見出し画像

福翁自伝 14. 品行家風

莫逆(ばくげき)の友なし

経済の事は右のごとくにして、私は私の流義を守って生涯このまま替えずに終わることであろうと思いますが、ソレからまた、自分の一身の行状はどうであったか、家を成した後に家の有様はどうかということについて、有りのままの次第を語りましょう。さて、私の若い時はどうだと申すに、中津にいたとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打ち解けて真実に交わることが出来ない。本当に朋友になって、共々に心事を語る所謂(いわゆる)莫逆(ばくげき)の友というような人は一人もない。世間にないのみならず、親類中にもない。といって私が偏窟(へんくつ)者で人と交際が出来ないというではない。ソリャ男子に接しても、婦人に逢っても快く話をして、ドチラかといえばお饒舌(しゃべり)の方であったが、本当を言うと表面(うわむき)ばかりで、実はこの人の真似をしてみたい、あの人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く言われて怖くもなく、すべて無頓着(むとんじゃく)で、悪く評すれば人を馬鹿にしていたようなもので、仮初(かりそめ)にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない。喧嘩をしなければ怪我もしない。友達と喧嘩をして泣いて家に帰って阿母(おっか)さんに言い告(つ)けるというようなことはただの一度もない。口先きばかり達者で内実は無難無事な子でした。

大言壮語の中、忌(い)むべきを忌む

ソレから、国を去って長崎に行き、大阪に出てその修業中も、ワイワイ朋友と共に笑い、共に語って浮々(うかうか)しているようにあるけれども、身の行状を慎み、品行を正しくするということは、努めずして自然にソレが私の体に備わっているといってもよろしい。モウそれは。さんざんな乱暴な話をして、大言壮語、至らざるところなし、という中にも嫌らしい汚い話ということは、一寸(ちょい)とでもしたことがない。同窓生の話によくある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんというような事を言いだそうとすると、私はわざとそこを去らずに、大箕坐(あぐら)をかいてワイワイとその話を打消し、

「馬鹿野郎、余計なことを口走るな。」

というような調子で雑(ま)ぜ返してしまう。ソレから、江戸に出て来ても相替(あいか)わらずその通り。朋友も多い事だから、相互(あいたがい)に往来するのは不断の事で、頻(しき)りに飛びまわっていたけれども、さて、例の吉原とか深川とかいう事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。そのくせ、私はよく事情を知っている。誠に事細かに知っているそのわけは、小本(こほん)なんぞ読むにも及ばず。近く朋友共が馬鹿話に浮かれて饒舌(しゃべ)るのを、黙って聞いていれば容易に分かる。難しい事も何もない。チャンと呑み込んで知っているけれども、いかなこと、左様(さよう)な事を思い出したこともないのみならず、吉原、深川はさて置き、上野の花見に行ったこともない。

始めて上野、向島を見る

私は安政五年、江戸に出て来て、ただ酒が好きだから所謂(いわゆる)口腹(こうふく)の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ。朋友相会(あいかい)すれば飲みに行くというような事は、ソリャしているけれども、遂(つい)ぞ、花見遊山(ゆさん)はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷(したや)の自宅出棺、駒込の寺に葬式執行(しっこう)のその時、上野山内を通行して初めて上野というところを見た。即(すなわ)ち、私が江戸に来てから六年目である。

「成(な)る程、これが上野か。花の咲くところか。」

と、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが、一度も見たことがない。ところで、明治三年、酷(ひど)い腸(ちょう)窒扶斯(チフス)を煩(わずら)い、病後の運動には馬に乗るのが最もよろしいと、医者も勧め、朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗って諸方を乗りまわり、向島というところも初めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれるところだけは、どこでも乗りまわして、東京の方角も大抵分かりました。その時に向島は景色もよし、道もよし、毎度馬を試みて、向島をまわって上野の方に帰って来るとき、何でも土手のようなところを通りながら、アァ、あれが吉原かと心付いて、ソレではこのまま馬に乗って吉原見物をしようじゃないかと言い出したら、連騎の者が、場所柄に騎馬では余り風(ふう)が悪いと止めて、ソレきりになって未だに私は吉原というところを見たことがない。

小僧に盃を差す

こういうような次第で、一寸(ちょい)と人が考えると私は奇人偏窟(へんくつ)者のように思われましょうが、決してそうではない。私の性質は、人に附き合いして愛憎(あいそう)のない積もりで、貴賤貧富(ひんぷきせん)、君子も小人も平等一様、芸妓に逢っても、女郎を見ても、塵(ちり)も埃(ほこり)もこれを見て何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。こいつは穢(けが)れた動物だ、同席は出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリプリ怒るというような事は決してない。古いむかしの事であるが、四十余年前、長崎にいるとき光永寺という真宗寺(しんしゅうでら)に同藩の家老が滞留中、ある日、市中の芸妓(げいぎ)か女郎か五、六人も変な女を集めて酒宴の愉快。私はその時、酒を禁じているけれども、陪席御相伴(ごしょうばん)を仰せ付けられ、一座、杯盤狼藉(はいばんろうぜき)の最中、家老が私に杯をさして、

「この酒を飲んで、その杯を座中の誰でもよろしい、足下(そくか)の一番好いてる者へさすがよかろう。」

と言うのは、実はそこに美人が幾人(いくたり)もいる。私はその杯を美人にさしても可笑(おか)しい。わざと避けて、ささなくても可笑しい。きっと困るであろうと嬲(なぶ)るのはチャント分かっている。ところが、私は少しも困らない。杯をグイと干して、大夫さんの命に従い、一番好いた人に上げます。ソレ高(たか)さん、といって杯をさしたのは、六、七歳ばかりの寺の末子(ばっし)で、私が瀉蛙々々(しゃあしゃあ)として笑っていたから、家老殿も興にならぬ。既に今年春、ジャパン・タイムス社の山田季治(やまだすえじ)が長崎へ行くと聞き、ふと光永寺の事を思出して、あの時はどうなってるか、高(たか)さんという小僧があったはずだが、どうしているか尋ねて見たいと申したら、山田の返事に、寺はもとの通り焼けもせず、高さんも無事息災。今は五十一歳の老僧で隠居しているとて、写真など寄送(よこ)しましたが、右の一件も私の二十一歳の時だから、かぞえてみると高さんは七歳でしたろうに、恐ろしい古い話です。

嫌疑を憚(はばか)らず

そういうわけで、私は若い時から婦人に対して、仮初(かりそめ)にも無礼はしない。仮令(たと)い酒に酔っても謹むところはきっと謹み、女のいやがるような禁句を口外したことはない。上戸(じょうご)本性で、謹みながら女を相手に話もすれば、笑いもして談笑自在。いつも慣れ慣れしくして、その極みは世間でいう嫌疑(けんぎ)というような事を何とも思わぬ。血に交わりて赤くならぬこそ男子たる者の本領であると、チャンと自分に説を決めてあるから、男女夜行くときは灯(ともしび)を照らすとか、物を受授するに手より手にせずとか、アンな古めかしい教訓は、私の眼から見ると、ただ可笑(おか)しいばかり。さても、さても、卑怯なるかな、ソンな窮窟な事で人間世界が渡れるものか。世間の人が妙なところに用心するのはサゾ忙しいことであろう。自分は古人の教えに縛られる気はないと、自ら自分の身を信じて颯々(さっさつ)と人の家に出入りして、そこにお嬢さんがいようと、若い内君(おかみ)さんが独り留守していようと、または杯盤狼藉(はいばんろうぜき)の常に芸妓とか何とかいう者が騒いでいようと、少しも遠慮はしない。酒を飲んで、大きな声をしてドンドン話をして、酔えば面白くなって戯れているというような風(ふう)であるから、あるいは人が見たらば変に思うこともありましょう。

醜声(しゅうせい)外聞の評判却って名誉

ソコで、ある時、奥平藩の家老が態々(わざわざ)私を呼びによこして、さて言うよう、足下(そくか)は近来某々(それそれ)の家などに毎度出入して、例の如(ごと)く夜分晩くまで酒を飲んでいるとの風聞、某家には娘もあり、某家は何時(いつ)も芸妓(げいぎ)など出入りして家風がよろしくない。足下がそんなところに近づいて醜声(しゅうせい)外聞とは残念だ。君子は瓜田(かでん)に履(くつ)を結ばず李下(りか)に冠を正さずということがある、年若い大事な身体(からだ)である。少し注意致したらよかろうと、真面目になって忠告したから、私はその時少しも謝らない。さようで御在ますか。コリャ面白い。私は今まで、随分(ずいぶん)太平楽をいったとか、恐ろしい声高(こわだか)に話をしていたとか言って、毎度人から嫌がられたこともありましょうが、しかし、艶男(いろおとこ)といわれたのは、今日が生れてから初めて。コリャ私の名誉で、至極(しごく)面白い話だから、私はやめますまい。相替(あいか)わらず、その家に出入りしましょう。ここで御注意を蒙(こうむ)って、それで前非を改めてやめるなんて、ソンな弱い男ではござらぬ。ただし、御親切は有難い。御礼は申上げましょうが、実は私は何とも思わぬ。却(かえ)って面白いから、モッと評判を立ててもらいたいといって、冷かして帰った事があります。

始めて東京の芝居を観る

前に申す通り、私は江戸に来て六年目に初めて上野というところを見て、十四年目に初めて向島を見たというくらいの野暮(やぼ)だから、勿論(もちろん)芝居などを見物したことはない。少年のとき、旧藩中津で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼び出して芝居を催(もよお)し、藩士ばかりに陪観(ばいかん)させる例があって、その時に一度見物して、その後、大阪修業中、今の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の実父、海老蔵(えびぞう)が道頓堀の興行中、ある夜、同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると言うから、私は酒と聞いて応と答え、ソレから行く道で酒を一升買って、徳利を携えて二、三人連れで芝居に入り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思い出しもせず、また、その機会もなくしている中に、今を去ること、およそ十五、六年前、不図(ふと)した事で初めて東京の芝居を見て、その時戯(たわぶれ)に、

誰道名優伎絶倫(誰かいう名優の伎(わざ)は絶倫なりと)
先生遊戯事尤新(先生の遊戯事はなはだ新たなり)
春風五十独醒客(春風五十独り醒むるの客)
却作梨園一酔人(却って梨園の一酔人となる)

という詩が出来ました。これを見ると、私が変人のようにあるが、実は鳴物(なりもの)は甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線をはじめ、また運動半分に踊りの稽古もさせて、老余唯一の楽しみにしています。

不風流(ぶふうりゅう)の由来

元来、私は生まれ付き殺風景でもあるまい。人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質というよりも、少年の時から様々の事情がコンな男にしてしまったのでしょう。まず第一に、私は幼少の時から教育の世話をしてくれる者がないので、ロクに手習(てならい)をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習ったらよさそうなものだが、その時は既に洋学の門に入って天下の儒者流を目の敵(かたき)にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ。就中(なかんずく)その行状(ぎょうじょう)が好かない。口に仁義忠孝など饒舌(しゃべ)りながら、サアというときにはそれ程に意気地はない。ことに、不品行で酒を飲んで詩を作って書が旨いといえば評判がよい。すべて気に喰わぬ。よしよし、洋学流の吾(々われわれ)は反対に出掛けてやろうという気になって、あたかも、江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売り払ってしまい、兼ねて好きな居合(いあい)もやめて、知らぬ風(ふう)をしていたような塩梅(あんばい)式に、儒者の奴等が詩を作るといえば、こっちはわざと作らずに見せよう。奴等が書を善くすると言えば、こっちは殊更(ことさら)に等閑(なおざり)にして善く書かずに見せようと、飛んだところに力身込(りきみこ)んで、手習(てならい)をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を言えば、父も兄も文人で、殊(こと)に兄は書も善くし、画も出来、篆刻(てんこく)も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能。書画はさて置き、骨董も美術品も一切(いっさい)無頓着(むとんじゃく)。住居(すまい)の家も大工任せ。庭園の木石も植木屋次第。衣服の流行など、何が何やら少しも知らず、また知ろうとも思わず、ただ人の着せてくれるものを着ている。ある時、家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥(たんす)の引出しを明けて、一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着ているのを見て、ソレは下着だといって大いに笑われたことがある。殺風景も些(ち)と念入りの殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟(ひっきょう)、少年の時から種々様々の事情に追われてコンな事に成り行き、生涯これで終わるのでしょう。兎角(とかく)、世間の人の悦んでいるような事は、私には楽しみにならぬ。誠に損な性分です。ダカラ、近来は芝居を見物したり、または宅に芸人など呼ぶこともあるが、これとて無上の快楽事とも思われず、マアマア、児孫(まごこ)を集めて共に戯(たわぶ)れ、色々な芸をさせたり好きな物を馳走(ちそう)したりして、一家内の長少、睦ましく互いに打ち解けて語り笑う、その談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにしています。

妻を娶(めとっ)て九子を生む

ソレから、私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁(ばいしゃく)をもって、同藩士族江戸定府(じょうふ)、土岐太郎八(ときたろはち)の次女を娶(めと)り、これが今の老妻です。結婚の時、私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば、妻の方は上流士族。私は小士族。少し不釣合(ふつりあい)のようにあるが、血統は両人共、頗(すこぶ)るよろしく、往古(おうこ)はイザ知らず、およそ五世以降、双方の家に遺伝病質もなければ、忌(い)むべき病に罹(かか)りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾(あくしつ)のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎(いちたろう)、その次は捨次郎(すてじろう)と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸いにして九人とも生まれたまま、皆無事で一人も欠けない。九人の内、五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生のために乳母を雇って育てました。

子供の活動を妨げず

養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹(きっ)と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。また、その躾方(しつけかた)は温和と活溌とを旨とし、大抵のところまでは子供の自由に任せる。例えば、風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂(すえふろ)の側(そば)に大きな水桶を置いて、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、さればとて、食物を勝手に任せて何品でも喰い次第にするというわけではない。また、子供の身体の活溌を祈れば、室内の装飾などはとても手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙(からかみ)を破り、諸道具に疵(きず)付けても、まず見逃しにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を難しくして睨(にら)むくらいが頂上で、いかなる場合にも手をくだして打ったことは一度もない。また、親が実子に向かっても、嫁に接しても、また兄姉が弟妹に対しても、名を呼び棄てにせず、家の中に厳父慈母(げんぷじぼ)の区別なく、厳といえば父母共に厳なり。慈といえば父母共に慈なり。一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母(おっか)さんはどうかすると怖いけれども、お祖父(じい)さんが一番怖くないといっている。世間並みにすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子(まごこ)に限って、別段に我儘(わがまま)でもなし、長少戯(たわぶ)れながら、長者の真面目に言う事はよく聞いて、逆らう者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

家に秘密事なし

また、家の中に秘密事なしというのが私方の家風で、夫婦親子の間に隠す事はない。ドンな事でも言われないことはない。子供が段々成長して、これはあの子に話して、この子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎(とが)めてやれば、子供もまた親の失策を笑うというような次第で、古風な目をもって見ると一寸(ちょい)と尊卑(そんぴ)の礼儀がないように見えましょう。

礼儀足らざるが如し

その礼儀の事について申せば、家の主人が出入りするとき、家内の者が玄関まで送迎して御辞儀(じぎ)をするというような事がよく世間にあるが、私のところでは絶えてソンな事がない。私の外出するには、玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで、ただ足の向いた方に入って来る。あるいは、車に乗って帰って来た時に、車夫、また別当共へ、玄関のところで御帰りなんて余計な事をいってくれるな、というわけであるから、幾ら玄関で怒鳴っても出て来る人はない。その一点になると、世間の人じゃない近くは内の御祖母(おばば)さんが怪しんでいましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない。さればとて、これが悪いという箇条もない。妙な事だと思っているだろうと、私は窃(ひそか)に推察します。

子女の間に軽重なし

ソレからまた、私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎(けいじゅうあいそう)ということは、真実一寸(ちょい)ともない。また、四男五女のその男の子と女の子と違いのあられようわけもない。世間では、男子が生まれると大造目出度(めでた)がり、女の子でも無病なればまずまず目出度(めでた)いなんて、自ずから軽重があるようだが、コンな馬鹿気げた事はない。娘の子なれば何が悪いか。私は九人の子がみんな娘だって、少しも残念と思わぬ。ただ今日では、男の子が四人、女の子が五人、よい塩梅(あんばい)に振り分けになってると思うばかり。男女長少、腹の底からこれを愛して、兎(う)の毛ほども分け隔てはない。道徳学者は、動(やや)もすると世界中の人を相手にして、一視同仁(いっしどうじん)なんて大きな事を言ってるではないか。まして、自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬというような浅ましい事があられるものか。ただ、私の考えに、総領もその他の子供も同じとはいいながら、私が死ねば総領が相続する。相続すれば自ずから中心になるから、財産を分配するにも、ほかの子に比較して一段手厚くして、また何か物があって、兄弟中誰にもやりようがない、唯一しかないというような物は、総領の一太郎が取ってよかろうというくらいな事で、そのほかには何も変わることはない。例えば、こういう事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行ってみると、その座敷に金屏風だの、蒔絵だの、花活(はないけ)だの、ゴテゴテ一杯に並べてある。コリャ何だ、と聞いてみれば、亜米利加(アメリカ)に輸出する品だという。それから、私が不図(ふと)した出来心で、この品を一目見渡して、私の欲しいものは一品でもない。皆、不用品だが、また入用といえば、一品も残さず皆入用だ。とにかくに、これを亜米利加(アメリカ)に積み出していくらの金になればいいのか、ソレは知らぬけれども、売るといえば皆買うが、どうだ。買ったからといって、ソレをまた儲けて売ろうというのではない。家にしまい込んで置くのだというと、その主人もただの素町人でない。成程、そうだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加(アメリカ)にやってしまえば、これだけの品がなくなる。お前さんのところにやれば失(な)くならずにあるから売りましょう。ソンなら皆買うと言って、二千二、三百円かで、何百品あるか、碌(ろく)に品も見ないで皆買ってしまったが、それから私がその品を見て楽しむではなし、品柄もよく知らず数も覚えず、ただ邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取ってしまえと申して、小供がワイワイ寄って、その品を九に分けて、ソレを籤(くじ)で取って、今では皆、小供が銘々(めいめい)に引き受けて、家を持っている者は家に持って行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、というのがおよそ私の財産分配法で、いかにもその子に厚薄というものは、一寸(ちょい)ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて、あられたわけのものでないと思っています。

西洋流の遺言法に感服せず

近来、遺言も書きました。遺言の事については、よく西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けてみて、ワッと驚いたなんていう事は毎度聞いてるが、私は甚だ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは可笑(おかし)い。畢竟(ひっきょう)、西洋人が習慣に迷って馬鹿をしているのだ。おれはソンな馬鹿の真似はしないぞといって、家内子供に遺言の書付(かきつけ)を見せて、この遺言書は箪笥(たんす)のこの抽斗(ひきだし)に入っているから、皆よく見ておけ。また説が変われば、また書き替えてまた見せるから、よく見ておいて、おれの死んだ後で争うような卑劣な事をするなよ、と申して笑っています。

体育を先にす

さて、また子供の教育法については、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。まず獣身(じゅうしん)を成して後に人心を養うというのが私の主義であるから、生まれて三歳、五歳までは「いろは」の字も見せず、七、八歳にもなれば手習(てならい)をさせたり、させなかったり、マダ読書はさせない。それまでは、ただ暴れ次第に暴れさせて、ただ衣食にはよく気を付けてやり、また、子供ながらも卑劣な事をしたり、賤(いや)しい言葉を真似たりすれば、これを咎(とが)めるのみ。そのほかは、一切(いっさい)投げやりにして、自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即ち、これがまず、獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように長成(ちょうせい)して無事無病。八、九歳か、十歳にもなればソコで初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修業をさせる。尚、その時にも身体の事は決して等閑(なおざり)にしない。世間の交母は、動(やや)もすると勉強、勉強といって、子供が静かにして読書すれば、これを賞める者が多いが、私方の子供は読書、勉強して遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対にこれを止めている。小供は既に通り過ぎて、今は幼少な孫の世話をしているが、矢張(やは)り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとかいえば、褒美でも与えて賞めてやるけれども、本をよく読むといって賞めたことはない。既に二十年前の事です。長男、一太郎(いちたろう)と次男、捨次郎(すてじろう)と、両人を帝国大学の予備門に入れて修学させていたところが、兎角(とかく)胃が悪くなる。ソレから宅に呼び返して色々手当てすると次第によくなる。よくなるからまた入れると、また悪くなる。到頭(とうとう)三度入れて、三度失敗した。その時には、田中不二麿(たなかふじまろ)という人が文部の長官をしていたから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて、実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのままにしてやって行けば、生徒を殺すに決まっている。殺さなければ、気狂いになるか、しからざれば身心共に衰弱して、半死半生の片輪者になってしまうに違いない。丁度この予備門の修業が三、四年かかる。その間に大学の法が改まるだろうと思って、ソレを便りに子供を予備門に入れておくが、早く改正してもらいたい。このままでおくならば、東京大学は少年の健康屠殺場と命名してよろしい。早々教授法を改めてもらいたいと、懇意(こんい)の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒(らち)が明かず、子供は相替(あいか)わらず、三ヶ月やっておけば三ヶ月引かしておかなければならぬというようなわけで、何としても予備門の修業に堪えず、私も遂(つい)に断念してしまって、それからこちらの塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加(アメリカ)にやって、かの大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いというのではない。けれども、教育の仕様(しよう)が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで、今でも説は変えない。何としても身体が大事だと思います。

子女幼時の記事

また、私の考えに、人間は成長して、後に自分の幼年の時の有様(ありさま)を知りたいもので、他人はイザ知らず、私が自分でそう思うから、筆まめな事だが、私は小供の生立(おいたち)の模様を書いておきました。この子は何年何月何日何分に産まれ、産の難易は云々(うんぬん)。幼少の時の健康はかくかく、気質の強弱、生まれ付きの癖など、ザッと荒増(あらまし)記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書いたものを見れば成長の後、第一面白いに違いない。自ずからまた心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面(かお)も知らず、画像(えぞう)に写したものもなし。また私がドンな子供であったか、母に聞いたばかりで書いたものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると、耳を傾けて聞いて、ただ残念にばかり思って、独り身の不幸を悲しんでいたから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して、子供のためにし、また先年小供の生立(おいたち)の事をも認(したた)めておいたから、先(ま)ず遺憾はない積もりです。

三百何十通の手紙

また、親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取っても互いに理窟らしい議論は無用の沙汰(さた)である。これは、私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈(たけ)離れぬようにするばかり。例えば先年、長男次男が六年の間、亜米利加(アメリカ)に行っていましたその時には、亜米利加(アメリカ)の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度というくらいの往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論(もちろん)、仮令(たとい)用事がなくても、毎便必ず手紙をやらない事はない。六年の間、何でも三百何十通という手紙を書きましたが、私が手紙を書き放(はな)しにして、家内が校合方(きょうごうかた)になって封じてやるから、両親の親筆に相違ない。あちらの小供両人も、飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越(よこ)す。この事は、両人出発の節、堅く申し付けて、

「留学中手紙は毎便必ず、必ず出せ。用がなければ用がないといって寄越(よこ)せ。また、学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰って来るより、筋骨逞(たくま)しい無学文盲なものになって帰って来い。その方が余程悦(よろこ)ばしい。仮初(かりそめ)にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約はどこまでも倹約しろ。けれども健康に係わるというほどの病気か何かの事に付き、金次第でどうにもなるということならば、思い切って金を使え。少しも構わぬから。」

とこういうのが私の命令で、ソンな事で六年の間、学んで二人とも無事に帰って来ました。

一身の品行、亦(また)自から効力あり

また、私の内が夫婦親子睦(むつ)まじくて、私の行状が正しいからといって、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私もまた、これが人間唯一の目的で、一身の品行修まりて能事(のうじ)終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと、自ら信じている。ところが、さてまた、これが妙なもので、社会の交際に関係するところは甚だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して、私はいかなる者ぞと尋ねるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、あるいは外国に行き、またあるいは外国の書を飜訳(ほんやく)して大言を吐き散らし、剰(あまつさ)え、儒流を軽蔑して憚(はばか)るところを知らずといえば、これは所謂(いわゆる)異端(いたん)外道(げどう)に違いない。同藩一般の見るところでこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が入っているか知れない。とにかくに、福澤諭吉は大変な奴だと折紙が付いていたに違いない。ところが、物換り星移り、段々時勢が変遷して、王政維新の世の中になってみれば、藩論も自ずから面目を改め、世間一般、西洋流の喧(やかま)しい今日、福澤もマンザラでなし、あるいは、これを近づけて何かの役に立つこともあろうというような説がチラホラと涌いて来たその時に、島津祐太郎(すけたろう)という奥平家の元老は、すこぶる事のよく分かる、いわば卓識君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外(そがい)するは不利であるということに着眼している折柄、奥平家の大奥に芳蓮院(ほうれんいん)様という女隠居がある。この貴婦人は、一橋(ひとつばし)家から奥平家に下って来た由緒ある身分で、最早(もはや)余程の老年でもあり、一家無上の御方様(おんかたさま)と崇められている。ソコで、島津が先ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、かの国には文学武備、富国強兵、医術も詳しく、航海術も巧みなり。その中には、随分(ずいぶん)日本の風俗習慣と違った事も数々ありますが、ここに西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女相互(あいたがい)に軽重なく、いかなる身分の人でも一夫一婦に限っています。これだけは西洋の特色で御座(ござ)る、というところを持ち込んだところが、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を聞いて心を動かさずにはいられない。あたかも、豁然(かつぜん)発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入りの道が開けて、御隠居様を始め、所謂(いわゆる)御上通(おかみどおり)の人に逢って見れば、福澤の外道もただの人間で、角(つの)も生えていなければ、尻尾(しっぽ)のある者でもない。至極(しごく)穏かな人間だというところからして、段々懇親になったというその話は、程経(ほどへて)後に内々、島津から聞きました。シテ見ると、一夫一婦の説も隠然(いんぜん)の中には随分勢力のあるもので、ついては今の世に多妻の悪弊を除いて文明風にするなんと論ずるは野暮(やぼ)だというような説があるけれども、畢竟(ひっきょう)、負け惜しみの苦しい逃げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論、決して野暮(やぼ)でない。世間の多数は同主義で、ことに上流の婦人は悉(ことごと)くこっちの味方であるから、私の身がこの先いつまで生きているか知れぬけれども、あらん限りの力を尽くして、前後左右を顧(かえり)みず、ドンな奴を敵にしても構わぬ。多妻法を取り締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような風(ふう)にしてやろうと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?