ドストエフスキー 地下室の手記を読んで
みなさん、こんにちは。ドストエフスキーの地下室の手記について、私が感じたことを述べようと思います。この作品は第一部と第二部に分かれており、第一部は主人公の独白、第二部は主人公の過去について、まとめられています。第一部が難解であり、陰鬱な文章が続くことから、途中で読むのを諦めてしまう人が多くいるかと思います。なので、第一部を中心に説明していきます。
主人公は40代の元役人で、20年以上の引きこもり生活をしています。自意識過剰、臆病、自尊心が高く、考え過ぎて行動出来ず、周りの人からバカにされたくない気持ちを常に抱いています。そのうえ、人の行動や言葉を気にし過ぎるあまり、行動できないくせに、誰かを見下しているという、ひねくれた性格の男が主人公です。
では、この主人公は何のために存在しているのか? 本人に問いたくなるのですが、おそらく主人公はこう答えるでしょう。
「俺は人類や社会の歯車に対してのアンチヒーローだ」
20年間引きこもっていたせいで、頭がおかしくなったのか。とツッコミたくなるのですが、私たち人間というのは、ある程度、利益を追い求める生き物です。自分の利益を切磋琢磨していけば、自分の為にもなり、相手の為にもなり、社会の為にもなると思われます。そうなると、社会が穏やかに発展し、穏やかな人類が生まれ、人類や社会としての歯車が上手く回り続けていくでしょう。それに対し主人公は、ある重要な点を一つ忘れていると主張します。
「奴らは人間であることを忘れている。人間は歯車という名の機械ではない」
またまた意味不明なことを言っているな。と思いたくなりますが、例えば、ピアノのキーをポンと鳴らして、いい音が鳴るとしましょう。そうなれば、他のキーを鳴らし、次々とキーを鳴らしていく。やがてそれは、美しい音を奏でる楽器となります。その音を聞けば、多くの人がいい気持ちになれるし、幸せになれる。と感じる人がいると思われます。しかし、主人公に言わせると・・・
「我々には自由な意識がある。それを証明するために、我々はあえて誰にためにもならない、自分の為にもならない行動をしてしまう。それが人間というものだ」
主人公は他人の足を引っ張り、誰かを軽蔑をしていくことで、周りの人と違うのだ。という特別感を出して、自分の否を認めるどころか、正当化しようとしているように見えます。第二部で語られる主人公の過去についても、様々な人物を巻き込み、その人たちの足を引っ張ったり、軽蔑していった結果、現在の主人公として成り立っているのではないか。と思われます。正義があれば、悪も存在する。逆に正義がなければ、悪も存在しない。要するに、この世界には表裏一体があり、最初の台詞であった「俺は人類や社会の歯車に対してのアンチヒーローだ」ということになります。
長々と説明していきましたが、この作品の主人公を反面教師として読むことで、何かの教訓が得られるかもしれません。私はこの作品を読んで思ったことは、失敗しようが、周りの人を気にせずに行動していくことが、自意識過剰や臆病、高い自尊心といったものに、唯一抵抗できるものではないか。と感じました。
以上、ドストエフスキーの地下室の手記について、私が感じたことについて終わります。
記事を読んで頂き、ありがとうございました。
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