福翁自伝 4. 緒方の塾風
そのように言うと、何か私が緒方塾の塾長になって、頻(しき)りに威張って自然に塾の風を矯正したように聞こえるかも知れませんが、一方から見れば酒を飲むことでは随分と塾風を荒らしてしまった事もあったと思います。塾長になっても相変わらず元の貧書生で、その時の私の身の上は、故郷にいる母と姪の二人は藩からもらう少々ばかりの家禄(かろく)で暮していました。私は塾長になってから表向きに先生家の賄(まかない)を受けて、その上に新書生が入門するとき、先生家に束脩(そくしゅう)を納めて、同時に塾長へも金貳朱(にしゅ)を呈すと規則があるから、ひと月に入門生が三人あれば塾長には一分(いちぶ)二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから、小遣銭(こづかいせん)には十分で、これがたいて酒の代になります。衣服は国の母が手織木綿の品を送ってくれて、それには心配がないから、少しでも手許に金があればすぐに飲むことを考えていました。そのため、同窓生の中で私に誘われてツイツイ飲んでしまった者も多かったと思います。さて、その飲みようも至極お租末で、殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て、塾中でひとり飲むこともありました。それから少し余裕のある時には、一朱か二朱を持って、ちょいと料理茶屋に行きました。これは最上の奢りで、容易に出来ませんので、いつも行くのは鶏肉屋か、それよりもっと便利なのは牛肉屋でした。その時、大阪中で牛鍋(うしなべ)を食べさせるところは唯一二軒ありました。一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、一軒は新町(しんまち)の廓(くるわ)の側にあって、最下等の店だから、およそ人間らしい人で出入でいりする者は決していませんでした。文身(ほりもの)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)でした。どこから取寄せた肉なのか、殺した牛なのか、病死した牛なのか、そんな事に頓着はなく、一人前が百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食でしたが、牛は随分硬くて臭かったです。
塾生裸体
当時は士族の世の中だから皆大小を挟(さ)しています。内塾生(ないじゅくせい)五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀(そうとう)はちゃんと持っていました。そのほかには塾中に二腰(ふたこし)か三腰もありましたが、あとの塾生は皆、質に入れてしまっていて、塾生の誰かが所持している刀があたかも共有物のようでした。これでも差し支えなかったのは、銘々(めいめい)倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、普段は脇差(わきざし)一本挟すくらいだからです。ただ、丸腰にならないようにするだけの事でした。
それから、大阪は暖いところだから冬は難渋な事はないのですが、夏は真実の裸体(はだか)。褌(ふんどし)も襦袢(じゅばん)も何もない真裸体(まっぱだか)でいます。もちろん、飯を食う時と会読(かいどく)をする時には自ずから遠慮するから、何か一枚ちょいと引掛(ひっか)けます。中にも絽(ろ)の羽織を真裸体の上に着てる者が多かったです。これは余程おかしな風で、今の人が見たらさぞ笑うだろうと思います。食事の時にはとても座って食うなんということは出来た話でなかったです。足も踏立(ふみた)てられぬ板敷きだから、皆、上草履(うわぞうり)を履いて立って食うのです。一度は銘々に別けてやったこともありますが、そうは続きませんでした。お鉢がそこに出してあるから、銘々に茶碗に盛って百鬼立食です。ソンナ訳だから、食物の値段ももちろん安い。お菜は一六が葱(ねぎ)と薩摩芋の難波煮(なんばに)、五十が豆腐汁(とうふじる)、三八が蜆汁(しじみじる)というようになっていて、今日は何か出るということは決まっていました。
裸体の奇談失策
裸の事について奇談があります。ある夏の夕方、私共五、六名で酒を飲むことになりました。すると、ひとりの思い付きで、あの高い物干しの上で酒を飲みたいと言いだし、全会一致で、サア屋根づたいに持ち出そうとしたところ、物干の上に下婢(げじょが)三、四人涼んでいました。これは困った、今あそこで飲むと彼奴等(きゃつら)が奥に行って何か饒舌(しゃべ)るに違いない。邪魔な奴じゃと言っていると、長州生に松岡勇記(まつおかゆうき)という男がいて、とても元気の良い活溌な男で、この松岡が、
「僕が見事にあの女共を物干から追い払って見せよう。」
と言いながら、真裸体で一人ツカツカと物干に出て行きました。
「お松どん、お竹どん、暑いじゃないか。」
と言葉を掛けて、そのまま仰向けに大の字になって寝転がりました。この風体を見てはさすがの下婢(げじょ)もそこにいることが出来ませんでした。気の毒そうな顔をして、皆降りてしまいました。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと合図してきて、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲んだことがありました。
またあるとき、これは私の大失策なんですが、ある夜に私が二階で寝ていたら、下から女の声で福澤さん、福澤さん、と呼ぶ声がしました。私は夕方酒を飲んで今寝たばかりでしたので、うるさい下女だ、今ごろ何の用があるか、と思いましたが、呼ばれれば起きなければなりません。それから真裸体で飛び起きて、階子段(はしごだん)を飛び降りて、何の用だと語気を荒げたところが、案に相違で、下女ではなくて奥さんでした。どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置きどころがありません。奥さんも気の毒だと思われたのか、物も言わずに奥の方に引込んでしまいました。翌朝、お詫びに出て昨夜は誠に失礼仕(つかまつ)りました、と言うわけにもいかず、とうとう末代までご挨拶なしに済ませてしまったことがあります。こればかりは生涯忘れることができません。昨年も大阪に行って、緒方の家を尋ねて、この階子段(はしごだん)の下だったな、と四十年前の事を思い出して、独り心の中で赤面しました。
不潔に頓着せず
塾員は、不規則と言うか、不整頓と言うか、乱暴狼藉(ろうぜき)、まるで物事に無頓着でした。その無頓着の極めつけは、世間でいうように潔不潔、汚ないということを気に止とめないことです。例えば、塾ですから勿論、桶(おけ)だの丼(どんぶり)だの皿だのあるはずがないのに、緒方の塾生は学塾の中にいながら七輪(しちりん)もあれば鍋もあって、物を煮て食うというような事を普段からやっています。その趣(おもむき)はあたかも手鍋世帯(じょたい)の台所みたいな事を机の周囲でやっていました。けれども、それだけでは道具が足りるはずはありません。ソコデ洗手盥(ちょうずだらい)も金盥(かなだらい)もすべて食物の調理の道具になって、暑中など、どこからか素麺をもらうと、その素麺を奥の台所で茹でてもらって、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥(ちょうずだらい)を持って来て、その中で冷素麺にしていました。汁を拵(こしら)えるには、調合所の砂糖でも盗み出せば上出来です。そのほか、肴(さかな)を拵(こしら)えるにも野菜を洗うにも洗手盥(ちょうずだらい)は唯一の道具で、それが汚ないとは少しも思いませんでした。
それだけではありません。虱(しらみ)は塾中永住の動物で、誰一人もこれを免れることは出来ません。ちょっと裸体になれば五匹でも十匹でも簡単に捕れます。春先少し暖気になると羽織の襟に這い出すことがあります。ある書生が言うには、
「ドウダ、我々の虱(しらみ)は大阪の焼芋に似ている。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三か月は蚤(のみ)と交代して引込ひっこみ、九月頃新芋が町に出ると我々の虱(しらみ)もまた出て来るのは可笑(おかし)い。」
と言っていた事があります。抑(そ)も虱(しらみ)を殺すのに熱湯を用いるのは洗濯婆の旧筆法で面白くないので、私は工夫をして、乃公(おれ)が一発で殺して見せようと言って、厳冬の霜夜(しもよ)に襦袢(じゅばん)を物干しにさらして虱(しらみ)の親も玉子もいっぺんに枯らしたことがあります。この工風は私の新発明ではなくて、かつて誰かに聞いたことがあったのでやってみたのです。
豚を殺す
そんな訳だから、塾中の書生に身なりの立派な者はまず少ないのです。そのくせ、市中の縁日などといえば夜分必ず出て行きます。行くと往来の群集、就中(なかんずく)娘の子などは、アレ書生が来たと言って脇の方に避けるその様子は、何か穢多(えた)でも出て来て、それを穢(きた)ながるようでした。どうにも仕方がないです。往来の人から見て穢多(えた)のように思うはずです。あるとき、難波橋(なにわばし)の我々の得意の牛鍋屋の親爺が豚を買出して来て、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分で殺すことが出来ぬからと言って、緒方の書生が指名されました。それから親爺に会って、
「殺してやるが、殺す代りに何をくれるか。」
「左様さようですな」
「頭をくれるか」
「頭ならあげましょう。」
それから殺しに行きました。こっちはさすがに生理学者で、動物を殺すには窒塞させればわけはないということを知っています。幸いその牛屋は河岸端(かしばた)にあるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突込んですぐ殺しました。そこで、お礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だの能(よ)く能(よ)く調べて、散々いじくった後で煮て食ったことがあります。これは牛屋の主人から穢多(えた)のように見込まれたのでしょう。
熊の解剖
それから、またある時にはこういう事がありました。道修町(どしょうまち)の薬種屋(やくしゅや)に丹波か丹後から熊が来たという触れ込みがありました。ある医者の紹介で、後学のために解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖してくれぬか、と塾に言ってきました。
「それは面白い。」
と当時の緒方の書生は中々解剖ということに熱心でありましたから、早速行ってやろうということで出掛けて行きました。私は医者ではないから行きませんでしたが、塾生の中から七、八人が行きました。それから解剖して、これが心臓で、これが肺、これが肝と説明してやったところ、
「誠に有難ありがたい。」
と言って、薬種屋(やくしゅや)も医者もふっと帰ってしまいました。彼らが実はどう考えていたかとう言うと、緒方の書生に解剖してもらえば無傷の熊胆(くまのい)が取れるということを知っていたのです。解剖を書生に託して熊胆(くまのい)が出るやいなや帰かえってしまったという事がちゃんと分かったので、書生さんたちはなかなか了簡(りょうけん)しませんでした。これはひとつこねくってやろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれぞれ係の手分けをしました。塾中に雄弁滔々(とうとう)と良く喋舌って誠に剛情でシツコイ男がいました。田中発太郎(たなかはつたろう、今は新吾(しんご)と改名して加賀金沢にいる)というのですが、まずこれが応接係、それから私が掛合(かけあい)手紙の原案者で、信州飯山から来ている書生で菱湖風の書を上手に書く沼田芸平(ぬまたうんぺい)という男が原案の清書をしました。それから、先方へ使者に行くのは誰、脅迫するのは誰と、どうにもこうにも手に余る奴ばかりで、ややもすれば手短かに打毀(うちこわ)しに行くというような風を見せる奴もいました。また、あちらから来れば、捏(こね)くる奴が控えています。何でも六、七人の手勢を揃えて拈込(ねじこん)で、理屈を述べることは筆にも口にもすきはありません。応接係は普段の真裸体ではなく、袴羽織(はかまはおり)にチャント脇差(わきざし)を挟(さ)して緩急剛柔(かんきゅうごうじゅう)、ツマリ学医の面目云々を楯にして剛情な理屈を言うから、サア先方の医者も困ってしまい、そこで平謝りだっと聞きました。ただ謝るだけで済めばよいのですが、酒を五升に鶏と魚か何かを持って来て、それで手を打って、塾中で大いに飲みました。
芝居見物の失策
それとは反対に、こっちがやられたこともあります。道頓堀(どうとんぼり)の芝居に与力(よりき)や同心(どうしん)のような役人が見廻りに行くと、スット桟敷(さじき)に通してもらって、芝居の者共(ものども)が茶を持って来る、菓子を持って来るなどして、大威張りで芝居をただで見ていました。予てからその様子を知っているので、緒方の書生が、悪い話なのですが、大小を挟して宗十郎頭巾(そうじゅうろうずきん)を被って、その役人の真似をして度々行って、首尾よく芝居見物していまいした。ところが、度重なれば顕るるの諺どおり、ある日、本者が来たのです。サア、こっちは何とも言い逃れのしようがない。詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退きわまり大騒ぎになって、それから玉造(たまつくり)の与力に少し由縁(ゆかり)を得て、それに泣付いて内済(ないさい)を頼んで、なんとか無事に収まりました。そのとき酒を持って行ったり、肴(さかな)を持って行ったりして、金にして三歩(さんぶ)ばかり取られたと思います。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益(たかはしじゅんえき)という男が頭取(とうどり)であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思って、
「それは余りよくなかろう。マサカの時は大変だから。」と言ったが聞きませんでした。
「なぁに、大したことはない。」
自ずから方便ありなんてヅウヅウしくやっていたが、とうとう捕ってしまいました。それは、おかしいどころではなく、一時は大いに心配しました。
喧嘩の真似
それからこんな事もありました。その乱暴さ加減といったら、今の人には思いも寄らないことでしょう。警察がなかったので、言ってみれば何でも勝手次第でです。元来、大阪の町人は極て臆病です。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまいますが、大阪では野次馬はとても出て来ません。夏の事でしたが、夕方に飯を食ってブラブラ出て行きました。申し合せをして、市中で大喧嘩の真似をするのです。お互に痛くないように、大そうな剣幕で大きな声で怒鳴って掴合い、打合いをします。そうすると、その辺の店はバタバタと片付けて戸を締めてしまって、ひっそりとなるのです。喧嘩といっても、ただそれだけの事で他に意味はありません。どうやってやるかというと、同類が二、三人ずつ分かれて、一番繁昌(はんじょう)な賑やかな所で双方から出逢うよう仕組むので、賑やかな所といえば先ず遊廓の近所、新町(しんまち)九軒(くけん)の辺でいつもやっていたのですが、あまり一箇所でやって化けの皮が剥がれるといけないので、今夜は道頓堀でやろう、順慶町(じゅんけいまち)でやろうと言ってやったこともあります。信州の沼田芸平(ぬまたうんぺい)などは、とても喧嘩が上手じょうずでした。
弁天小僧
それから、こういう事もありました。私と久留米の松下元芳(まつしたげんぽう)という先輩の同窓生の医者と二人連れで、御霊(ごりょう)という宮地(みやち)に行って夜店の植木を冷やかしてると植木屋が、
「旦那さん悪さをしてはいけまへん。」
と言ったのは、我々の風体を見て万引をしたという意味だから、サア了簡(りょうけん)しない。まるで弁天小僧のように拈繰返(ねじくりかえ)した。
「何でもこの野郎を打殺してしまえ。理屈を言わずに打殺してしまえ。」と私が怒鳴る。
松下は慰めるような振りをして、「マア殺さぬでもよいじゃないか。」
「いや、面倒だ。一打ちに打殺してしまうから止めなさんな。」
と、それこれする中に往来の人は黒山のように集まって大混雑になってきたので、こっちは尚面白がって威張っていると、御霊の善哉屋(ぜんざいや)の餅搗(もちつき)か何かしている角力取(すもうとり)が仲裁に入って来て、
「どうか許してやって下さい。」と言うから、
「よし貴様が中に入れば許してやる。しかし、明日の晩ここに店を出すと打殺してしまうぞ。折角、中に入ったから今夜は許しやるから。」
と言って、翌晩行って見たら、正直な奴で、植木屋のところだけ土場見世(どばみせ)を休んでいました。今のように全く警察というものがなかったので、乱暴は勝手次第でした。けれども、それほど悪い事はしません。一寸(ちょいと)この植木見世ぐらいの話で、実害のある悪事は決してしませんでした。
チボと呼ばれる
私が一度とても恐い思いをしたことは、これも御霊(ごりょう)の近所で上方(かみがた)に行われる砂持(すなもち)という祭礼のような事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠(とうろう)を頭に掛けてヤイヤイ言って行列をなして町を通るのです。書生三、四人してこれを見物しているときに、私がどういうわけかわかりませんが、恐らく酒で気分が高揚していたのでしょう、杖(つえ)か何かでその頭の灯籠を打ち落としたのです。スルト、その連中の仲間と思えるやつが、「チボじゃ、チボじゃ!」と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)といえば、理非(りひ)を分かたず打殺して川に投込む習しだから、私は本当に怖かった。とにかく逃げるしかないと覚悟をして、跣(はだし)になって堂島の方に逃げたました。その時、私は脇差(わきざし)を一本挟(さ)していたから、もし追付かるようなことがあれば、後ろを向いて進んで斬るより仕方がなかった。しかし、斬っては誠にまずい。仮にも人に傷を付ける了簡(りょうけん)はないから、ただ一生懸命に駆けて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷に飛込んでホット呼吸(いき)をした事がありました。
無神無仏
また、大阪の東北の方に葭屋橋(あしやばし)という橋があります。その橋の手前のところを築地といって、昔は誠に如何(いかが)なものかと思うような家ばかり並んでいて、マア待合いをする地獄屋とでもいうような、とても汚い町でしたが、その築地の入口の角に地蔵様か金比羅様か知りませんが、小さな堂がありました。中々繁昌している様子で、そこに色々な額が上げてあります。あるいは、男女の拝んでるところが描いてあったり、何か封書が順に貼付けてあったり、また、髻(もとどり)が切って結い付けてあったりしました。それを昼のうちに見ておいて、夜になるとその封書や髻(もとどり)のあるのを引っさらって塾に持って帰って開封してみると、種々様々な願(がん)が掛けてあるから面白い。
「ハハア、これは博奕(ばくち)を打った奴が止めるというのか。これは禁酒だ。これは難船に助かったお礼。こっちのは女狂いにこりごりした奴だ。それは何歳の娘が妙な事を念じている。」
などなど、ただそれを見るのが面白くて毎度やった事ですが、とにかく、人の一心を籠(こ)めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことです。無神無仏の蘭学生にあっては仕方がないのですが。
遊女の贋手紙
それから、塾中の奇談をいうと、そのときの塾生は大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪(そうはつ)で、田舎から出て来てはいるけれども、大阪の都会にいる間だけは半髪(はんぱつ)になって、天下普通の武家の真似をしてみたいのです。今の真宗の坊主が毛を少し延ばして当前(あたりまえ)の断髪の真似をするようなもので、本当は医者の坊主なのですが半髪(はんぱつ)になって刀を挟(さ)して威張るのを嬉しがっていました。その時、江戸から来ている手塚という書生がいて、この男はある徳川家の藩医の子でしたから、親の拝領した葵(あおい)の紋付(もんつき)を着て、頭は塾中で流行していた半髪(はんぱつ)で、太刀作りの刀を挟(さ)してるという風だから、いかにも見栄えがあって立派な男でありましたが、どうも身持ちが良くなかったのです。ソコデ、私が或る日、手塚に向かって、
「君が本当に勉強するならば、僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき、北の新地に行くことはやめなさい。」
と言ったら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて
「アア新地か。今思い出してもいやだ。決して行かない。」
「それならきっと君に教えてやるけれども、まだ疑わしい。行かないという証文(しょうもん)を書け。」
「よろしい。どんな事でも書く。」
と言うから、云々(うんぬん)今後きっと勉強する。もし違約をすれば坊主にされても苦しからず、という証文を書かせて、私の手に取とっておいて、約束の通りに毎日別段に教えていました。ところがその後、手塚が真面目に勉強するから面白くない。こういうのは、全くこっちが悪いのですが、人が勉強するのを面白くないとは、けしからぬ事ですけれども、まったく興(きょう)がないから、そっと両三人に相談して、
「あいつの馴染みの遊女は何という奴かしら。」
「それはすぐに分わかる、何々という奴。」
「よし、それならば一つ手紙をやろう。」
と、それから私が遊女風の手紙を書きました。片言交(かたことまじ)りに彼らの言いそうな事を並べ立て、何でもあの男は無心をいわれているに相違ない。その無心は、きっと麝香(じゃこう)をくれろ、とか何とか言われた事があるに違いない、と推察して、文句の中に
「それ、あのとき約束のじゃこはどておます。」
というような、判じて読まねば分らぬような事を書き入れて、鉄川様へ、何々より、と記して手紙は出来た。しかし私の手蹟(しゅせき)じゃまずいから、長州の松岡勇記(まつおかゆうき)という男が御家流(おいえりゅう)で女の手で書いたように紛らわしく書いて、それから玄関の取次ぎをする書生を言いふくめて、
「これを新地から来たといって持って行け。ただし、本当のことを言ったら打撲(ぶちなぐ)るぞ。よろしいか。」
と脅迫して、それから取次が本人のところに持って行って、
「鉄川という人は塾中にない、多分手塚君のことだ思うから持って来た。」と言って渡した。
手紙偽造の共謀者はその前から隠れて様子を窺っていたところ、本人の手塚はひとりでしきりにその手紙を見ている。麝香(じゃこう)の無心があったかどうかは分らないが、手塚の二字を大阪なまりで「テツカ」というので、その「テツカ」を鉄川と書いたのは、高橋順益(じゅんえき)の思付きで、よほどよく出来ている。そんな事でどうやらこうやら、ついに本人をしゃくり出してしまったのは罪の深い事です。二、三日は留まっていましたが、結局行っってしまったから、そりゃしめた、と共謀者は待っていました。翌朝に帰って平気でいるから、こっちも平気で、私が鋏(はさみ)を持っていって、ひょいと引捕まえたところが、手塚が驚いて
「どうするつもりだ。」と言うから、
「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろ。」
と言って、髻(もとどり)を捕まえて鋏をガチャガチャいわせると、当人は真面目になって手を合せて拝む。そうすると、共謀者の中から仲裁人が出て来て、
「福澤、余り酷いじゃないか。」
「何も文句などないじゃないか、坊主になるのは約束だ。」
と問答の最中に、馴合いの中人(ちゅうにん)が段々と取り持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一緒に飲みながら、また冷ひやかして、
「お願いだ、もう一度行ってくれんか。また飲めるから。」
とワイワイしたのは随分乱暴だけれども、それが自ずから切諫(いけん)になっていたこともあったでしょう。
御幣担ぎを冷かす
同窓生の間には色々な事のあるもので、肥後から来ていた山田謙輔(やまだけんすけ)という書生はごくごくの御幣担(ごへいかつぎ)で、し(死)の字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の海老蔵(えびぞう)が道頓堀の芝居に出ているときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵の「よばい」(芝居のい「し」の字を避けて「よ」に置き換えている)を見るなんていうくらいな御幣担(ごへいかつぎ)だから、性格は至極(しごく)立派な人物だけれとも、どうも蘭学書生には疎まれていました。何かの話のついでにそのことをを愚弄(ぐろう)すると、山田は、
「福澤、福澤、君は無法な事ばかり言うが、マア良く考えてみたまえ。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うのと鶴を台に乗せて担いで来るのを見るのとだったら、どっちが良いか。」
と言うから、私は、
「それは知れた事だ。死人は食われんから鶴のほうがいい。けれども鶴だって俺に食わせなければ死人も同じ事だ。」
と答えたような塩梅式(あんばいしき)で、いつも冷やかして面白がっていました。あるとき、長与専斎(ながよせんさい)か誰かと相談して、あいつを大いにからかってやろうじゃないか、と一工風(ひとくふう)しました。当人が不在の間にその硯(すずり)に紙を巻いて位牌(いはい)をこしらえて、長与の書が上手いから立派に何々院何々居士(こじ)という山田の法名(ほうみょう)を書いて机の上に置いて、当人の飯を食う茶碗に灰を入れて線香を立てて、位牌の前にチャント供えておいておきました。帰って来てこれを見てなんとも嫌な顔をして、真青になって腹を立てていました。私共はどうも怖かったです。もしも短気な男なら切付けて来たかも知れなかったですから。
欺て河豚(ふぐ)を喰わせる
それからまた、一度やった後で怖いと思ったのは、人をだまして河豚(ふぐ)を食わせた事です。私は大阪にいるとき颯々(さっさ)と河豚(ふぐ)も食えば河豚の肝(きも)も食っていました。ある時、芸州(げいしゅう)仁方(にがた)から来ていた書生、三刀元寛(みとうげんかん)という男に、鯛(たい)の味噌漬けをもらって来たが食わぬかというと、
「有難い、成程いい味がする。」
と、よろこんで食ってしまって二時間ばかり経たってから、
「いや、かわいそうに、今食ったのは鯛でも何でもない。中津屋敷でもらった河豚(ふぐ)の味噌漬だ。食物の消化時間は大抵知ってるだろう。今、吐剤(とざい)を飲んでも無益だ。河豚(ふぐ)の毒が吐かれるなら吐いてみろ。」
といったら、三刀も医者の事だからよく分わかっている。サア気を揉んで私に武者振付くように腹を立てたましたが、私も後になって余り洒落に念が入過ぎたと思て心配しました。おおきな間違いが起こってしまってもおかしくない話ですから。
料理茶屋の物を盗む
前に言った通り、御霊(ごりょう)の植木店で万引と疑われたのですが、疑われるのも無理はありません。緒方の書生は本当に万引をしていて、その万引というのは、呉服店(ごふくや)で反物(たんもの)を万引きするなどいった念の入った事ではなくて、料理茶屋で飲んだ帰りに猪口(ちょこ)だの小皿だの色々手ごろな品をそっと盗んで来るような万引でした。同窓生同士でそれを手柄のように自慢し合っているから、送別会などの大きな会のときには穫物も多いのです。中には昨夜の会で団扇(うちわ)の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し、吸物椀(すいものわん)の蓋(ふた)を袂(たもと)に入れる者もいました。また、ある奴は、君達がそんな半端物ものを盗んで来るのはまだ拙(つたな)い。乃公(おれ)の獲物を拝見したまえ、と言って小皿を十人前揃って手拭いに包んで来たこともありました。今思えば、これは茶屋でもトックに知っていながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払いの内に入っていたに相違ないと思っています。毎度の事でお決まりの盗坊(どろぼう)ですから。
難波橋から小皿を投ず
その小皿と関係のあるちょっと変わった話で、ある夏の事があります。夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、「あぁ飲みたい。」と一人が言うと、僕もそうだ、という者がすぐに四、五人出てきました。ところが、チャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜という納涼の葭簀張(よしずば)りで、不味いけれども芋蛸汁(いもだこじる)か何かをつまみに安い酒を飲んで、帰りに例のごとく小皿を五、六枚万引きして来ました。夜十二時過ぎだったか、難波橋(なにわばし)の上に来たら、下流の方で茶船(ちゃぶね)に乗のってジャラジャラと三味線を鳴らして騒いでいる奴がいました。
「あんな事をしていやがる。こっちは百五十かそこらの金を見つけ出してようやく一盃(いっぱい)飲んで帰るところだっていうのに。忌々(いまいま)しい奴等だ。あんな奴がいるからこちらが貧乏するのだ。」
と言いながら、私の持ってる小皿を二、三枚投げ付けたら、一番しまいの一枚で三味線の音がプッツリ止んだのです。その時は急いで逃げたから、人が怪我をしたかどうか分かりませんでした。ところが、不思議にも一か月ばかり経ってそれが良く分かったのです。塾の一書生が北の新地に行って、どこかの席で芸者に会ったとき、その芸者の話で、
「世の中には酷い奴もある。一か月ばかり前の夜に私がお客さんと舟で難波橋(なにわばし)の下で涼んでいたら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に当たって、裏表の皮を打抜きました。本当に危ない事で、とりあえず、怪我をせんのがしあわせでした。どこの奴だか四、五人連れで、その皿を投げておいて南の方にドンドン逃げて行きました。実に憎らしい奴もいるものです。」
というふうに芸者が話していたというのを、私共はそれを聞いて下手人(げしゅにん)にはチャント覚えがあるけれども、言えば面倒だから、その同窓の書生にもその時には隠しておきました。
禁酒から煙草
また、私は酒のために生涯に亘って大損をして、その損害は今日までも身に染みています。それは、緒方の塾で学問修業をしていながら、とかく酒を飲んで良いことは少しもないのです。これは済まぬ事だと思い、恰(あだか)も一念ここで発起したように断然酒を止めました。すると塾中の大評判ではなく、大笑いで、
「ヤア、福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い。コリャ可笑(おか)しい。いつまで続くだろう。とても十日は持てまい。三日禁酒で明日には飲むに違いない。」
なんて冷やかす者ばかりでしたが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずにいると、親友の高橋順益(じゅんえき)が、
「君の辛抱は偉い。よく続く。尊敬するぞ。ところが、およそ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓(とん)に禁ずることはよろしくない。到底出来ない事だから、君がいよいよ禁酒と決心したならば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ。」
と親切ぶっていうのです。ところが私は烟草(タバコ)が大嫌いで、これまでも同塾生の烟草(タバコ)を喫(の)むのを散々に悪く言って、
「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫(の)む奴の気が知れない。何はさておき臭くて穢(きた)なくて堪らん。乃公(おれ)の側では喫んでくれるな。」
なんて、愛想づかしの悪口を言っていたから、今になって自分が烟草(タバコ)を始めるのはどうもきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理でもない。
「そんならやってみようか。」
と言ってそろそろと試みると、塾中の者が烟草(タバコ)をくれたり、烟管(キセル)を貸してくれたり、中にはこれは極(ごく)軽い烟草(タバコ)だと言ってわざわざ買って来てくれる者もありました。このような騒ぎは、何も本当の親切でも何でもなかったのです。実は、私が普段から烟草(タバコ)の事を悪く言ってばかりいたものだから、今度はあいつを喫烟者(タバコのみ)にしてやろうと、寄って掛かって私を愚弄(ぐろう)したのです。分っていたけれども、こっちは一生懸命禁酒に熱心だから、いやな烟(けむり)を無理に吹かして、十日も十五日もして、そろそろ慣れてきた中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が良くなってきてしまいました。およそ一か月ばかり経って、本当の喫烟客(タバコのみ)になってしまったのです。ところが、問題は例の酒です。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら、一寸(ちょい)と一盃(いっぱい)やってみると堪らない。モウ一盃(いっぱい)、これでおしまい、と力(りき)んでも、徳利(とくり)を振ってみて音がすれば我慢が出来ない。とうとう、三合の酒を全部飲んでしまって、また翌日は五合飲む。五合、三合、従前(もと)の通りになっていしましました。さらに昔のように烟草(タバコ)を喫(の)まないようにしようとしても、これも出来ず、馬鹿馬鹿しいとも何ともわけが分わかりません。とても叶(かな)わぬ禁酒の発心(ほっしん)。一か月の大馬鹿をして、酒と烟草(タバコ)の両刀使いに成り果ててしまいました。六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたけれども、烟草(タバコ)は止みそうにもせず、衛生のため自らなせる損害と申して、一言(いちごん)の弁解もありません。
桃山から帰て火事場に働く
塾中には、とにかく貧生(ひんせい)が多いので、料理茶屋に行って旨い魚を食うことは、まずむずかしいです。夜になると天神橋か天満橋の橋詰(はしづめ)に魚市が立ちます。マア、言わば魚の残物(ひけもの)のようなもので値が安いのです。それを買って来て洗水盥(ちょうずだらい)で洗って、壊れた机か何かを俎(まないた)にして、小柄(こづか)でもって拵(こしら)える、というような事を毎度やっていました。私は昔から手先が器用だから、いつでも魚洗いの役目にまわっていました。三月頃の桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山(ももやま)というところがあって、盛りだというから花見に行こうと誘いがきました。あっちに行って茶屋で飲食いしようなどということは、とても叶いませんから、例の通り前の晩に魚の残物を買ってきて、そのほか、氷豆腐だの野葉物(やさいもの)だの買い揃えて、朝早くから起きて怱々(そうそう)にこしらえて、それを折か何かに詰めます。それから酒を買って、およそ十四、五人も同伴(つれ)があったでしょうか、弁当を順持ちにして桃山に行って、さんざん飲み食いして、いい機嫌になっているその時に、ふと西の方を見ると大阪の南が大火事になっていました。日は余程ど落ちて昔の七ツ過ぎでした。サア大変だ。丁度その日に長与専斎(ながよせんさい)が道頓堀の芝居を見に行っていました。われわれ花見連中は、何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けなくても構わないけれども、長与(ながよ)が行っているので心配しました。もしや、長与(ながよ)が焼死(やけじ)にはしないだろうか。何が何でも長与(ながよ)を救い出さなければならぬというので、桃山から大阪まで、二、三里の道をどんどん駆けて、道頓堀に駆けつけてみました。しかし、とうに焼けてしまい、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼け広がっていました。長与(ながよ)はどうしたろうかと心配したものの、とても捜すわけに行きませんでした。間もなく日が暮れて夜になってしまいました。もう夜になっては長与(ながよ)の事は仕方がない。
「火事を見物しようじゃないか。」
と言って、その火事の中へどんどん入って行くと、荷物を片付けるので大騒ぎです。それから、その荷物を運んでやろうということで、夜具包(やぐづつみ)か何の包か、風呂敷包を担いだり、箪笥(たんす)を担いだりと、中々働いて、段々進んで行きました。その時、大阪では焼ける家の柱に綱を付けて家を引倒す、ということがあり、その綱を引張ってくれと言われました。「よし来た。」とその綱を引張ってあげると、お礼に握飯(にぎりめし)を食わせるわ、酒を飲ませるわと、どうにも堪らない面白い話になりました。散々、酒を飲み、握飯(にぎりめし)を食って、八時頃にもなっていたでしょうか。それから一同、塾に帰りました。ところが、まだ焼けているところがありました。「もう一度行こうではないか。」とまた出掛けました。その時の大阪の火事というのは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ入ると誠に静かなものなのです。一人も人が居らぬくらいでした。どうってことはありません。ただ、その周囲のところに人がドヤドヤ群集しているだけです。それゆえ、大きな声を出して蹴破って中へ飛込みさえすれば、誠に楽な話なのです。中では火消しの黒人(くろうと)と緒方の書生だけで大いに働いた事があるというようなわけで、随分活溌な事をやったことがありました。
塾生の乱暴というものは、これまで申した通りでありますが、その塾生同士、相互の間柄というのは至って仲のよいものでした。決して争いなどをしたことはありません。勿論、議論はします。いろいろな事について互に論じ合うということはあっても、決して喧嘩をするような事は絶対にありませんでした。特に私は性質として朋友と本気になって争ったことはありません。たとえ議論をしたとしても、面白い議論のみをしていました。例えば、赤穂(あこう)義士の問題が出て、義士は果して義士なるか、それとも不義士となるか、という議論が始まったとします。すると、私はどちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在だ。君が義士と言えば、僕は不義士にする、君が不義士と言えば、僕は義士にして見せよう。さぁ来い。幾度来ても苦しくないと言って、敵になり、味方になり、散々論じて勝ったり負けたりするのが面白い、というくらいで、毒のない議論は毎度大声でやっていました。本当に顔を赤らめて、どうあっても是非を別ってしまわなければならぬ、という実の入った議論をしたことは決してありません。
塾生の勉強
およそ、こういう風(ふう)で、外に出ても、また内にいても、乱暴もすれば議論もします。ソレ故(ゆえ)、一寸(ちょい)と一目(いちもく)見たところでは――今までの話を開きいただけでは、いかにも学問どころの事ではなく、ただワイワイしていたのかと思う人がいるでしょうが、そこの一段に至っては決してそうではありません。学問、勉強ということになっては、当時の世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われます。その一例を申せば、安政三年の三月、私が熱病を煩って、幸いに全快に及びましたが、病中は括枕(くくりまくら)で坐蒲団(ざぶとん)か何かを括(くく)って枕にしていたのですが、追々(おいおい)元の体に回復してきたところで、普通の枕をしてみたいと思ったのです。その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人いて、その家来に、普通の枕をしてみたいから持って来いと言ったのですが、枕がないのです。どんなに捜してもないと言われて、ふと思い付きました。それまで倉屋敷に一年ばかりいたのですが、ついぞ枕をしたことがありませんでした。と言うのは、時間は何時(なんどき)でも関係ないのです。ほとんど昼夜の区別はなく、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいるのです。読書にくたびれて眠くなってくれば、机の上につっぷして眠るか、あるいは床の間の床側(とこふち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがありませんでした。その時に初めて自分で気が付ついて、
「なるほど、枕はないはずだ。これまで枕をして寝たことがなかったからだ。」
と初めて気が付きました。これで大抵の趣(おもむき)が分かりましょう。これは、私一人が別段に勉強生でも何でもないのです。同窓生は大抵皆そんなもので、およそ、勉強ということについては、実にこれ以上に為(し)ようはない、という程に勉強していました。
それから、緒方の塾に入ってからも、私は自分の身に覚えがあります。夕方、食事の時分に、もし酒があれば酒を飲のんで初更(よい)に寝ます。一寝して、目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。それから、ヒョイと起きて書を読みます。夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊きがコトコトと飯を焚く仕度をする音が聞こえると、それを相図にまた寝ます。寝てちょうど飯の出来上った頃に起きて、そのまま湯屋に行って朝湯(あさゆ)に入って、それから塾に帰って朝飯を食べて、また書を読むというのが、大抵の緒方の塾にいる間の決まりでした。もちろん、衛生などなどいうことは、頓(とん)と構わいませんでした。全体は医者の塾であるから、衛生論も喧しく言いそうなものではあるけれども、誰も気が付かなかったのか、あるいは思い出さなかったのか、一寸(ちょい)とでも喧しく言ったことはありませんでした。それでも平気でいられたというのは、考えてみれば身体が丈夫であったのか、あるいは、衛生々々というようなことを無闇に喧しく言えば、かえって身体が弱くなると思っていたのではないかと思います。
原本写本会読の法
それから、塾で修行するその時の仕方はどういう塩梅(あんばい)であったかと言いますと、まず初めて塾に入門した者は何も知りません。何も知らない者にどうやって教えるかというと、その時、江戸で飜刻(ほんこく)になっている和蘭(オランダ)の文典が二冊ありました。一冊を「ガランマチカ」といい、もう一冊を「セインタキス」といいます。初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読(そどく)を授けるかたわらに、講釈もして聞かせます。これを一冊読み終わると、セインタキスをまたその通りにして教えます。どうやら、こうやら、二冊の文典が解(げ)せるようになったところで会読(かいどく)をさせます。会読というのは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭(かいとう)が一人いて、その会読をするのを聞いていて、出来不出来によって白玉(しろだま)を付けたり、黒玉(くろだま)を付けたりするという趣向です。そこで文典二冊の素読も済んで、講釈も済み、会読も出来るようになると、それから先は専(もっぱ)ら自身自力の研究に任せることにして、会読本に分からないところがあっても、一字半句も他人に質問することを許しません。また、質問を試みるような卑劣な者もいませんでした。
緒方の塾の蔵書というものは、物理書と医書とこの二種類のほかに何もありません。それも、取集めて僅か十部ほどしかなく、もとより和蘭(オランダ)からの舶来の原書でして、一種類、ただ一部に限ってしかないので、文典以上の生徒になれば、どうしてもその原書を写さなくてはなりません。銘々に写して、その写本をもって毎月六回くらい会読をするのですが、これを写すには、十人なら十人一緒に写すわけにはいかないので、誰が先に写すかということは籤(くじ)で決めていました。さて、その写し方はどうするかというと、その時にはもちろん洋紙というものはないので、皆日本紙で、紙をよく磨(す)って真書(しんかき)で写します。しかし、それではどうも埓(らち)が明かないので、その紙に礬水(どうさ)をして、それから筆は鵞筆(がぺん)でもって写すのが、まず一般の風でありました。その鵞筆(がぺん)というのは、どういうものであるかというと、その時の大阪の薬種屋(やくしゅや)か何かに、鶴か雁(がん)かわかりませんが、三寸ばかりに切った鳥の羽の軸を売る所が幾らでもあったのです。これは、鰹(かつお)の釣道具にするものとやら聞いていました。値段は至極(しごく)安い物で、それを買って、磨澄(とぎす)ました小刀(こがたな)でもってその軸をペンのように削って使えば役に立つのです。それから、墨も西洋インキがあるわけではありません。日本の墨壺(すみつぼ)というのは、磨いた墨汁(すみ)を綿か毛氈(もうせん)の切布れに浸して使うのですが、私などが原書の写本に使うのは、ただ墨を磨いたまま墨壺(すみつぼ)の中に入れて、今日のインキのようにして貯えて置きます。こういう次第ですから、塾中誰でも必ず写さなければならないので、写本は中々上達して上手なのです。一つ例を挙げれば、一人の人が原書を読むその傍らで、その読む声がちゃんと耳に入って、颯々(さっさ)と写してスペルを誤ることがありません。こういう塩梅(あんばい)に、読む人と、写す人と、二人掛かりで写したり、また一人で原書を見て写したりして、出来上がれば原書を次の人に回すのです。その人が写し終わると、またその次の人が写す、というように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か、あるいは四、五枚程度でした。
自身自力の研究
さて、その写本の物理書、医書の会読(かいどく)をどのようにするかというと、講釈をしてくれる人もいなければ、読んで聞かせてくれる人もいません。内証(ないしょ)で教えることも、聞くことも書生の間の恥辱(ちじょく)として、万々が一もこれを犯す者はいません。ただ自分一人でもってそれを読み砕かなければならないのです。読み砕くには、文典を土台にして辞書に頼るほかに道はありません。その辞書というのは、塾に一部あったヅーフという写本の字引(じびき)です。これは、中々大部なもので、日本の紙でおよそ三千枚あります。これを一部こしらえるということは、中々大きな騒ぎで、容易に出来たものではありません。これは、昔に長崎の出島に在留していた和蘭(オランダ)のドクトル・ヅーフという人が、ハルマという独逸(ドイツ)和蘭(オランダ)対訳の原書の字引(じびき)を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇(あが)められていました。それを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲(まわり)に寄り合って見ていました。それから、もう一歩立上(のぼ)るとウエーランドという和蘭(オランダ)の原書の字引が一部あります。それは六冊物で和蘭(オランダ)の註が入れてあります。ヅーフで分からなければ、ウエーランドを見るのです。ところが、初学の間はウエーランドを見ても分かる場合は少ないです。それゆえ、頼るのはただヅーフのみです。会読(かいどく)は一、六とか三、八とか大抵は日が決まっていて、いよいよ明日が会読だというその晩は、いかなる懶惰(らいだ)生でも大抵寝ることはありませんでした。ヅーフ部屋という字引(じびき)のある部屋に、五人も十人も群(ぐん)をなして、無言で字引を引きつつ勉強して、それから翌朝の会読になります。会読をするにも籤(くじ)でもってここからここまでは誰、と決めて行います。会頭(かいとう)はもちろん原書を持っているので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられたところを順々に講じて、もしその者が出来なければ次に回します。また、その人も出来なければその次に回します。その中で解(げ)し得た者は白玉(しろたま)、解しそこなった者は黒玉(くろだま)、それから、自分の読む領分を一寸(ちょっと)でも滞りなく立派に読んだという者には白い三角を付けます。これは、ただの丸玉の三倍ぐらい優等な印で、およそ塾中の等級は七、八級くらいに分けてありました。そうして、毎級第一番の上席を三ヶ月占めていれば、登級(とうきゅう)するという規則で、会読以外の書であれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ、不審も聞いてやり、とても親切にして兄弟のようではあるけれども、会読の一段になっては、全く当人の自力に任せて構(かま)う者がないので、塾生は毎月六度ずつ試験を受けるようなものです。そういうわけで、次第に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読み尽くして、いわば手持無沙汰になります。その時には、何か難しいものはないかというので、実用的ではないような原書の緒言(ちょげん)とか序文とかを集めて、最上等の塾生だけで会読(かいどく)をしたり、または、先生に講義を願ったこともありました。私はその講義聴聞者の一人でありましたが、これを聴聞する中にも様々な先生の説を聞いて、その緻密なこと、その放胆(ほうたん)なこと、実に蘭学界の一大家(いちだいか)、名実共に違わぬ大人物である、と感心したことは毎度の事でした。講義が終り、塾に帰って朋友とお互いに、
「今日の先生のあの卓説はどうだい。何だか我々は頓(とん)に無学無識になったようだ。」
などと話したのを今でも覚えています。
市中に出て大いに酒を飲むとか、暴れるとかいうのは、大抵は会読を終えたその晩か翌日あたりで、次の会読までにはまだ四日も五日も時間があるという時に、勝手次第に出て行って、会読の日に近くなると所謂(いわゆる)月に六回の試験だから、非常に勉強していました。書物をよく読むかどうかは、人々の才不才(さいふさい)にもよりますけれども、とにかく、外面をごまかして何年いるから登級(とうきゅう)するの、卒業するの、ということは絶対になく、正味(しょうみ)の実力を養うというのが実際に行われていたので、大概の塾生はよく原書を読むことに達していました。
写本の生活
ヅーフの事について、ついでながら言うことがあります。ある時、諸藩の大名が、そのヅーフを一部写してもらいたい、という注文を申込こんで来たことがあります。そこで、その写本ということが、書生の生活の種子(たね)になっていました。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文(なんもん)という相場でした。ところが、ヅーフ一枚は横文字三十行位くらいのものですから、それだけの横文字を写すと一枚十六文(もん)。それから、日本文字で入れてある註のほうを写すと八文。ただの写本に較べると、よほど割りが良かったのです。一枚十六文(もん)ですから、十枚写せば百六十四文になります。註の方ならばその半値の八十文になります。註を写す者もあれば横文字を写す者もありました。それを三千枚写すというのですから、合計してみると中々大きな金高(きんだか)になって、書生の生活を助けていました。今日の価値で考えれば何でもないような金ですが、その時には決してそうでありませんでした。一例を申せば、白米(はくまい)一石(いっこく)が三分二朱(さんぶにしゅ)、酒が一升(いっしょう)百六十四文から二百文で、書生在塾の入費(にゅうひ)は一か月一分貳朱(しゅ)から一分三朱(しゅ)あれば足ります。一分貳朱は、その時の相場でおよそ二貫(にかん)四百文ですから、一日が百文より安いのです。しかるに、ヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、およそ尋常一様(じんじょういちよう)の写本をして塾にいられるなどということは、世の中にないことでありますが、それが出来るのは蘭学書生に限る特色の商売でありました。それについて、一例を挙げればこういうことがありました。江戸はさすがに大名のいるところなので、ヅーフばかりでなく、蘭学書生のために写本の注文は盛んにありましたので、自然と値段が高いのです。大阪と較べてみれば、だいぶ高いです。加賀の金沢の鈴木儀六(すずきぎろく)という男は、江戸から大阪に来て修業した書生ですが、この男が元来一文なしで江戸にいて、辛苦(しんく)して写本でもって自分の身を立てて、その上に金を貯えました。およそ一、二年辛抱して金を二十両ばかりこしらえて、大阪に出て来て、とうとうその二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰りました。これなどは、全く蘭書写本のお蔭です。その鈴木の考えでは、写本をして金を取るのは江戸が良いのですが、修業するにはどうしても大阪でなければ本当の事が出来ない、と目的を定めて、それでその金を持って来たのであると話していました。
工芸伎術に熱心
それから、また一方では、今日のようにすべて工芸技術の種子(たね)というものがありませんでした。蒸気機関などは見ようといっても日本国中でどこにもありはしません。化学(ケミスト)の道具などは、どこにも揃ったものはありそうになかったのです。揃った物どころではなく、不完全な物でさえもなかったでしょう。けれども、そういう中にいながら、器械の事にせよ、化学の事にせよ、大体の道理は知っているから、どうにかして実地を試みたいものだというので、原書を見てその図を写して似たような物を拵(こしら)えるということについては中々骨を折りました。私が長崎にいるとき、塩酸亜鉛(あえん)があれば鉄にも錫(すず)を付けることが出来るということを聞いて知っていました。それまで、日本では松脂(まつやに)ばかりを用いていました。松脂(まつやに)で銅(あかがね)の類(るい)に錫(すず)を流して鍍金(めっき)することは出来ました。唐金(からかね)の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋(いかけや)の仕事でありますが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫(すず)が付くというので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとしたところが、薬店に行っても塩酸は売っていません。自分でこしらえなければならないのです。塩酸をこしらえる方法は書物で分かります。その方法によって、どうやら、こうやら、塩酸をこしらえて、これに亜鉛を溶かして、鉄に錫(すず)を試みて、鋳掛屋(いけかや)の夢にも知らぬ事が立派に出来た、というようなことが面白くて堪りませんでした。あるいは、またヨジユム(ヨウ素)を作ってみようではないかと、色々書籍を調べ、天満(てんま)の八百屋市(やおやいち)に行て昆布荒布(あらめ)のような海草類を買って来て、それを炮烙(ほうろく)で煎って、こういう風にすれば出来るというので、やってみると真黒にはなったけれども、これはとうとう出来ませんでした。
それから、今度は磠砂(どうしゃ)製造の野心を起しました。まず第一に必要なのは塩酸暗謨尼亜(アンモニア)でありますが、これはもちろん薬店にある品物ではありません。その暗謨尼亜(アンモニア)を造るにはどうするかといえば、骨(こつ)です。……骨よりもっと面倒なしに出来るのは鼈甲屋(べっこうや)などに馬爪(ばづ)の削屑(けずりくず)がいくらでもあって、これをただでくれます。肥料にするかせぬか分かりませんが、行きさえすればくれるから、それをドッサリもらって来て、徳利(とくり)に入れて、徳利の外に土を塗り、素焼の大きな瓶(かめ)を買って七輪にして、たくさん火を起し、その瓶(かめ)の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管(くだ)を付けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシドシ火を扇ぎ立てると管の先からタラタラ液が出て来ます。すなわち、これが暗謨尼亜(アンモニア)です。すごく簡単に取れることは取れますが、ここで困ったのはその臭気です。臭いの臭くないの、なんとも言いようがない匂いでした。あの馬爪(ばづ)、あんな骨類(こつるい)を徳利に入れて蒸焼(むしや)きにするのですから、実に鼻持ちならない匂いがします。それを緒方の塾の庭の狭いところでやるのですから、奥にいても堪りません。奥で堪らないばかりではないです。さすがの乱暴書生もこれには辟易(へきえき)して、とても耐えられません。夕方に湯屋(ゆや)に行くと着物が臭くて犬が吠えるというくらいでした。仮令(たと)い真裸体(まっぱだか)でやっても身体が臭いといって人に嫌がられます。もちろん、製造している本人らは、どうにかこうにかして磠砂(どうしゃ)という物をこしらえてみましょう、と熱心に頑張っているから、臭いも何も構いません。しきりに試みているけれども、なにぶん周辺の者がやかましいわけです。下女下男までもが気分が悪くて御飯が食べられないと訴えました。そんなこんなでヤット妙な物が出来たことは出来たのですが、粉のような物ばかりで結晶しません。どうしても完全な磠砂(どうしゃ)にならないのです。それに、喧しくて、喧しくて堪らないので、一旦やめにしました。けれども頑固な男はマダ諦めません。せっかく仕掛かった物が出来ないのでは、学者の外聞(がいぶん)が悪いとか何とかいうようなわけで、私だの久留米の松下元芳(まつしたげんぽう)、鶴田仙庵(つるたせんあん)等は諦めたが、二、三の人はまだやっていました。それで、どうしたかというと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇って、その船に例の瓶の七輪を積込んで、船中で今の通りの臭い仕事をやったのは良かったのですが、やっぱり煙が立って風が吹くと、その煙が陸の方へ吹付けられるので、陸の方で喧しく言われました。喧しく言われれば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋(てんまばし)から、ズット下の玉江橋(たまえばし)辺まで、上下に逃げてまわってやったことがあります。その男は中村恭安(なかむらきょうあん)という讃岐の金比羅(こんぴら)の医者でありました。このほかにも、犬猫はもちろん、死刑人の解剖、その他製薬の試験は毎度の事でありました。一見、当時の蘭学書生は、いかにも乱暴なようでありましたが、人の知らぬところで読書研究、また実地の事についてもなかなか勉強していたのです。
製薬の事に就ついても奇談があります。あるとき硫酸(りゅうさん)を造ろうというので、様々な大骨(おおぼね)折って不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬというので、その日はまず茶碗に入れて棚の上に上げておきました。ところが、鶴田仙庵が自分でこれを忘れて、何かのはずみにその茶椀を棚から落して硫酸を頭からかぶり、身体にはそこまでの径我はなかったのですが、ちょうど旧暦四月の頃で、一枚の袷(あわせ)をズタズタにした事があります。
製薬にはとにかく徳利(とくり)が必要なので、丁度良いのです。塾の近所の丼池筋(どぶいけすじ)に米藤(こめとう)という酒屋が塾の御出入(おでいり)でした。この酒屋から酒を取り寄せて、酒は飲んでしまって、徳利は留置(とめおき)していました。何本でもみんな製薬用にして返さないので、酒屋でも少し変に思ったとみえて、こっそり塾僕に問い合わせてきました。そうすると、書生さんは中身の酒よりも徳利の方に用があるそうだと聞いて、酒屋は大いに驚き、その後は何があっても酒を持って来なくなって困った事がありました。
黒田公の原書を引取る
また、筑前(ちくぜん)の国主、黒田美濃守(くろだみののかみ)という大名は、今の華族、黒田のお祖父(じい)さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入りして、もちろん筑前に行くでもなければ、江戸に行くでもなく、ただ大阪にいながら黒田家の御出入医(おでいりい)ということでありました。それゆえに、黒田の殿様が江戸出府(しゅっぷ)、あるいは帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は必ず中ノ嶋(なかのしま)の筑前屋敷に伺候(しこう)して御機嫌を伺うというのが常例でした。ある年、安政三年か四年と思いますが、筑前侯が大阪を通行になるというので、先生は例のごとく中ノ嶋の屋敷に行きました。帰宅早々に私を呼ぶので、何事かと思って行ってみると、先生が一冊の原書を出して見せて、
「今日筑前屋敷に行ったら、こういう原書が黒田侯の手に入ったと言って見せてくれられたから、ちょっと借りて来た。」
と言いました。これを見れば、ワンダーベルトという原書で、最新の英書を和蘭(オランダ)に翻訳した物理書で、書中は、誠に新らしい事ばかり、就中(なかんずく)エレキトルの事がいかにも詳(つまび)らかに書いてあるように見えました。私などが大阪で電気の事を知ったというのは、ただわずかに和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上のことは知りませんでした。ところが、この新舶来の物理書は英国の大家ファラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来ているから、新奇とも何とも、ただ驚くばかりで、一目見てただちに魂を奪われました。それから、私は先生に向むかって、
「これは誠に珍らしい原書でございますが、いつまでここに拝借していることが出来ましょうか。」と言うと、
「そうだなぁ。いずれ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると言っていた。御出立になるまでは、あちらに入り用もあるまい。」
「左様でございますか。ちょっと、塾の者にも見せとう御在ます。」
と言って、塾へ持って来て、
「どうだ、この原書は。」
と言ったら、塾中の書生は雲霞(うんか)のごとく集って一冊の本を見ているから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうということに一決して、
「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア写すのだ。」
しかし、千ページもある大部の書を皆写すことはとてもできそうもないから、末段のエレキトルのところだけ写そうということになりました。一同みんな筆、紙、墨の用意をして総がかりといったところでした。ここで一つ困った事は、大切な黒田様の蔵書をこわすことは出来ません。壊して手分けしてやれば、三十人も五十人もいるから、瞬く間に出来てしまうのですが、それは出来ません。けれども、緒方の書生は原書の写本に慣れているので、一人が原書を読むと、一人はこれを耳に聞いて写すことが出末ます。そこで、一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍って来ると、すぐにほかの者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でもすぐに寝る、とこういう仕組にして、昼夜の別なく、飯を食う間も煙草を喫(の)む間まも休まず、ちょいとも隙なしに、およそ二夜三日の間に、エレキトルのところだけでなく、図も写して読合せまで出来てしまって、紙数はおよそ百五、六十枚もあったと思います。ソコデ、出来ることならほかのところも写したいといったのですが、時日が許しませんでした。マアマアこれだけでも写したのは有難いということでした。先生の話によると、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞いて、貧書生等はただ驚くばかりでした。もとより、自分に買うという野心も起りません。愈(いよい)よ、今夕、侯の御出立がきまり、私共はその原書を撫でくり廻し、誠に親に暇乞(いとまご)いをするように、別れを惜しんで返したことがございました。それから後は、塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達していたと申して憚(はばか)りません。私などが、今日でも電気の話を聞いておよそ、その方角の分るのは、全くこの写本の御蔭であります。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々、今の黒田侯の方へ、ひょっとして、あの原書はなかろうかと問合せましたが、あっちでも混雑の際であったから、どうなったか見当らぬと言っていました。惜しい事でございます。
大阪書生の特色
これまでお話したような次第で、緒方の書生は学問上の事については少しも怠ったことはないです。その時の様子を話せば、江戸にいた書生が折節(おりふし)大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々(わざわざ)江戸に学びに行くという人はいませんでした。江戸に行くということは則(すなわ)ち、教えるということでしたから。だからと言って、大阪に限って日本国中粒ぞろいのエライ書生ばかりがいたわけではありませんし、また江戸に限って日本国中の鈍い書生ばかりがいたというわけでもありません。それなのに、なぜソレが違うのかということについては考えなくてはなりません。もちろん、その時には私なども大阪の書生がエライ、エライと自慢をしていましたけれども、それは人物が違うからというわけではありません。江戸と大阪と自ずと事情が違っていたのです。江戸の方では開国の始めとはいながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷という者があって、西洋の新技術を求めることが広く、且つ急でありました。したがって、いささかでも洋書を理解することの出来る者を雇うとか、あるいは飜訳をさせればその返礼に金を与えるとかいうような事で、書生輩が自ずから生計を立てることができる道に近かったのです。とても運の良い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石(こく)の侍になったということも稀にはありました。それに引き換え、大阪はまるで町人の世界で、何も武家というものはありません。したがって、砲術をやろうという者もなければ、原書を調べようという者もありはしませんでした。それゆえ、緒方の書生が幾年勉強してどれほどエライ学者になっても、頓(とん)と実際の仕事には縁がなかったのです。すなわち、衣食に縁がないということです。縁がないから縁を求めるということにも思い寄らぬので、しからば何の為に苦学するかといえば、簡単な説明はありません。前途自分の身体はどうなるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もありませんでした。名を求めないどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に自棄になっています。ただ、昼夜苦しんで難しい原書を読んで面白がっているようなもので、実にわけの分らぬ身のありさまとは言いながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、自(おの)ずから楽しみがありました。これを一言で表現すれば――西洋日進の書を読むことは、日本国中の人に出来ない事だ。自分達の仲間に限ってこんな事が出来るのだ。貧乏をしても、難渋をしても、粗衣粗食(そいそしょく)、一見みる影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位(きぐらい)で、ただ難しければ面白い、苦中有楽(くちゅううらく)、苦即楽(くそくらく)という境遇だったと思われます。たとえば、この薬は何に利くか知らぬけれども、自分達よりほかにこんな苦い薬をよく飲む者はなかろうという見識で、病のある所も問わずに、ただ苦ければもっと呑(の)んでやるというくらいの血気であったに違いはないです。
漢家を敵視す
もしも、本当にその苦学の目的が何かと問う者がいたとしても、返答はただ漠然とした議論になるばかりでしょう。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖論を言えばもとより開国派ですが、甚だしくこれを争う者もありません。ただ唯一の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でもかんでも支那流は一切打ち払いだということは、どことなく決まっていたようです。儒者が経史(けいし)の講釈しても聴聞しようという者もなく、漢学書生を見れば、ただおかしく思うだけです。ことに漢医書生は笑うばかりでなく、これを罵詈(ばり)して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島(なかのしま)に花岡(はなおか)という漢医の大家があって、その塾の書生はいずれも福生(ふくせい)と見え、服装も立派で、中々もって我々のような蘭学生の類(たぐい)とは違います。普段、往来で出逢っても、もとより言葉も交えず互いに睨み合って行き違うその後で、
「あの様(ざまァ)はどうだい。着物ばかり奇麗で何をしているんだ。空々寂々(くうくうじゃくじゃく)チンプンカンの講釈を聞いて、その中で古く手垢の付いてる奴が塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染(あかじ)みた傷寒(しょうかん)論を土産にして、国に帰って人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、あいつらを根絶(ねた)やしにして息の音を止とめてやるから。」
なんてワイワイいったのは毎度の事ではありますが、これも、こっちにこうという成算(せいさん)も何もないのです。ただ、漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔(きえん)を吐くばかりの事でした。
目的なしの勉強
兎(と)に角(かく)に、当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者でありますが、その目的のなかったのがかえって幸せで、江戸の書生よりもよく勉強が出来たのではないかと思います。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に、始終我身の行先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろうと思います。だからと言って、ただ迂闊(うかつ)に本ばかり見ているのは最もよろしくないです。よろしくないとは言いながら、また始終、今も言う通り自分の身の行末のみ考えて、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、どうすれば旨い物を食い、良い着物を着られるだろうかというような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは決して真の勉強は出来ないだろうと思います。就学勉強中は自ら静かにしていられなければならぬ、という理屈がここに出て来ていると思います。