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考える葦と現代社会

こんにちは。
たろうです。

徒然なるままに
考えている事を書いていきます。

「人間は考える葦である」という言葉はご存じでしょうか
こちらはフランスの哲学者、パスカルの言葉です。

人間の存在は葦の様にか弱い存在であるが
考えるという力が人間に与えられた特権であると言った旨の言葉ですね。

人間は思考を通じて人間たらしめられ、
自己というアイデンティティを確立します。

現代社会に於いて、
少なくとも私の学生時代は考えられることが求められました。

学問では、数学の証明問題に代表されるように
論理的な思考で自身の考えをアウトプットされる事が求められる訳です。

教育と言う概念から提供される
「考える課題」の解決を通じて
自身のアイデンティティを確立していく訳ですね。

その裁量は学習過程によって異なります。
初等教育の段階では、課題の設定は既にされており
与えられた課題に対して取り組む事が求められます。

高等教育になると課題設定の裁量は
個人に委ねられる様になり
大学などでは完全に個人が設定した課題に対しての
解決が求められる様になりますよね。

こうして「考える葦」としての性質を
教育を通じながら会得して行く訳です。

しかし

社会に出てみるとどうでしょうか。

私の意見として、現代社会における大部分で
「考える葦」は不要なモノとして扱われます。

会社員を例に挙げてみましょう。
会社とは自身の営業活動において
利益を上げながら経営をしています。

そのため、利益の数字が重要視されます。

多くの場合営業活動は
会社の研修という過程を通じて
マニュアル化されたモノが用意してあります。

そのマニュアルを習得する段階において
個人の「考える」という能力は要求されません。
何故なら会社の方針としてマニュアルが確立されているから。
そこに個人の思考が入り込む余地は無いのです。

考える葦になる様に教育をされてきた若者は
就職を通じて考える葦を脱却し
思考を停止した「考えない葦」になる事が要求されるのです。

先ほどのマニュアルを例に挙げて考えてみましょう。
会社の研修の過程において、多くの場合
個人が思考し、おかしいと思った事を提示したとします。
上司からすると「生意気なやつ」として認識されますし
大多数の人間からすると、
現在上手く行っていて利益が出ている事に対して
文句をつける変なやつと認識されます。

変化は悪なのかもしれない。

だけど僕はそうだとは思わない。

上記の内容はおおよそ
私個人の体験談である。
現代社会への順応の中で
少しの抵抗として、
私の思考を書いている。

私は会社の先輩に笑われる。
「なぜそんなに物事を考え続けるのか」

思考こそが人間を人間たらしめているとしたら
それを放棄する時点でもはや人間ではない。
人間の様な何かに成り下がってしまうのだ。

現代社会への順応は
人間らしさからの卒業なのだ。

少年よ

考える葦であれ。

美しくあれ。


お粗末様でした。

たろう


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