福翁自伝 5. 大阪を去て江戸に行く
私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時でした。同じ年に、江戸の奥平(おくだいら)の邸(やしき)から、御用(ごよう)があるから来いといって、私を呼びに来たのです。それは、江戸の邸(やしき)に岡見彦曹(おかみひこぞう)という蘭学好きの人がいて、この人は立派な身分のある上士族で、どうにかして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたい、というので、様々に周旋(しゅうせん)して、書生を集めて原書を読む世話をしていました。それまでは、松木弘庵(まつきこうあん)、杉亨二(すぎこうじ)というような学者を雇っていたのですが、私が大阪にいるということが分かったものだから、他国の者を雇うことはないということで、藩中にいる福澤を呼べということになって、ソレで私を呼びに来て、私を教師として使うことになったのです。その時、江戸詰めの家老には奥平壹岐(おくだいらいき)が来ていました。壹岐(いき)と私との関係については、私は自から自慢をしても良いことがあります。これは、どう考えても奥平壱岐に対して悪い感情を抱いてもおかしくないはずで、衝突がなければならぬはずですが、私は彼とは一寸(ちょい)とも戦ったことがありません。彼が私を敵視して、愚弄(ぐろう)しているということは、長崎を出た時の様子でチャント分かっています。長崎を立つ時に、
「貴様は中津に帰れ。帰ったら誰にこの手紙を渡せ。誰にこう伝言せよ。」
と命ずるから、「ヘイヘイ。」とかしこまりながら、心の中では舌を出して、
「馬鹿言え、俺は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞ。」
と言わんばかりに、席を蹴り立たてて出たことも、後になって先方も知っています。けれどもその後、私は本人に会って、仮初(かりそめ)にも怨言(えんげん)を言った事のないどころではありません。態(わざ)と旧恩を感謝するという趣きばかり装っている中に、またもやその大切な原書を盗み写したこともあります。先方も悪ければ、こっちも十分に悪かったのです。けれども、ただ私がその事を人に語らず、顔色にも見せずに、御家老様(ごかろうさま)と尊敬していたから、いわゆる国家老(くにがろう)のお坊さんで、今度私を江戸に呼寄せる事についても、家老に異議なくすぐに決して幸いでしたが、実を申せば壹岐(いき)よりも私のほうが、かえって罪が深いようです。
三人同行
大阪から江戸に行く際には、何はさておき中津に帰って一度母に逢って別れを告げて来ましょうということで、中津に帰ったその時は、虎列拉(コレラ)の真盛りで、私の家の近所は病人だらけで、バタバタ死にました。その流行病の最中に、船に乗って大阪に着いて、暫時(ざんじ)逗留(とうりゅう)して、それから江戸に向かって出立ということにしました。ところが、およそ藩の公用で勤番する時には、私などの身分になれば道中並びに在勤中に家来を一人くれるのが定例で、その時も私の江戸勤番について家来一人分の金を渡してくれました。けれども、家来なんぞということは考えてもいない事でまったく必要としていませんでした。しかしながら、ここに旅費があります。
「待て、待て、塾中に誰か江戸に行きたいという者はないか、江戸に行きたければ連れて行くがどうだ。実はこういうわけで金はあるぞ。」
と言うと、即席にどうぞ連れて行ってくれ、と言ったのが岡本周吉(おかもとしゅうきち)、すなわち、古川節蔵(ふるかわせつぞう)です。
「よし、連れて行ってやろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬがよろしいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜(なべかま)も貸してくれるが、本当の家来を雇わないとすれば飯炊きがない。その代わりに連れて行くのだがどうだ。」
「飯を炊くぐらいの事は何でもない、飯を炊こう。」
「それじゃ一緒に来い。」
と言って、それから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連れは私と岡本、もう一人備中(びっちゅう)の者で原田磊蔵(はらだらいぞう)という、やはり緒方の塾生、都合三人の道中で、もちろん歩いて行きました。その時はちょうど、十月下旬で少々寒かったのですが、小春の時節、一日も川止めなどという災難にあわず、滞りなく江戸に着きました。まずは木挽町(こびきちょう)汐留(しおどめ)の奥平屋敷に行って、中屋敷は鉄砲洲(てっぽうず)にありました。そこの長屋を貸すというので、早速に岡本と私とでその長屋に住み込こんで、両人自炊の所帯持ちになりました。それから、同行の原田は下谷(したや)練塀小路(ねりべいこうじ)の大医(たいい)大槻俊斎(おおつきしゅんさい)先生のところへ住み込みました。江戸へ参れば知己朋友は幾人もいて、段々面白くなって来ました。
江戸に学ぶに非ず教るなり
さて、私が江戸に来て鉄砲洲(てっぽうず)の奥平中屋敷に住んでいると、藩中の子弟が三人、五人ずつ学びに来るようになり、また他からも五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授していました。前にも言った通り、大阪の書生は修業するために江戸に行くのではないのです。行けば教えに行くのだという自(おの)ずから自負心がありました。私も江戸に来てみたところで、全体江戸の蘭学社会はどういうものであるか知りたいものだと思っているうちに、ある日、島村鼎甫(しまむらていほ)の家に尋ねて行ったことがあります。もちろん、緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の飜訳などをしていました。私も甚(はなは)だ良く知しっているので、尋ねて参ればいつも学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の飜訳の最中で、その原書を持出していうには、この文の一節がどうしても分からないと言いました。それから、私がこれを見たところが、なるほど分かりにくいところでした。よって、主人に向って、これは、ほかの朋友にも相談してみたのかと言えば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をしてみたが、どうしても分からぬと言うから、
「面白い。ソレじゃ僕がこれを解いて見せよう。」
と言ってみたものの、本当に見たところが中々難しかったのです。およそ、半時間ばかりも無言で考えたところで、チャント分かりました。
「一体、これはこういう意味であるが、どうだ。物事は分かってみると造作のないものだ。」
と言って、主客、共に喜びました。何でもその一節は、光線と視力との関係を論じ、蝋燭(ろうそく)を二本点けて、その明かりをどうかすると、影法師がどうとかなるという、随分難しいところで、島村の飜訳した生理発蒙(せいりはつもう)という訳書中にあるはずです。この事で、私も密かに安心して、まず、これならば江戸の学者もそこまで恐れることはないと思ったことがあります。
それから、また原書の分からないところを諸先輩に質問して、密かにその力量を試したこともあります。大阪にいるうちに、いつも皆が読みそこなったところとか、人の読みそこないそうなところを選び出して、そうして、それを私は分らない顔して質問しに行くと、毎度の事で、学者先生と称している人が読みそこなっているから、こっちはかえって満足でした。実は、欺いて人を試験するようなもので、徳義上において、相済(あいす)まぬ罪なのですが、壮年血気の熱心、自(みずか)ら禁ずることが出来ませんでした。畢竟(ひっきょう)、私が大阪にいた間は、同窓生と共に江戸の学者を見下して、取るに足らないものだと思っていながらも、ただソレを空(くう)に信じていい気になっていては大間違いが起こるから、たいてい江戸の学者の力量を試さなければならぬと思って、悪いこととは知りながら試験をやってみたのです。
英学発心
ソコデもって、蘭学社会の相場はたいてい分かって、まず安心ではありましたが、さてまた、ここに大いに不安な事が生じてきました。私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国(ごこく)条約というものが発布になったので、横浜はまさしく開けたばかりのところでした。ソコデ私は横浜に見物に行きました。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、堀立小屋のような家が諸方(しょほう)にチョイチョイ出来て、外国人がそこに住んで店を出していました。そこへ行ってみたところが、ちょっとも言葉が通じませんでした。こっちの言うことも分からなければ、あっちの言うことも、もちろん分かりません。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分かりません。何を見ても私の知っている文字というものはありませんでした。英語だか仏語だか一向に分かりません。居留地をブラブラ歩くうちに、独逸(ドイツ)人でキニツフルという商人の店にぶちあたりました。その商人は、独逸(ドイツ)人でこそあれ、蘭語蘭文が分かります。こっちの言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうにか意味が通じるというので、ソコで色々な話をしたり、ちょっと買物をしたりして、江戸に帰って来ました。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行って、その晩の十二時に帰ったから、ちょうど一昼夜歩いていたわけです。
小石川に通う
横浜から帰って、私は足の疲れが理由ではなく、実に落胆してしまいました。これは、これは、どうも仕方がない、今まで数年の間、死に物狂いになって和蘭(オランダ)の書を読むことを勉強しました。その勉強したものが、今は何にもならないのです。商売人の看板を見ても読むことが出来ません。それは、誠に詰まらぬ事をしたわいと、実に落胆してしまいました。けれども、決して落胆している場合ではありません。あそこで使われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。ところで、今世界では英語が普通に使われているということは、予てから知っていました。何でもあれは英語に違いない。今、我国は条約を結んで開きかかっている。そうなると、今後は英語が必要になるに違いない。洋学者として英語を知らなければ、とても何にも通ずることが出来ない。この後は英語を読むよりほかに仕方がないと、横浜から帰った翌日に思いました。一度は落胆しましたが、同時に、また新たに志しを発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を決めました。さて、その英語を学ぶということについて、どうしていいか、取付端(とりつきは)がありません。江戸中に、どこかで英語を教えているというような所のあろうわけもないのです。けれども、段々聞いてみると、その時に条約を結ぶというがために、長崎の通詞の森山多吉郎(もりやまたきちろう)という人が、江戸に来て幕府の御用を勤めていました。その人が英語を知っているという噂を聞き出したから、ソコで森山の家に行って習いましょう、と思いました。その、森山という人は小石川の水道町に住居していたから、早速その家に行って、英語教授の事を頼むと、森山の言うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというならば教えて進ぜよう。ついては、毎日出勤前、朝早く来いということになって、その時、私は鉄砲洲(てっぽうず)に住んでいて、鉄砲洲から小石川までだいたい二里余もありました。毎朝早く起きて行くのですが、今日はもう出勤前だから、また明朝来てくれ。明くる朝早く行くと、人が来ていて行けないと言う。どうしても教えてくれる暇がないのです。ソレは森山の不親切というわけではなく、条約を結ぼうという時だから、中々忙しくて実際に教える暇がありはしなかったのです。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来てくれぬかと言われました。ソレじゃ晩に参りましょうと言って、今度は日暮れから出掛けて行きました。あの往来は、ちょうど今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺りで、もと護持院(ごじいん)ヶ原という大きな松の樹などが生繁っている恐ろしく淋しいところで、追剥(おいは)ぎでも出そうなところでした。そこを小石川からの帰り道に、夜の十一時、十二時ごろ通る時の怖さというものは、今でもよく覚えています。ところが、この夜稽古もやはり同じ事で、今晩は客がある。イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬ、というようなわけで、とんと仕方ないのです。およそ、そこに二月か三月、通ったけれども、どうにも暇がなかったのです。とてもこんな事では何も覚えることも出来ない。加えて、森山という先生も何も英語をたいそう知っている人ではなくて、ようやく少し発音を心得ているというぐらいでした。とてもこれは仕方ないと、余儀なく断念しました。
蕃書調所に入門
その前に、私が横浜に行った時に、キニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買って来ました。ソレをひとりで読もうとしたところ、字書(じしょ)がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分ひとりで解読することが出来るから、どうか字書が欲しいものだといったところで、横浜に字書などを売るところはない。何とも仕方がない。ところが、その時に九段下に蕃書調所(ばんしょしらべじょ)という幕府の洋学校があり、そこには色々な字書があるということを聞き出したので、どうにかして、その字書を借りたいものだと思いました。借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所(しらべしょ)に入門したいと言っても許されるものではない。藩士の入門願いにはその藩の留守居(るすい)というものが願書に奥印(おくいん)をして、その後に入門を許すということになっています。それから藩の留守居のところに行って奥印の事を頼み、私は𧘕𧘔(かみしも)を着て、蕃書調所(ばんしょしらべじょ)に行って入門をお願いしました。その時には、箕作麟祥(みつくりりんしょう)のお祖父さんの箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人が、調所の頭取(とうどり)で、早速に入門を許してくれて、入門すれば字書を借りることが出来る。すぐに拝借を願って、英蘭対訳の字書を手に受取って、通学生のいる部屋があるから、そこで暫く見て、それから懐中の風呂敷を出してその字書を包んで帰ろうとすると、ソレはならぬ、ここで見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が言うのです。こりゃ仕方がない、鉄砲洲(てっぽうず)から九段阪下まで毎日字引を引きに行くということは、とても間に合あわぬ話だ。ソレもようやく入門してたった一日行ったきりで断念しました。
さて、どうしたらよかろうかと考えました。ところで、時々横浜に行く商人がいます。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んでおいたところ、ホルトロツプという英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども値段は五両という。それから、私は奥平(おくだいら)の藩に歎願(たんがん)して、買取ってもらって、サアもうこれでよろしい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くしました。それからは、その字引と首引(くびっぴき)で、毎日毎夜ひとり勉強、またあるいは、英文の書を蘭語に飜訳してみて、英文に慣れる事ばかり心掛けていました。
英学の友を求む
そこで、自分の一身はそう決めたのですが、これはどうしても朋友がいなくてはならないと思いました。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は悉(ことごと)く不便を感じているに違いない。とても、今まで学んだものは役に立たない。何でも朋友に相談をしてみよう、とこう思ったのですが、この事もなかなか簡単ではないのです。と言うのは、その時の蘭学者全体の考えは、私を始めとして皆、数年の間、刻苦(こっく)勉強した蘭学が役に立たないということですから、まるでこれを捨ててしまって英学に移ろうとすれば、新たに元の通りの苦しみをもう一度しなければならないのです。それは誠に情ない、つらい話であります。たとえば、五年も三年も水練(すいれん)を勉強して、ようやく泳ぐことが出来るようになったところで、その水練をやめて今度は木登りを始めようというのと同じ事で、以前の勉強が丸で空(くう)になると、こう考えたものだから、いかにも決断が難しかったのです。ソコデ、学友の神田孝平(かんだたかひら)に面会して、どうしても英語をやろうじゃないか、と相談を掛けると、神田の言うに、
「イヤもう僕も疾(とう)から考えていて、実は少し試みた。試みたが、いかにも取付端(とりつきは)がない。どこから取付いて良いか実にわけが分からない。しかし、年月を経れば、何か英書を読むという小口(こぐち)が立つに違いないが、今のところは何とも仕方がない。マア、君達は元気がいいからやってくれ。たいていの方角が付けば僕もきっとやるから。ダガ、今のところは、何分、自分でやろうとは思わない。」と言うのです。
それから、番町の村田蔵六(後の大村益次郎)のところへ行って、その通りに勧めたところが、これはどうしてもやらぬ、という考えで、神田考平(かんだたかひら)とはまるで考えが違うのです。
「無益な事をするな。僕はそんな物は読まぬ。要らざる事だ。何もそんな困難な英書を辛苦(しんく)して読むがものはないじゃないか。必要な書は、皆和蘭(オランダ)人が飜訳するから、その飜訳書を読めばソレでたくさんじゃないか。」と言うのです。
「なるほど、それも一説だが、けれども和蘭(オランダ)人が何もかも一々飜訳するものじゃない。僕は先頃(せんころ)、横浜に行って呆れてしまった。この塩梅(あんばい)ではとても蘭学は役に立たぬ。是非、英書を読まなくてはならぬではないか。」と勧めたけれども、村田はなかなか同意せず、
「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。やるなら君達はやりたまえ。僕は必要があれば蘭人の飜訳したのを読むから構わぬ。」と威張っていました。
これは、とてもしかたがない、というので、今度は小石川にいる原田敬策(はらだけいさく)にその話をすると、原田はとても熱心で、
「何でもやろう。誰がどう言っても構わぬ。是非やろう。」と言うから、
「そうか、ソレは面白い。そんなら二人でやろう。どんな事があってもやり遂げようではないか。」
ということで、原田とはとても話が合いました。愈(いよい)よ、英書を読むという時に、長崎から来ていた小供がいて、その小供が英語を知っているというので、その小供を呼んで来て発音を習ったり、また、あるいは漂流人で折節(おりふし)帰るものがいる。長くあっちへ漂流していた者が、開国になって船の便があるものだから、折節(おりふし)帰る者があるから、そんな漂流人が着くと、その宿屋に訪ねて行って聞きに行ったこともありました。その時に、英学で一番難しいというのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうというのではなく、ただ、スペルリングを学ぶのであるから、小供でもよければ漂流人でも構いませんでした。そういう者を捜しまわっては学んでいました。始めは、まず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を引いてソレを蘭文に書き直せば、ちゃんと蘭文になって、文章の意味を取ることに苦労はありません。ただ、その英文の語音(ごいん)を正しくするのに苦しみましたが、これも次第に緒(いとぐち)が開けて来れば、それはどの難渋でもありませんでした。詰まるところ、最初、私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、本当に蘭学を捨ててしまい、数年の勉強の結果を空(むな)しくて、生涯二度の艱難辛苦(かんなんしんく)かと思ったのは大間違いの話で、実際には「蘭」といい「英」というも等しく横文であり、その文法も略(ほぼ)同じで、蘭書を読む力は自ずから英書にも適用できて、決して無益でありませんでした。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。
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