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福翁自伝 15. 老余の半生

仕官を嫌う由縁 私の生涯は、終始替わることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍しいことはない。今の世界に、人間普通の苦楽を嘗(な)めて、今日に至るまで大に愧(は)じることもなく、大に後悔することもなく、心静かに月日を送りしは、先ずもって身の仕合(しあわ)せと言わねばならぬ。ところで、世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し、色々に疑う者もありましょう。就中(なかんずく)、私がマンザラの馬鹿でもなく、政治の事も随分(ずいぶん)知っていながら、遂(つい)に政府の役人に

    • 福翁自伝 14. 品行家風

      莫逆(ばくげき)の友なし 経済の事は右のごとくにして、私は私の流義を守って生涯このまま替えずに終わることであろうと思いますが、ソレからまた、自分の一身の行状はどうであったか、家を成した後に家の有様はどうかということについて、有りのままの次第を語りましょう。さて、私の若い時はどうだと申すに、中津にいたとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打ち解けて真実に交わることが出来ない。本当に朋友になって、共々に心事を語る所謂(いわゆる)莫逆(ばくげき)の友というような人

      • 福翁自伝 13. 一身一家経済の由来

        頼母子(たのもし)の金弐朱(きんにしゅ)を返す これから、私が一身一家の経済の事を述べましょう。およそ、世の中に何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはありません。他人に対して金銭の不義理は相済(あいす)まぬ事と決定(けつじょう)すれば、借金はますます怖くなります。私共の兄弟、姉妹は、幼少の時から貧乏の味を嘗(な)め尽くして、母の苦労した様子を見ても、生涯忘れられません。貧小士族の衣食住、その艱難(かんなん)の中に、母の精神をもって、自(おの)ずから私共を感

        • 福翁自伝 12. 雑記

          暗殺の患は政治家の方に廻わる およそ、私共が暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、したがって、執政者の権力も重きを成して、自(おの)ずから威福の行われるようになると同時に、天下の耳目(じもく)は政府の一方に集り、私の不平も、公衆の苦情も何もかも、その原因を政府の当局者に帰して、これに加えるに羨望(せんぼう)嫉妬(しっと)の念を以(もっ)てして、今度は政府の役人達が狙われるようにな

          福翁自伝 11. 暗殺の心配

          これまで御話し申した通り、私の言行は有心故造(ゆうしんこぞう)、わざと敵を求めるわけでは固(もと)よりありませんが、鎖国風の日本にいて、一際(ひときわ)目立つ様に、開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がありません。その敵も、口でかれこれ喧しく言って罵詈(ばり)するくらいは何でもないが、ただ怖くて堪らないのは襲撃暗殺の一事です。これから少しその事を述べますが、およそ、世の中に我身にとって好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番であります。この味は

          福翁自伝 11. 暗殺の心配

          福翁自伝 10. 王政維新

          その年も段々と迫って、とうとう慶応三年の暮れになって、世の中が物騒になって来たから、生徒も自然にその影響を被(こうむ)らなければなりませんでした。国に帰るもあれば、方々(ほうぼう)に行くもあるというようなわけで、学生は次第々々に少なくなると同時に、今まで私の住んでいた鉄砲洲(てっぽうず)の奥平(おくだいら)の邸(やしき)は、外国人の居留地になるので幕府から上地(じょうち)を命ぜられ、既に居留地になれば私もそこにいられなくなります。ソコで、慶応三年十二月の押詰めに、新銭座(しん

          福翁自伝 10. 王政維新

          福翁自伝 9. 再度米国行

          それから、慶応三年になって、私はまた亜米利加(アメリカ)に行きました。外国に行くのはこれで三度目です。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加(アメリカ)行きについても、またなかなか話があります。と言うのは、先年、亜米利加(アメリカ)の公使ロペルト・エーチ・プラインという人が来ていて、その時に幕府で軍艦を拵(こしら)えなければならぬということで、亜米利加(アメリカ)の公使にその買い入れを頼んで、数度に渡したその金高は八十万弗(ドルラル)、そうして追々にその軍艦が

          福翁自伝 9. 再度米国行

          福翁自伝 8. 攘夷論

          攘夷論の鋒先洋学者に向う 井伊掃部頭(いいかもんのかみ)は、この前殺されて、今度は老中の安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)が浪人に疵(きず)を付けられました。その乱暴者の一人が、長州の屋敷に駈け込んだとか何とかいう話を聞いて、私はその時、初めて心付きました。なるほど、長州藩もやはり攘夷の仲間に入っているのかと、こう思ったことがります。兎(と)にも角(かく)にも、日本国中、攘夷の真っ盛りで、どうにも手の付けようがないのです。ところで、私の身にしてみると、これまでは世間に攘夷論

          福翁自伝 8. 攘夷論

          福翁自伝 7. 欧羅巴各国に行く

          私が亜米利加(アメリカ)から帰ったのは万延元年、その年に華英通語(かえいつうご)というものを飜訳して出版したことがあります。これが、抑(そもそ)も私の出版の始まりです。まず、この両三年間というものは、人に教わるというよりも、自分でもって行う英語研究が専業でありました。ところが文久二年の冬、日本から欧羅巴(ヨーロッパ)諸国に使節派遣ということがあって、その時にまた私はその使節に付いて行かれる機会を得ました。この前、亜米利加(アメリカ)に行った時には、私は密かに木村摂津守(きむら

          福翁自伝 7. 欧羅巴各国に行く

          福翁自伝 6. 始めて亜米利加に渡る

          咸臨丸 ソレカラ、私が江戸に来た翌年、即(すなわ)ち安政六年の冬、徳川政府から亜米利加(アメリカ)に軍艦をやるという日本開闢(かいびゃく)以来、未曾有(みぞう)の事を決断しました。さて、その軍艦と申しても至極(しごく)小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入でいりに蒸気を焚くばかりで、航海中はただ風を頼りに運転せねばなりません。二、三年前、和蘭(オランダ)から買い入れ、価格は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸(かんりんまる)といいます。その前、安政二年の

          福翁自伝 6. 始めて亜米利加に渡る

          福翁自伝 5. 大阪を去て江戸に行く 

          私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時でした。同じ年に、江戸の奥平(おくだいら)の邸(やしき)から、御用(ごよう)があるから来いといって、私を呼びに来たのです。それは、江戸の邸(やしき)に岡見彦曹(おかみひこぞう)という蘭学好きの人がいて、この人は立派な身分のある上士族で、どうにかして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたい、というので、様々に周旋(しゅうせん)して、書生を集めて原書を読む世話をしていました。それまでは、松木弘庵(まつきこうあん)、杉亨二(すぎこうじ)というよ

          福翁自伝 5. 大阪を去て江戸に行く 

          福翁自伝 4. 緒方の塾風

          そのように言うと、何か私が緒方塾の塾長になって、頻(しき)りに威張って自然に塾の風を矯正したように聞こえるかも知れませんが、一方から見れば酒を飲むことでは随分と塾風を荒らしてしまった事もあったと思います。塾長になっても相変わらず元の貧書生で、その時の私の身の上は、故郷にいる母と姪の二人は藩からもらう少々ばかりの家禄(かろく)で暮していました。私は塾長になってから表向きに先生家の賄(まかない)を受けて、その上に新書生が入門するとき、先生家に束脩(そくしゅう)を納めて、同時に塾長

          福翁自伝 4. 緒方の塾風

          福翁自伝 3. 大阪修行

          兄の言うことには私も逆らうことができず、大阪に足を止めました。緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳(うどし)の三月でした。その前、長崎にいる時にはもちろん蘭学の稽古をしたのですが、その稽古をしたところは楢林(ならばやし)というオランダ語通訳の家、同じく楢林という医者の家、それから石川桜所(いしかわおうしょ)という蘭法医師の家などでした。この人は長崎に開業していて立派な門戸を張っている大家ですから、中々入門することはできません。ソコデ、そこの玄関に行って調合所の人などに習った

          福翁自伝 3. 大阪修行

          福翁自伝 2. 長崎遊学

          それから長崎に出掛けました。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味、十九歳三箇月)の時であります。その時分には、中津の藩地に横文字を読む者がいないのみならず、横文字を見たものもなかったのです。都会の地には、洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎であるから、原書は扨置(さておき)、横文字さえも見たことがなかった。ところが、その頃は丁度、ペルリ(マシュー・ペリー)が来た時で、亜米利加(アメリカ)の軍艦が江戸に来たということは田舎でも皆知っていました。それと同時に、

          福翁自伝 2. 長崎遊学

          福翁自伝 1. 幼少の時

          前書き 慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々、自ら伝記を記すの例あるをもって、兼ねてより福澤先生自伝の著述を希望して、親しくこれを勧めたるものありしかども、先生の平生、甚だ多忙にして執筆の閑を得ず、そのままに経過したりしに、一昨年の秋、ある外国人のもとめに応じて、維新前後の実歴談を述べたる折、風(ふ)と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自ら校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来、この筆記は単に記

          福翁自伝 1. 幼少の時

          Making Sense - Finding Our Way 2-3

          D:そうですね。最後に一言だけ言わせてもらうと、あなたの本は十分に目的を達成していると思います。しかも、とても時代にあっている重要な目的だ。ただし、基本的なロジックに批判があるとすれば、もしこれから私がいうことにあなたが同意したうえであの本を書いていてくれたなら、より優れた形で目標を達成していたのではないかと思います。 私は道徳の理論に対して、ポパーが科学理論に対してとっていたのと同じ態度で臨みたいと思っているんです。 つまり、これが道徳の基礎(不変な真理)だと主張するよう

          Making Sense - Finding Our Way 2-3