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福翁自伝 1. 幼少の時
前書き
慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々、自ら伝記を記すの例あるをもって、兼ねてより福澤先生自伝の著述を希望して、親しくこれを勧めたるものありしかども、先生の平生、甚だ多忙にして執筆の閑を得ず、そのままに経過したりしに、一昨年の秋、ある外国人のもとめに応じて、維新前後の実歴談を述べたる折、風(ふ)と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自ら校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来、この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるままに語りしものなれば、あたかも、一場の談話にして、固(もと)より事の詳細を悉(つ)くしたるに非(あ)らず。左(さ)れば、先生の考えにては、新聞紙上に掲載を終わりたる後、更に自ら筆を執りて、その遺漏(いろう)を補い、また後人の参考のためにとて、幕政の当時、親しく見聞したる事実により、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して、別に一編となし、自伝の後に付するの計画にして、既にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、遽(にわか)に大患に罹(かか)りて、その事を果たすを得ず。誠に遺憾なれども、今後、先生の病、いよいよ全癒(ぜんゆ)の上は、兼ねての腹案を筆記せしめて、世に公(おおやけ)にし、以(もち)て今日の遺憾を償うことあるべし。
明治三十二年六月
時事新報社 石川幹明(いしかわみきあき) 記
幼少の時
福澤諭吉の父は豊前(ぶぜん)中津奥平(おくだいら)藩の士族、福澤百助(ひゃくすけ)、母は同藩士族、橋本浜右衛門(はしもとはまえもん)の長女、名を於順(おじゅん)と申し、父の身分はヤット藩主に定式(じょうしき)の謁見(えっけん)が出来るというのですから、足軽(あしがる)よりは数等よろしいけれども、士族中の下級、今日で言えば、先(ま)ず判任官の家でしょう。藩でいう元締役(もとじめやく)を勤めて、大阪にある中津藩の倉屋敷(くらやしき)に長く勤番していました。それゆえ、家内残らず大阪に引っ越していて、私共は皆大阪で生まれたのです。兄弟五人、総領(そうりょう)の兄の次に女の子が三人、私は末子(ばっし)。私の生まれたのは、天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ、天保七年六月、父が不幸にして病死。後に遺(のこ)るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯(か)くなれば、大阪にもいられず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
兄弟五人中津の風に合わず
さて、中津に帰ってから私の覚えていることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所(いっしょ)に混和(こんわ)することが出来ない。その出来ないというのは、深い由縁も何もないが、従兄弟(いとこ)が沢山(たくさん)ある。父方の従兄弟もあれば、母方の従兄弟もある。マア、何十人という従兄弟がある。また、近所の小供も幾許(いくら)もある。あるけれども、その者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一、言葉が可笑(おか)しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が
「そうじゃちこ」
と言うところを、私共は
「そうでおます」
なんというようなわけで、お互いに可笑(おか)しいから、先(ま)ず話が少ない。それからまた、母は素(もと)中津生まれであるが、長く大阪にいたから大阪の風(ふう)に慣れて、小供の髪の塩梅式(あんばいしき)、着物の塩梅式、一切、大阪風の着物よりほかにない。有合(ありあい)の着物を着せるから、自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い、言葉が違うというほかには何も原因はないが、子供の事だから何だか人中(ひとなか)に出るのを気恥しいように思って、自然、内に引っ込んで、兄弟同士遊んでいるというような風でした。
儒教主義の教育
それからもう一つこれに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤して、その仕事は何かというと、大阪の金持ち、加島屋(かじまや)、鴻ノ池(こうのいけ)というような者に交際して、藩債の事を司(つかさど)る役であるが、元来、父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取り扱うよりも、読書一偏の学者になっていたいという考えであるに、存じ掛けもなく算盤(そろばん)を執(と)って金の数を数えなければならぬとか、藩借(はんしゃく)延期の談判をしなければならぬとかいう仕事で、今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言っていた純粋の学者が、純粋の俗事に当たるというわけであるから、不平も無理はない。ダカラ、子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。私は勿論(もちろん)幼少だから、手習いどころの話でないが、もう十歳ばかりになる兄と、七、八歳になる姉などが手習いをするには、倉屋敷(くらやしき)の中に手習いの師匠があって、そこには町家の小供も来る。そこで、イロハニホヘトを教えるのはよろしいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞いて、けしからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせるというのはもってのほかだ。こういうところに小供はやって置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速、取り返せといって、取り返した事があるということは、後に母に聞きました。何でも、大変喧しい人物であったことは推察が出来る。その書き遺(のこ)したものなどを見れば、真実正銘の漢儒で、ことに堀河(ほりかわ)の伊藤東涯(いとうとうがい)先生が大信心(だいしんじん)で、誠意誠心、屋漏(おくろう)に愧(は)じずということばかり心掛けたものと思われるから、その遺風(いふう)は自ずから私の家には存していなければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附き合いは少なく、明けても暮れても、ただ母の話を聞くばかり。父は死んでも生きてるような者です。ソコデ、中津にいて、言葉が違い、着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思って、骨肉の従兄弟(いとこ)に対してさえ、心の中には何となくこれを目下(めした)に見下していて、それらの者のすることは一切咎(とが)めもせぬ。多勢に無勢、咎立(とがめだて)をしようといっても及ぶ話でないと諦めていながら、心の底にはまるで歯牙(しが)に掛けずに、いわば、人を馬鹿にしていたようなものです。今でも覚えているが、私が少年の時から家にいて、よく饒舌(しゃべり)もし、飛び廻り、はね廻りして、至極(しごく)活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無(かいむ)出来ぬというのも、兎角(とかく)同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことが出来ずに孤立したせいでしょう。
厳ならずして家風正し
今申す通り、私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語、風俗を殊(こと)にして、他人の知らぬところに随分(ずいぶん)淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極(しごく)正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦(むつ)まじく暮らして、兄弟喧嘩などただの一度もしたことがない。のみか、仮初(かりそめ)にも俗な卑陋(びろう)な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない。母も決して喧しい、難しい人でないのに、自然にそうなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物(なりもの)などの一条で、三味線(しゃみせん)とか何とかいうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様(かよう)なものは、全体私なんぞの聞くべきものでない。矧(いわんや)、玩(もてあそ)ぶべき者でないという考えを持っているから、遂(つい)ぞ芝居見物など念頭に浮かんだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令(ふれ)が出る。芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立ち寄ることは相成(あいな)らぬ。住吉(すみよし)の社(やしろ)の石垣より以外に行くことならぬというその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、ただ一片(いっぺん)の御布令だけの事であるから、俗士族は脇差(わきざし)を一本挟(さ)して、頬冠(ほほかむり)をして颯々(さっさつ)と芝居の矢来(やらい)を破って入る。もしそれを咎(とが)めれば、却(かえ)って叱り飛ばすというから、誰も怖がって咎(とが)める者はない。町の者は金を払って行くに、士族は忍姿(しのびすがた)で却って威張ってただ入って観る。しかるに、中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは、およそ私のところ一軒位(くらい)でしょう。決して行かない。ここから先は行くことはならぬといえば、一足でも行かぬ。どんな事があっても。私の母は、女ながらも遂(つい)ぞ、一口でも芝居の事を子供に言わず、兄もまた行こうと言わず、家内中、一寸(ちょい)とでも話がない。夏、暑い時の事であるから、凉みには行く。しかし、その近くで芝居をしているからといって、見ようともしない。どんな芝居をやっているとも噂にもしない、平気でいるというような家風でした。
成長の上、坊主にする
前(ぜん)申す通り、亡父(ぼうふ)は俗吏(ぞくり)を勤めるのが不本意であったに違いない。左(さ)れば、中津を蹴飛ばして外に出ればいい。ところが、決してソンナ気はなかった様子だ。如何(いか)なる事にも不平を呑(の)んで、チャント小禄(しょうろく)に安んじていたのは、時勢のために進退不自由なりしゆえでしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば、父の生前にこういう事がある。今から推察すれば、父の胸算(きょうさん)に、福澤の家は総領に相続させる積もりでよろしい。ところが、子供の五人目に私が生まれた。その生まれた時は大きな療(や)せた、骨太(ほねぶと)な子で、産婆(さんば)の申すに、この子は乳さえ沢山(たくさん)呑(の)ませれば、必ず見事に育つというのを聞いて、父が大層(たいそう)喜んで、これは好(い)い子だ。この子が段々成長して、十(とお)か十一になれば、寺に遣(や)って坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母がまた私に話して、アノ時、阿父(おと)っさんは、何故(なぜ)坊主にすると仰(おっしゃ)ったか合点(がてん)が行かぬが、今、御存命(ごぞんめい)なれば、お前は寺の坊様(ぼうさま)になってるはずじゃと、何かの話の端(はし)には母がそう申していましたが、私が成年の後、その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経(た)っても一寸(ちょい)とも動かぬという有様。家老の家に生まれた者は家老になり、足軽(あしがる)の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽。その間に挟まっている者も同様、何年経っても一寸(ちょい)とも変化というものがない。ソコデ、私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない。世間を見れば、ここに坊主というものが一つある。何でもない魚屋の息子が大
僧正になったというような者が幾人もある話。それゆえに、父が私を坊主にするといったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
門閥制度は親の敵
如斯(こん)なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空(むな)しく不平を呑(の)んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また、初生児(しょせいじ)の行末(ゆくすえ)を謀(はか)り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思い出し、封建の門閥制度を憤(いきどお)ると共に、亡父(ぼうふ)の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。
年十四、五歳にして始めて読書に志す
私は坊主にならなかった。坊主にならず家にいたのであるから、学問をすべき筈(はず)である。ところが、誰も世話の為人(して)がない。私の兄だからといって、兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子。母もまた、たった一人で、下女、下男を置くということの出来る家ではなし。母が一人で飯を焚いたり、お菜(さい)を拵(こしら)えたりして、五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛がけもない。いわば、ヤリ放しである。藩の風(ふう)で、幼少の時から論語を読むとか、大学を読むくらいの事はやらぬことはないけれども、奨励する者とては一人もいない。殊(こと)に、誰だって本を読むことの好すきな子供はない。私一人が本が嫌いということもなかろう。天下の小供、みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりいて何もしない。手習いもしなければ、本も読まない。根っから何にもせずにいたところが、十四か十五になってみると、近処(きんじょ)に知しっている者は皆本を読んでいるのに、自分独り読まぬというのは、外聞(がいぶん)が悪いとか、恥ずかしいとか思ったのでしょう。それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。どうも十四、五になって初めて学ぶのだから、甚だきまりが悪い。ほかの者は詩経(しきょう)を読むの、書経(しょきょう)を読むのというのに、私は孟子(もうし)の素読(そどく)をするという次第である。ところが、ここに奇(き)な事は、その塾で蒙求(もうぎゅう)とか、孟子とか、論語とかの会読(かいどく)講義をするということになると、私は天禀(てんりん)、少し文才があったのか知らん。よくその意味を解(げ)して、朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求(もうぎゅう)などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりで、その意味は受け取りの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗ならわけはない。
左伝通読十一篇
その中、塾も二度か三度か変えたことがあるが、最も多く漢書を習ったのは、白石照山という先生である。そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解(げ)すことは何の苦労もなく、存外(ぞんがい)早く上達しました。白石の塾にいて、漢書は如何(いか)なるものを読んだかというと、経書(けいしょ)を専らにして、論語、孟子はもちろん、すべて経義(けいぎ)の研究を勉め、殊(こと)に先生が好きと見えて、詩経(しきょう)に書経(しょきょう)というものは、本当に講義をしてもらってよく読みました。ソレカラ、蒙求(もうぎゅう)、世説(せせつ)新語、左伝(さでん)、戦国策(せんごくさく)、老子(ろうし)、荘子(そうし)というようなものもよく講義を聞き、その先は私独りの勉強。歴史は史記を始め、前後漢書(ぜんごかんしょ)、晋書(しんしょ)、五代史(ごだいし)、元明史略(げんみんしりゃく)というようなものも読み、殊(こと)に私は左伝(さでん)が得意で、大概の書生は左伝十五巻のうち、三、四巻で仕舞うのを、私は全部通読。およそ、十一度(た)び読み返して、面白いところは暗記していた。それで、一通り漢学者の前座くらいになっていたが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、あまり詩を作ることなどは教えずに、むしろ冷笑していた。広瀬淡窓(ひろせたんそう)などのことは、あいつは発句師、俳句師で、詩の題さえできない。書くことになると漢文が書けぬ。何でもない奴だと言っておられました。先生がそう言えば、門弟子(もんていし)もまたそういう気になるのが不思議だ。淡窓(たんそう)ばかりでない。頼山陽(らいさんよう)なども甚だ信じない。誠に目下(めした)に見下していて、
「なんだ粗末な文章。山陽などの書いたものが文章といわれるなら、誰でも文章のできぬ者はあるまい。」
仮令(たとい)舌足らずで吃(ども)ったところが、意味は通ずるというようなものだなんて大造(たいぞう)な剣幕で、先生からそう教え込まれたから、私共も山陽外史の事を軽く見ていました。白石先生ばかりでない。私の父がまたその通りで、父が大阪にいるとき、山陽先生は京都におり、是非、交際しなければならぬはずであるのに、一寸(ちょいと)も付き合わぬ。野田笛浦(のだてきほ)という人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない。けれども、山陽を疎外して、笛浦(てきほ)を親しむといえば、笛浦先生は浮気でない学者というような意味でしたか。筑前の亀井先生なども、朱子学を取らずに経義(けいぎ)に一説を立てたというから、その流(りゅう)を汲む人々は、なんだか山陽流を面白く思わぬのでしょう。
手端(てさき)器用なり
以上は学問の話しですが、尚(なお)このほかに申せば、私は旧藩士族の子供に比べてみると、手の先の器用な奴で、物を工夫をするようなことが得意でした。例えば、井戸に物が落ちたといえば、どういう塩梅(あんばい)にしてこれを揚げるとか、箪笥(たんす)の錠(じょう)が開かぬといえば、釘(くぎ)の先などを色々に曲げて、遂に見事にこれを開けたるとかいう工夫をして面白がっている。また、障子を張ることも器用で、自家の障子はもちろん、親戚へ雇われて張りに行くこともある。とにかくに、何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ、段々と年を取るにしたがって仕事も多くなって、もとより貧士族のことであるから、自分で色々工夫して、下駄の鼻緒も立てれば、雪駄(せった)の剥がれたのも縫うということは私の引き受けで、自分ばかりでない、母のものも、兄弟のものも繕ってやる。あるいは、畳針(たたみばり)を買ってきて、畳の表(おもて)を付け替え、またあるいは、竹を割って桶(おけ)の箍(たが)を入れるようなことから、そのほか、戸の破れ、屋根の漏りを繕うまで当たり前の仕事で、皆私が一人でしていました。ソレカラ、進んで本当の内職を始めて、下駄を拵(こしら)えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の身を磨ぐことは知らぬが、鞘(さや)を塗り、柄(つか)を巻き、そのほか、金物の細工は田舎ながらも、ドウヤラコウヤラ形だけはできる。今でも、私の塗った虫食塗(むしくいぬ)りの脇差(わきざし)の鞘が宅に一本あるが、随分と不器用なものです。すべてコンナことは、近所に内職をする士族があって、その人に習いました。
鋸鑢(のこぎりやすり)に驚く
金物細工をするに、鑢(やすり)は第一の道具で、これも手製に作って、その製作には随分苦心していたところが、その後、年経(としへ)て私が江戸に来て先(ま)ず大に驚いたことがある。と申すは、ただの鑢(やすり)は鋼鉄(はがね)をこうして、こうやれば、私の手にもヲシヲシ出来るが、鋸(のこぎり)鑢(やすり)ばかりは難しい。ソコデ、江戸に入ったとき、今思えば芝の田町(たまち)。ところも覚えている。江戸に入って往来の右側の家で、小僧が鋸(のこぎり)の鑢(やすり)の目を叩いている。
皮を鑢(やすり)の下に敷いて、鏨(たがね)で刻んで、颯々(さっさつ)と出来る様子だから、私は立ち留まってこれを見て、心の中で扨々(さてさて)大都会なる哉(かな)。途方もない事が出来るもの哉(かな)。自分等は夢にも思わぬ。鋸(のこぎり)の鑢(やすり)を拵(こしら)えようということは全く考えたこともない。然(しか)るに、小供がアノ通りやっているとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思って、江戸に入ったその日に感心したことがあるというようなわけで、少年の時から読書のほかは、俗な事ばかりして、俗な事ばかり考えていて、年を取っても兎角(とかく)手先の細工事(さいくごと)が面白くて、ややもすれば鉋(かんな)だの鑿(のみ)だの買い集めて、何か作って見よう、繕って見よう、と思うその物は、皆、俗な物ばかり。所謂(いわゆる)、美術という思想は少しもない。平生(へいぜい)、万事、至極(しごく)殺風景で、衣服住居などに一切頓着(とんじゃく)せず、如何(どう)いう家にいても、ドンナ着物を着ても、何とも思わぬ。着物の上着か下着か、ソレモ構わぬ。まして、流行の縞模様(しまもよう)など考えて見たこともない程の不風流(ぶふうりゅう)なれども、何か私に得意があるかといえば、刀剣(とうけん)の拵(こしら)えとなれば、これは善(よ)く出来たとか、小道具の作柄(さくがら)釣り合いが如何(どう)とかいう考えはある。これは、田舎ながら手に少し覚えのある芸から、自然に養った意匠でしょう。
晴天白日に徳利
それから、私が世間に無頓着(むとんちゃく)ということは、少年から持って生まれた性質。周囲の事情に一寸(ちょい)とも感じない。藩の小士族などは、酒、油、醤油などを買うときは、自分自ら町に使いに行かなければならぬ。ところが、その頃の士族一般の風(ふう)として、頬冠(ほほかむり)をして、宵(よる)出かけていく。私は頬冠が大嫌いだ。生まれてからしたことはない。物を買うに何だ。銭を遣(や)って買うに、少しも構うことはないという気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟すが、徳利を提(さ)げて、夜はさておき、白昼公然、町の店に行く。銭はうちの銭だ。盗んだ銭じゃないぞ、というような気位(きぐらい)で、かえって藩中者の頬冠(ほほかむり)をして見栄をするのをおかしく思ったのは少年の血気。自分独り、自惚(うぬぼ)れていたのでしょう。それからまた、家に客を招く時に、大根や牛蒡(ごぼう)を煮て食わせるということについて、必要があるから母の指図に従って働いていた。ところで私は、客などがウヂャウヂャ酒を呑むのは大嫌い。俗な奴らだ。呑むなら早く呑んで帰ってしまえばいいと思うのに、なかなか帰らぬ。家は狭くて居所もない。仕方ないから、客の呑んでいる間は、私は押し入れの中に入って寝ている。いつでも客をする時には、客の来るまでは働く。けれども、夕方になると、自分も酒が好きだから、颯々(さっさつ)と酒を呑んで、飯を食って押し入れに入ってしまい、客が帰った後で押し入れから出て、いつも寝るところに寝直すのが常例でした。
それから、私の兄は年を取っていて、いろいろの朋友がある。時勢論などをしていたのを聞いたこともあるけれども、私はそれについて喙(くちばし)を入れるような地位でない。ただ、追い使われるばかり。その時、中津の人気はどうかと言えば、学者はこぞって水戸のご隠居様、すなわち烈公(れっこう)の事と、越前の春嶽(しゅんがく)様の話が多い。学者は水戸の老公(ろうこう)と言い、俗では水戸の御隠居様という。御三家のことだから、譜代(ふだい)大名の家来は大変に崇めて、仮初(かりそめ)にも、「隠居」などと呼び捨てにする者は一人もいない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話していたから、私も左様(そう)思っていました。それから、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)も幕府の旗本だから、江川様と陰でも吃(きっ)と様付けにして、これもなかなか評判が高い。あるとき、兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中、袷(あわせ)一枚着ているというような話をしているのを、私が側(そば)から一寸(ちょい)と聞いて、何、そのくらいの事は誰でもできるというような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに毎晩掻巻(かいまき)一枚着て、敷布団(しきぶとん)も敷かず、畳の上に寝ることを始めた。スルト、母はこれを見て、何の真似か。ソンナ事をすると風邪を引くと言って、しきりに止めるけれども、トウトウ私は言うことを聞かずに一冬通したことがある。これも十五、六歳の頃、ただ人に負けぬ気でやったので、身体も丈夫であったと思われる。
兄弟問答
また、当時世間一般の事であるが、学問と言えば漢学ばかり。もちろん私の兄も漢学一方いっぽうの人で、ただ他の学者と違うのは、豊後(ぶんご)の帆足万里(ほあしばんり)先生の流(りゅう)を汲んで、数学を学んでいました。帆足先生といえば、中々大儒(だいじゅ)でありながら数学を悦(よろこ)び、先生の説に、鉄砲と算盤(そろばん)は士流(しりゅう)の重んずべきものである。その算盤(そろばん)を小役人に任せ、鉄砲を足軽(あしがる)に任せて置くというのは大間違いというその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄もやはり先輩に傚って算盤(そろばん)の高尚なところまで進んだ様子です。この辺は、世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂(いわゆる)孝悌(こうてい)忠信で、純粋の漢学者に相違ない。あるとき。兄が私に問いを掛けて、
「お前はこれから先き何になる積もりか。」
と言うから、私が答えて、
「左様(さよう)さ、先ず日本一の大金持ちになって、思うさま金を使って見ようと思います。」
と言うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が返問(はんもん)して、
「兄さんは如何(どう)なさる。」
と尋ねると、真面目(まじめ)に、
「死に至るまで、孝悌(こうてい)忠信。」
とただ一言(いちごん)で、私は
「ヘーイ。」
と言った切り、そのままになった事があるが、先ず兄はソンナ人物で、また妙なところもある。あるとき、私に向かって、
「乃公(おれ)は総領で家督をしているが、如何(どう)かして難しい家の養子になって見たい。何ともいわれない、頑固な、ゴク喧しい養父母につかえて見たい。決して風波(ふうは)を起こさせない。」
というのは、畢竟(ひっきょう)、養父母と養子との間柄(あいだがら)の悪いのは、養子の方の不行届(ふゆきとどき)だと説を決めてたのでしょう。ところが、私は正反対で、
「養子は忌(いや)な事だ。大嫌いだ。親でもない人を誰が親にしてつかえる者があるか。」
というような調子で、折々は互いに説が違っていました。これは、私の十六、七の頃と思います。
母もまた随分妙な事を悦(よろこ)んで、世間並には少し変わっていたようです。一体、下等社会の者に附き合うことが数寄(すき)で、出入りの百姓町人は無論(むろん)、穢多(えった)でも乞食でも颯々(さっさつ)と近づけて、軽蔑もしなければ、いやがりもせず、言葉など至極(しごく)丁寧でした。また、宗教について、近処の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば、家は真宗でありながら説法も聞かず、
「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは可笑(おか)しくてキマリが悪くて出来ぬ。」
と常に私共に言いながら、毎月米を袋に入れて寺に持って行って、墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが、坊主には懇意が多い。旦那寺(だんなでら)の和尚は勿論(もちろん)、また私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主がいて、毎度、私のところに遊びに来れば、母は悦んでこれを取り持って馳走(ちそう)でもするというような風(ふう)で、コンナところを見れば、ただ仏法が嫌いでもないようです。兎(と)に角(かく)に、慈善心はあったに違いない。
乞食の虱(しらみ)を取る
ここに誠に穢(きたな)い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者(きちがい)のような、至極(しごく)の難渋者(なんじゅうもの)で、自分の名か、人の付けたのか、チエチエと云いって、毎日市中を貰って廻(まわ)る。ところが、こいつが穢(きたな)いとも、臭いともいいようのない女で、着物はボロボロ、髪はボウボウ、その髪に虱(しらみ)がウヤウヤしているのが見える。母が毎度の事で天気の好い日などには、おチエ、こっちに入って来いと言って、表の庭に呼び込んで、土間の草の上に坐らせて、自分は襷掛(たすきが)けに身構えをして乞食の虱狩(しらみがり)を始めて、私は加勢に呼び出される。拾うように取れる虱(しらみ)を取っては庭石の上に置き、マサカ爪(つめ)で潰すことは出来ぬから、私を側(そば)に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石をもって構えている。母が一疋(いっぴき)取って台石(だいいし)の上に置くと、私はコツリと打ち潰すという役目で、五十も百も先(ま)ずその時に取れるだけ取ってしまい、ソレカラ母も私も着物を払って糠(ぬか)で手を洗って、乞食には虱(しらみ)を取らせてくれた褒美に飯をやるとおうきまりで、これは母の楽しみでしたろうが、私は穢(きたな)くて、穢(きたな)くて堪まらぬ。今思い出しても胸が悪いようです。
反故を踏みお札を踏む
また、私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か反古(ほご)を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝(たいかつ)一声、コリャ待てと酷く叱り付けて、
「お前は眼が見えぬか。これを見なさい。何と書いてある。奥平大膳大夫(おくだいらだいぜんのたいふ)と御名(おな)があるではないか。」
と大造(たいそう)な権幕だから、
「アア、左様(そう)で御在(ござい)ましたか。私は知らなんだ。」
と言うと、
「知らんと言っても眼があれば見える筈(はず)じゃ。御名を足で踏むとは如何(どう)いう心得である。臣子(しんし)の道は…。」
と、何か難しい事を並べて厳しく叱るから、謝らずにはいられぬ。
「私が誠に悪う御在ましたから、堪忍して下さい。」
と御辞儀(おじぎ)をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。
「何の事だろう。殿様の頭でも踏みはしなかろう。名の書いてある紙を踏んだからッて、構うことはなさそうなものだ。」
と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんの言うように、殿様の名の書いてある反古(ほご)を踏んで悪いといえば、神様の名のある御札(おふだ)を踏んだら如何(どう)だろうと思って、人の見ぬところで御札を踏んで見たところが何ともない。
「ウム何ともない。コリャ面白い。今度はこれを洗手場(ちょうずば)に持って行ってやろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は如何(どう)かあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。
「ソリャ見たことか。兄さんが余計な、あんな事を言わんでもいいのじゃ。」
と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず、姉にも言われず、言えばきっと叱られるから、一人でそっと黙っていました。
稲荷様の神体を見る
ソレカラ、一つも二つも年を取れば、自ずから度胸もよくなったと見えて、年寄りなどが話にする神罰(しんばつ)、冥罰(みょうばつ)なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ、稲荷(いなり)様を見てやろうという野心を起こして、私が養子になっていた叔父様(おじさま)の家の稲荷の社(やしろ)の中には何が入っているか知らぬと開けて見たら、石が入っているから、その石を打ち擲(や)ってしまって、代わりの石を拾って入れて置き、また隣家の下村(しもむら)という屋敷の稲荷様を開けて見れば、神体は何か木の札(ふだ)で、これも取って棄ててしまい、平気な顔していると、間もなく初午(はつうま)になって、幟(のぼり)を立てたり、大鼓(たいこ)を叩いたり、御神酒(おみき)をあげてワイワイしているから、私は可笑(おか)しい。
「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒をあげて拝んでるとは面白い。」
と、独り嬉しがっていたというようなわけで、幼少の時から神様が怖いだの、仏様が有難いだのいうことは一寸(ちょい)ともない。卜筮(うらない)、呪詛(まじない)、一切不信仰で、狐狸(きつね、たぬき)が付くというようなことは、初めから馬鹿にして少しも信じない。小供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。或(あ)る時に、大阪から妙な女が来たことがある。その女というのは、私共が大阪にいる時に邸(やしき)に出入りをする、上荷頭(うわにかしら)の伝法寺屋松右衛門(でんぽうじやまつえもん)というものの娘で、年の頃は三十位(ぐらい)でもあったかと思う。その女が中津に来て、お稲荷様(いなりさま)を使うことを知っていると吹聴(ふいちょう)するその次第は、誰にでも御幣(ごへい)を持たして置いて何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠(とっつ)くとか何とかいって、頻(しき)りに私の家に来て法螺(ほら)を吹いている。それからその時に、私は十五、六の時だと思う。
「ソリャ面白い。やって貰おう。乃公(おれ)がその御幣を持とう。持っている御幣が動き出すというのは面白い。サア持たしてくれろ。」
と言うと、その女がつくづくと私を見ていて、
「坊(ぼん)さんはイケマヘン。」
と言うから、私は承知しない。
「今、誰にでもと言ったじゃないか。サアやって見せろ。」
と、酷くその女を弱らして面白かった事がある。
門閥(もんばつ)の不平
ソレカラ、私が幼少の時から中津にいて、始終(しじゅう)不平で堪らぬというのは無理もない。一体、中津の藩風というものは、士族の間に門閥制度がチャンと決まっていて、その門閥の堅い事は啻(ただ)の藩の公用についてのみならず、今日、私の交際上、小供の交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かっては、まるで言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何(どう)なすって、こうなすってと言えば、先方では貴様がそうしやって、こうやれ、というような風(ふう)で、万事その通りで、何でもないただ小供の戯れの遊びにも門閥が付いてまわるから、どうしても不平がなくてはいられない。その癖、今の貴様とか何とかいう上士族の子弟と学校に行って、読書、会読(かいどく)というような事になれば、いつでもこっちが勝つ。学問ばかりでない。腕力でも負けはしない。それがその交際、朋友(ほうゆう)互いに交って遊ぶ小供遊びの間にも、ちゃんと門閥というものを持って横風(おうふう)至極(しごく)だから、小供心に腹が立って堪らぬ。
下執事の文字に叱られる
ましてや、大人同士、藩の御用を勤めている人々の貴賤(きせん)の区別は中々喧しいことで、私が覚えているが、あるとき、私の兄が家老のところに手紙をやって、少し学者風にその表書(うわがき)に何々様下執事(かしつじ)と書いてやったら大いに叱られた。下執事とは何の事だ。御取次衆(おとりつぎしゅう)と認(したた)めて来いといって、手紙を突き返して来た。私はこれを側(そば)から見て、独り立腹して泣いたことがある。馬鹿々々しい。こんなところに誰がいるものか。如何(どう)したって、これはモウ出るより外(ほか)にしようがないと、始終(しじゅう)心の中に思っていました。
ソレカラ、私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分かるようになる中に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。よく書を読む男がある。固(もと)より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善くないとか何とか、いろいろ不平をもらしているのを聞いて、私は始終ソレを止めていました。
「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津にいる限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出てしまうがよい。出なければ不平を言わぬがよい。」
と、毎度止めていたことがあるが、これはマア私の生まれ付きの性質とでもいうようなものでしょう。
喜怒(きど)色(いろ)に顕(あらわ)さず
あるとき、私が何かの漢書を読む中に、「喜怒色に顕さず」という一句を読んで、その時にハット思って、大いに自分で安心決定(あんしんけつじょう)したことがある。
「これはドウモ金言(きんげん)だと思い、始終忘れぬようにして、独りこの教えを守り、ソコデ誰がなんと言って誉(ほ)めてくれても、ただ表面(うわべ)は程(ほど)よく受けて、心の中では決して喜ばぬ。また、なんと軽蔑されても決して怒らない。」
だから、どんなことがあっても怒ったことはない。矧(いわん)や、朋輩同士で喧嘩をしたということは、ただの一度もない。ツイゾ、人と掴み合ったの、打ったの、打たれたの、ということは一寸(ちょい)ともない。これは、少年のときばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体(からだ)に触れたことはない。ところが、先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方のない放蕩(ほうとう)者がいて、私が多年、衣食を授けて世話をしてやるにも拘(かか)わらず、再三再四の不埒。あるとき、その者がどこで何をしたか、夜中に酒に酔って生意気な風(ふう)をして帰って来たゆえ、
「貴様は今夜寝ることはならぬ。起きてちゃんと正座していろ。」
と申しおいて、少しして行って見れば、グウグウと鼾(いびき)をかいている。
「この不埒者め。」
と言って、その肩のところを掴まえて引き起こして、目の覚めてるのを尚グングン揺さぶってやったことがある。その時、あとで一人で考えて、
「コリャ悪いことをした。乃公(おれ)は生涯、人に向かってこっちから腕力を仕掛けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬことをした。」
と思って、なんだか坊主が戒律でも破ったような心持がして、今でも忘れることができません。そのくせ、私は少年の時からよく饒舌(しゃべ)り、人並より口数の多い程に饒舌(しゃべ)って、そうして何でもすることは甲斐々々(かいがい)しくやって、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論ということをしない。似合(たとい)、議論すればといっても、ほんとうに顔を赤らめて如何(どう)あっても勝たなければならぬ、という議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起(やっき)となって来れば、こちらはスラリと流してしまう。
「あの馬鹿が何を馬鹿を言っているのだ。」
とこう思って、頓(とん)と深く立ち入るということは決してやらなかった。ソレでモウ自分の一身は、何処(どこ)に行って、如何(どん)な辛苦(しんく)も厭(いと)わぬ。ただ、この中津にいないで、如何(どう)かして出て行きたいものだと、独り、そればかり祈っていたところが、とうと長崎に行くことが出来ました。