちびん)買うと、半弗(ドル)。いくつあるかと思うと二十粒か三十粒ぐらいしかないのです。日本では二十四文(もん)か三十文というその牡蠣が、亜米利加(アメリカ)では一分(いちぶ)二朱(にしゅ)もする勘定で、恐ろしく物の高い所だ、と呆れた話だと思ったような次第です。社会上、政治上、経済上の事は一向に分かりませんでした。

ワシントンの子孫如何と問う

ところで、私がふと胸に浮かんで、ある人に聞いてみたのは、ほかでもない、今、華盛頓(ワシントン)の子孫はどうなっているかと尋ねました。その人の言うに、華盛頓(ワシントン)の子孫には女があるはずだ。今どうしているか知らないが、何でも誰かの内室になっている容子(ようす)だ、といかにも冷淡な答えで、何とも思っていないようでした。これは不思議でした。もちろん、私も亜米利加(アメリカ)は共和国で、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、華盛頓(ワシントン)の子孫といえば大変な者に違いないと思ったのです。こっちの頭の中には、源頼朝(みなもとのよりとも)、徳川家康(とくがわいえやす)というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答えに驚いて、これは不思議と思ったことは、今でもよく覚えています。理学上の事については、少しも胆(きも)を潰すということはありませんでしたが、一方の社会上の事については、全く方角が付きませんでした。あるときに、メールアイランドの海軍港にいる甲比丹(カピテン)のマツキヅガルという人が、日本の貨幣を見たいと言うので、艦長はかねてそんな事のために用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判を始めとして、万延年中迄の貨幣を揃えて甲比丹(カピテン)のところへ送ってやりました。ところが、珍らしい、珍らしいとばかりで、宝をもらったという考えは、ちょいとも顔色に見えませんでした。昨日は誠に有難う、と言ってその翌朝お内儀(かみ)さんが花を持って来てくれました。私はその取次ぎをして、ひとりひそかに感服しました。人間というものは、アアありたい。いかにも心の置き所が高尚だ。金や銀を貰ったからといって、キョトキョト悦ぶというのは卑劣な話だ。アアありたいものだ、大きに感心したことがあります。

軍艦の修繕に価を求めず

前にも言った通り、亜米利加(アメリカ)人は誠によく世話をしてくれました。軍艦を船渠(ドック)に入れて修復してくれたのみならず、乗組員の手元に入用(にゅうよう)な箱を拵(こしら)えてくれるとかいうことまでも親切にしてくれました。いよいよ、船の仕度も出来て帰るという時に、軍艦の修復、その他の入用(にゅうよう)を払いたいと言うと、あっちの人は笑っているのです。代金などは、何の事だというような調子で、ちょっとも話にならないのです。何と言っても勘定を取りそうにもしませんでした。

始めて日本に英辞書を入る

その時に、私と通弁(つうべん)の中浜万次郎(なかはままんじろう)という人と、両人がウエブストルの字引(じびき)を一冊ずつ買って来ました。これが、日本にウエブストルという字引の輸入の第一番。それを買って、モウほかには何も残ることなく、首尾よく出帆して来ました。

義勇兵

ところで、私が二度目に亜米利加(アメリカ)に行ったとき、甲比丹(カピテン)ブルックに再会して八年目に聞いた話があります。それは最初、日本の咸臨丸(かんりんまる)が亜米利加(アメリカ)に着いたとき、桑港(サンフランシスコ)で中々の議論があったそうです。今度、日本の軍艦が来たからその接待を盛んにしなければならぬというので、あすこに陸軍の出張所のようなものがあるのですが、そこへ甲比丹(カピテン)ブルックが行って、大いに歓迎しようではないか、と相談を掛けると、陸軍は華盛頓(ワシントン)に伺った上でなければ出来ないと言うのです。

「そんな事をしていては間に合わないから、何でも出張所の独断でやれ。」

と談じても、とにかく、埓(らち)が明かないから、甲比丹(カピタン)は少し立腹して、いよいよ政府の筋で出来なければ、こっちに仕様があるといって、それから方向を転じて桑港(サンフランシスコ)の義勇兵に話を持ち込んで、どうだ、こういうわけであるから接待せぬか、と言うと、義勇兵は大喜びですぐに用意が出来ました。全体、この義勇兵というものは、普段は軍役(ぐんえき)があるわけではなく、大将は御医者様で、少将は染物屋(そめものや)の主人、というような者で組立ててはあるけれども、チャント軍服も持っていれば、鉄砲も何もすっかり備えていて、日曜か何か暇な時か、または月夜などに操練(そうれん)をして、イザ戦争という時には出て行くというばかりで、太平の時はまず若い者の道楽仕事でありますから、せっかくこしらえた軍服もめったに着ることがないところに、今度、甲比丹(カピタン)ブルックの話を聞いて、千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸(かんりんまる)を歓迎したのであると、甲比丹(カピタン)が話していました。

布哇(ハワイ)寄港

祝砲と共にめでたく桑港(サンフランシスコ)を出帆して、今度は布哇(ハワイ)寄港と決まり、水夫は二、三人亜米利加(アメリカ)から連れて来ましたけれども、甲比丹(カピタン)ブルックはおらず、本当に日本人ばかりで、どうやら、こうやら、布哇(ハワイ)を捜し出して、そこへ寄港して三、四日逗留しました。逗留中、布哇(ハワイ)の風俗については、物珍しくいう程の要用はないだろうと思います。と言うのも、三十年前の布哇(ハワイ)も、今も変わったことはないだろというくらい、その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民(ばんみん)というよりほか仕方がないのです。王様にも会いましたが、これも国王陛下といえば大層なようだけれども、そこへ行って見れば、驚く程の事はありません。夫婦連れで出て来て、国王はただ羅紗(ラシャ)の服を着ているというくらいな事でした。家も日本でいえば中ぐらいの西洋造りで、宝物を見せるというから何かと思ったら、鳥の羽でこしらえた敷物を持って来て、これが一番のお宝物だというのです。あれが皇弟か、その皇弟が笊(ざる)をさげて買物に行くようなわけで、マア村の漁師の親方ぐらいの者でした。

少女の写真

それから、布哇(ハワイ)で石炭を積み込んで出帆しました。その時に、ちょっとした事ですが、奇談があります。私はかねてから申す通り、一体の性質が花柳(かりゅう)に戯れるなどということは、仮初(かりそめ)にも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな、いかがわしい話をした事もありません。ソレゆえ、同行の人は妙な男だというくらいには思っていたでしょう。それから、布哇(ハワイ)を出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せました。これはどうだ(その写真はここにあると、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年前の福澤先生のかたわらに立ちいるは、十五、六の少女なり)。その写真というのは、この通りの写真だろう。ソコで、この少女が芸者か女郎か娘かは、もちろんその時に見さかいのあるわけはない――お前達は桑港(サンフランシスコ)に長く逗留していたが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞということは出末なかったろう。サアどうだ。朝夕(あさゆう)口でばかり下らない事をいっているが、実行しなければ話にならないじゃないかと、大いに冷やかしてやりました。これは、写真屋の娘で、歳は十五だと言っていました。その写真屋には前にも行ったことがありますが、ちょうど雨の降る日で、その時は私ひとりで行ったところ、娘がいたから、お前さん一緒に取ろうではないかと言うと、亜米利加(アメリカ)の娘だから何とも思いはしない。取りましょうと言って、一緒に撮ったのです。この写真を見せたところが、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、悔しくても、真似は出来なかろう。と言うのは、桑港(サンフランシスコ)でこの事を言い出すと、すぐに真似をする者があるから黙って隠しておいて、いよいよ、布哇(ハワイ)を雛れて、もう亜米利加(アメリカ)にもどこにも縁のないという時に見せてやって、一時の戯れに人を冷やかしたことがあります。

不在中桜田の事変

帰る時は南の方を通ったと思います。行くときとは違って、至極(しごく)海上は穏かで、何でもその年には閏(うるう)があって、閏(うるう)を罩(こ)めて、五月五日の午前に浦賀に到着しました。浦賀には、是非、錨(いかり)を下すというのがお決まりで、浦賀に到着するやいなや、船中数十日のその間はもちろん湯に入るということの出来るわけもなく、口嗽(うがい)をする水がヤット出来るというくらいな事なので、身体は汚れているし、髪はクシャクシャになっています。何はさておき、一番先に月代(さかいき)をして、それから風呂に入ろうと思って、小舟に乗って陸に着くと、木村のお迎えが数十日前から浦賀に詰掛かけていて、木村の家来に島安太郎(しまやすたろう)という用人(ようにん)がいて、ソレが海岸まで迎えに来ていて、私が一番先に陸に上って、その島安太郎に会いました。正月の始めに亜米利加(アメリカ)に出帆して、浦賀に着くまでというものは、風の便りもなく、郵便もなければ、船の交通というものもありません。その間は、僅かに6か月の間ではありますが、故郷の様子は何も聞かないから、殆ど6年も会っていないような心地(こころもち)です。ヒョイと浦賀の海岸で島に会って、イヤ誠にお久し振り。時に何か日本に変わった事はないか、と尋ねたところが、島安太郎が顔色を変えて、イヤあったとも、あったとも。大変な事が日本にあったと言うその時、私がちょっと島さん待ってくれ。言ってくれるな。私が当てて見せよう。大変といえば何でもこれは水戸の浪人が、掃部様(かもんさま)の屋敷に暴込んだというような事ではないか、と言うと、島は更に驚き、どうしてお前さんはそんな事を知っているのだ。どこで誰に聞いた。聞いたって、聞かないたって分かるじゃないか。私はマア雲気(うんき)を考えてみるに、そんな事ではないかと思う。イヤ、これはどうも驚いた。屋敷に暴れ込んだどころではない。こうこういうわけだ、と言って、桜田騒動の話をしました。その年の三月三日に桜田に大騒動のあった時でありますから、その事を話したので、天下の治安というものは、おおよそ分かるもので、私が出立する前から世の中の様子を考えてみると、どうせ騒動がありそうな事だと思っていたから、偶然にも当たったので、誠に面白かったです。

その前年から、そろそろ攘夷説が行われるといいう世の中になって来て、亜米利加(アメリカ)に逗留中、艦長が玩具(おもちゃ)半分に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買いました。珍しいものだといって、皆が寄って拈(ひね)くって見ながら、どうだろう、これを日本に持って帰って、さしてまわったら。イヤ、それは分かり切っている。新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に浪人者に斬られてしまうに違いない。まず、屋敷の中で折節(おりふし)広げて見るよりほかに用のない品物だと言ったことがあります。およそ、このくらいの世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛んになって来ていました。

幕府に雇わる

亜米利加(アメリカ)から帰ってから、塾生も次第に増して相変わらず教授しているうちに、私は亜米利加(アメリカ)渡航を幸いに、その国人(こくじん)に直に接して英語ばかり研究しました。帰ってからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで、悉(ことごと)く英書を教えました。ところが、マダなかなか英書が難しくて、自由自在に読めないのです。読めないから頼るところは英蘭対訳の字書のみ。教授とはいいながら、実は教わるがごとく、学ぶがごとく、共に勉強しているうちに、私は幕府の外国方(がいこくがた、今で言えばば外務省)に雇われました。その次第は、外国の公使領事から政府の閣老(かくろう)、または、外国奉行へ差出す書簡を飜訳するためです。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ、書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には、必ず和蘭(オランダ)の飜訳文を添える慣例でしたが、幕府人に横文字を読む者はひとりもなく、やむを得ず我々ごとき陪臣(ばいしん、大名の家来)の蘭書を読む者を雇って用を弁じたことであります。雇われたことで自(おの)ずから利益のあることがあります。例えば英公使、米公使というような者から来る書簡の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添えてあるのです。どうかしてこの飜訳文を見ずに、直接に英文を飜訳してやりたいものだと思って試みるのですが、試みている間に分かわからぬところがあります。分からぬと蘭訳文を見るのですが、見ると分かるというようなわけで、なかなか英文研究のためになりました。ソレからもう一つには、幕府の外務省には自(おの)ずから書物があります。種々様々な英文の原書があるのです。役所に出ていて読むのはもちろん、借りて自家へ持って来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身のために大に便利になりました。

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