Making Sense - The light of the Mind 3
A Conversation with David Chalmers
C:もし火星人と遭遇したらどう思いますか。例えば、高度な知能を持っていて振る舞いも洗練されている。彼らとは科学や哲学について語り合うこともできる。しかしながら、彼らが進化した過程は我々のそれとは異なっている。その場合、彼らが意識を持っているかどうかに関してどう思いますか。
H:たぶん疑うと思います。なんとなくそれは我々人間と我々が創造するAIの中間くらいなんじゃないかと思います。この話題に関連して訊きたいことがあります。それは、epiphenomenalism、随伴現象(随伴現象説 - Wikipedia)です。これはハードプロブレムのコインの裏側とも言えますよね。身体のすべての機能を意識という概念を使わずに説明しきれてしまうという事実は、あらたな難題へとつながります。それは、意識は脳の物理的な状態に対して何の影響も及ぼさないのではないかということです。つまり、随伴現象です。よく使われるたとえ話ですが、機関車からでてくる煙のようなものです。煙は線路を走っている列車に関連しています。しかしながら、煙そのものが何かをしているわけではありません。煙は列車を走らせている機械の副産物に過ぎません。意識とは煙のようなものかも知れません。あなたの最初の本「The Conscious Mind」では、随伴現象にかなり共感しているように感じました。
意識が何もしないという随伴現象の考え方は、一見受け入れにくいものですよね。とてもたくさんのことに影響しているように感じますから。でも、それにはちょっと問題があります。人間のどのような行動であっても、主観的な意味での意識を呼び起こすことがない神経細胞や数理的な仕組みで説明できる可能性があるということです。少なくとも、意識にはなんの役割もないのではという疑問を持つ事は可能ですよね。もしかしたら、まったく何もしないのではないかと。もしかしたら、意識とは単に我々の人生に価値や意味付けをもたらすだけのものなのかもしれない。でも、もしそれ以外の何物でもないのであれば、それはそれでまた多くの疑問が生まれますよね。もし、肉体と意識の因果関係の中で意識がなんの役割も果たしていないとしたら、いかにして、そしてなぜ、我々はこのように進化してきたのだろうと。ましてや、なぜここまで意識について深く語り合っているのだろうと。
「The Conscious Mind」の中で少なくとも随伴現象の考え方を検証しようとしてみました。「随伴現象は絶対に正しい」とは言いませんでした。むしろ、「もし、これしか可能性がないとしたら、そういう結論もあるだろう。」と言おうとしたのです。意識とは随伴現象であるか、もしくは肉体現象の外にあるけれども、なぜか肉体に対して影響を及ぼしていると。それはむしろ伝統的な二元論的(二元論 - Wikipedia)な可能性ですね。あるいは、第三の可能性もあるかもしれない。意識は物理の根本的なレベルで何らかの形で組み込まれているという可能性です。
H:今挙げていただいた3つの可能性に関してそれぞれお話したいのですが、とりあえずは随伴現象の続きを話しましょう。既に少し触れましたが、哲学的ゾンビ(哲学的ゾンビ - Wikipedia)に関して説明してもらえますか。随伴現象の説明に使われる思考実験ですよね。もともとあなたが最初に始めたのですか。
C:ポップカルチャーではもちろんゾンビという考え方は存在しましたし、哲学の世界でも私が話す前にありました。たしか、1970年代にロバート・カーク(ロバートカーク(哲学者) - Robert Kleine - Wikipedia (wiki5.ru))が始めた議論です。しかも、ゾンビという考え方自体はもっと以前からありました。哲学上のゾンビは映画のゾンビやハイチのブードゥー教とは違います。でも、いわゆるゾンビというのは何かが欠けているんです。映画のゾンビは生命が欠けています。死んでいますが、同時に生き返ります。ブードゥー教の伝統的なゾンビは、ある種の自由意志を欠いています。哲学におけるゾンビは意思に欠けています。
この思考実験では、行動的には普通の人間と同じ、つまり歩行も会話も完全に人間と同じようにできるのですが、意識はまったくないという生き物を想像してみようというものです。極端なケースの話をすると、あなたの知っているある特定の人間と肉体的には全く見分けがつかないのに、主観的な意思がまったくない存在を想像してもらいたいということです。私の双子の片割れのゾンビを例にします。この世界のどこかにいる私にそっくりの架空の存在です。そして、その僕の双子の彼が今現在こうしてあなたにそっくりのゾンビと話しているのです。私と全く同じことを同じように話しているのですが、意思はないのです。
そんな生き物はこの世に存在しないと皆さんは言うかもしれない。でも、少なくとも仮定としてそういう状況が起こりうるということは想像できますよね。そして、それを理解した瞬間に「なぜ自分はゾンビじゃないと言い切れるんだろう。」と疑問に思いませんか。もしかしたら、進化の過程でゾンビになった可能性もあります。でも実際にはそうならずに進化は意識のある存在を生み出したのです。なぜ進化はゾンビを生み出さなかったのでしょうか。もし、「そうか!このために意識は必要だったのか!もし意識がなっかったら困ったてよ!」と指摘できる何かがあったとしたら、それは意識という機能があったと結論付けることができたかもしれません。しかしながら、今現在、私たちの行動すべて、例えば知覚すること、学ぶこと、記憶すること、言語を操ること等々、全てにおいて無意識でできてしまうのです。意識が何をしているのか、という問題は、ゾンビの思考実験によって厳しく浮き彫りにされてしまうのです。
H:私たちは多くの事を無意識にできますよね。少なくともそう思えます。私が自分の視覚を認識すること、あなたの声を聞くこと、英語を母国語としているからあなたの言葉から難なく意味を読み取れること、これらはすべて、私が何かを経験する前に無意識に行われていることです。ですから、この無意識の課程に関連している何かがあるべきだということが不思議なのです。その多くは見えないところで起こっているわけですから。
これは私の本「Waking Up(Waking Up: A Guide to Spirituality Without Religion: Harris, Sam: 9781451636024: Amazon.com: Books)」の中で左右が繋がっていない脳について書いたことと関連しています。私たちの脳の中には、私たちが気づいていない意識つかさどる部位があるのではないか、つまり、私たちは自分自身の脳に関して「他の人の心」の問題を抱えているのではないか、と考える理由があると思います。自分の認知処理の一部がゾンビのように意識がない思えるという可能性について、どう思われますか?
C:その可能性がないとは言えません。心と体の問題はとても複雑です。最も不思議なことは、体のどの部分に意識があるのかわかっていないということです。多くの人は人間には意識があると思っています。恐らく発達した哺乳類の多くも意識があるでしょう。猿とか、犬とか、猫とか。では、ネズミはどうでしょう。ハエは?このレベルになると意識があるとは断言できなくなる人もいるでしょう。しかし、私はある程度発達した情報処理能力のある機器には意識があるという考え方なんです。これはちょっとわかりにくいですよね。後ほど意識はいたるところにある、という話をしましょう。
でもその前に、もしハエや、神経細胞を300個しか持たないミミズが意識を持っていると主張するのであれば、それに比べて脳の一部分は非常に洗練されているにも関わらず、他の意識というシステムの一部だという事実を不思議だと感じざるを得ないでしょう。神経学者であるジュリオ・トノーニ(ジュリオ・トノーニ - Wikipedia)は最近意識の統合情報理論という考え方を提唱しました。システムが統合しうる量であるΦ(ファイ)という数学的な目安を使います。Φが高度であれば、意識を持つ事ができるという理論です。
脳の各半球や小脳などの様々な部分を見ると、Φ(ファイ)は脳全体ほど高くはありませんが、それでもかなり高いことに気づかされます。トノーニは、それだけ高度なΦ(ファイ)を持っている動物は意識があるに違いないと主張するでしょう。では、なぜその脳の一部自体には意識がないのでしょうか。そこでトノーニは新たな公理を提案します。排除の公理と呼ぶ新たな公理を提案し、もし自分より高いΦ(ファイ)を持つシステムの一部である場合は、自分は意識を持たない、と言っています。小脳も高度なΦ(ファイ)を持っているけれども、脳全体がより高いΦ(ファイ)を持っているので、脳全体には意識があって小脳には意識がないことになります。多くの人がこの公理はやや恣意的だと感じました。でも、そう定義しないと意識をもつ下部システムいたるところにできてしまいます。下部システムであるとはどういうことかなんて、誰もわかりませんよね。自分の小脳であるとはどういうことか、脳の半球であるとはどういうことか、なんて。でも一方で、脳の半球が破壊されてしまってもそのまま生活し続けるという実験や状況があったりもします。
H:トノーニの意識の統合情報理論についてですが、これもただ単に「ハードプロブレム」を突っぱねようとしているだけのように思えてしまうんです。マックス・テグマーク(マックス・テグマーク - Wikipedia)は「物質の状態としての意識(1401.1219.pdf (arxiv.org))」という論文の中で、トノーニの主張を出発点としました。「まずはここから始めよう。」といった感じで。我々は意識を生み出すものがどのように作られているのかは知っているのだから、あとはそれがどのように意識を生み出すようになったのかに関するもっともらしい説明を考えれば良いじゃないかと。そして、トノーニの主張を取り入れて、そこに様々な物理学を応用しました。
でも、トノーニの主張に「ハードプロブレム」を解くきっかけのような何かはありましたか。例えば、彼が以前にジェラルド・イーデルマン(ジェラルド・モーリス・エデルマン - Wikipedia)と行った研究と比べて、「ハードプロブレム」を進展させるような何かはあったのでしょうか。若しくは、その他多くの人が行ったあらゆる意識の情報処理の解釈に関するいかなる研究よりも役に立ったものはあったのでしょうか。
C:トノーニの肩を持つわけではないですが、彼は意識の問題に関してとても真摯に取り組んでいたと思いますよ。より詳細な説明を求められると、「どうやったら物から意識を得ることができるかという『ハードプロブレム』を解決しようとしているのではない」と言いました。「脳の物理的な過程から意識の仕組みへの説明の飛躍を乗り越えようとしているわけではない。むしろ、自分は意識が存在するという事実から議論を始めているのだ。それを前提にその特性を位置づけようとしている。」と言いました。そして、例えば意識は、ある意味では分化しているが、その他の意味では統合され統一されている情報から構成されている、といった現象論的な公理から議論を始めている。そして、それらの現象学的公理を情報の数学に置き換え、「意識はどのような情報的性質を持つのか」と問いかけます。その結果、Φ(ファイ)という数学的尺度を考え付いたのです。そしてある時、意識はある種の情報の統合であるという説が生まれます。正しいかどうかわかりませんが、私が考えるに、この理論は、異なる意識状態を、脳内の異なる種類の情報の統合と関連付けるものだと理解しています。
つまり、「ハードプロブレム」は解決されていません。なぜなら、脳の中で情報を統合することでなぜ意識を生み出すのかということがわかっていないからです。しかし、「ハードプロブレム」が存在すると信じる人でも、脳と意識の間には厳密な数学的なシステム的相関があるということは納得できます。つまり、トノーニの理論は、それらの相関関係を厳密に数学的に説明することを意図したのです。
H:そうですね。「ハードプロブレム」のことは完全に諦めて、神経と意識との物理的な相関だけに注目するとしたら、それでは謎は解けたと偽っていると言われても仕方がないですね。
C:私は、「ハードプロブレム」的なものに対して大まかに科学的に取り組むいった、いわゆる中間的な考え方があるんじゃないかと思っているんです。例えば、「神経の相関を観察して、人間の場合はどうなっているのか見てみましょう。」といった単純なことではなくて、「最も基本的で根本的な肉体的なプロセスと意識を結びつける原理を見つけよう。つまり、基本的で一般的な原理の類として。」ということです。先ずは、良く知っている人類の場合の相関から始めてみても良い。例えば、特定の神経システムと特定の意識との関係とか。そこから、できるだけの証拠を集めて原理を一般化するべきなのです。そうしたら他のシステムにも応用できるかもしれない。
究極的には、どのような肉体的なシステムのなかにどのような種類の意識を見つけることができるか、という簡単な足掛けとなるような原理を探すということです。ですから、トノーニのΦ(ファイ)を使った意識の統合情報理論のようなものは、肉体的な過程と意識を結びつけることができるかもしれないという基本的な原理の提唱です。
「ハードプロブレム」を存在しないものとするわけではありません。しかし、少なくともその原理を使って科学的な検証をすることができます。科学の世界では、「物理学の基本法則」、「重力の法則」、「量子力学の法則」など、いくつかの法則や原理を公理としてとらえ、それ以上説明しようとしない基本原理があるじゃないですか。同じように、意識のようなものも、公理としてとらえなければならないのかもしれません。
H:おっしゃる通り、科学には普遍的な事実があり、それは現実を考える上で何の障害にもなりません。しかし、意識の出現という事実をこれらの事実と同様に扱うということは、決して意識を理解したことにはなりません。
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