"THE LEPLI-ARCHIVES"/#150-「はだかの王さま」とコムデ ギャルソン、川久保玲が求める「特異性」という彼女の「凄いさ!」を妄想してみる。
初稿 / 2016年9月30日:(この原稿は14年前のものです。)
文責 / 平川武治:
写真 / ミシン仕事の藤田嗣治:
1)敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには、
昨年来、敗戦後の日本が根幹の「倫理観無き世界」が原因の不祥事が続々と表層化し、
メディアが面白がって過敏に、過熱報道し始めています。
現在ではその渦中にいるのが「舛添東京都知事の倫理観無き行為」でしょう。
早いものですね、今では、もう誰も語らなくなりましたね、
わずか10ヶ月前の不祥事ですが彼の場合も”世代”と”育ち”にありますね。
”世代”は戦後の荒廃期そして、”育ち”は自から「在日」をカミングアウトをして
その立ち居場所を両義性あるものにする。
ここには「ユダヤ人」たちの手法と類似性を見てしまいます。
敗戦後のあの瓦礫の世界から1日も早く生え抜け出すためには、
「倫理観」ほど無力、無益なものはなかったのが現実でした。
これは”敗戦後”を実体験して生き抜いてきた世代の人たちの現実/リアリティでした。
従って、”戦後日本”の”中産階級”構造を現在のような「B層構造」に構築化してしまった
元凶は「取り合えづは、」という言葉と「倫理観無き世界」の「根性論構造」が
産み出したものでしょう。
この時代がもたらした世界で多くの彼らたちは自分たち家族のための「ガンバリ」を、
戦前の日本にはあったはずの含羞などは見事に捨て去り、根性で生き抜いてきた人たちの
”育ち”の賜物でしょう。
それが70年を経た今、「舛添東京都知事の倫理観なき、反省なき行為」も
その現実のひとつなのでしょう。
2)戦後日本のファッションの世界を省みても、
彼らたち、「帰化人」の戦後の功績は宗教界、実業界と芸能界やプロスポーツ界のみならず、案外と、ファッションの世界にも多いのです。
彼らたちの「ガンバリ」と「根性」によって、自らの”立ち居場所”を「革新」できるという敗戦後の「自由」な社会が存在し、その「自由」を自分たちの好きなファッションの世界で
謳歌した人たちが、’60年代後半に生まれた世界、”マンション・メーカー時代”から始まり
その後の”TD6”を経て、東京デザイナーたちへ引き継がれていますね。
次なるは、このファッションの世界での”セールスマン”たちの登場でした。
彼らたちはこの世界へ当時の”カウンターカルチュアー”を読み込み、
”カッコイイ”と憧れてやってきた’80年代の「団塊の世代」たちによって構造化され、
模倣されたファッション・ヤッピーたちのもう一つの現実が、広告代理店産業とともに、
「大衆消費社会」を構造化し、日本のファッションの二つの構造世界を構築してきました。
注記/ 「 舛添東京都知事のスキャンダルとは?」参照。
https://www.bbc.com/japanese/36535560
https://www.sankei.com/article/20160516-FKZKBYD64FPFVKGEHEGHH5KTZQ/
3)実は、この原稿は先シーズンのCdG,川久保玲のコレクションを見た後の、
後味の悪さと心のざわめきによって書いたものでした。
その後、しばらくまとめることができず放置しておいたのですが、
先シーズンのオム・コレクションで、再びこのCdG・HPがやってくれたのが
僕の大好きな童話「裸の王様」を一つのコンテンツとしたコレクションだったので驚いた。
そして今回、彼女の自身のコレクションがもうすぐ、ここパリで行われるので再読し、
まとめたものです。
コムデギャルソンのデザイナーである川久保玲も、「根性と頑張り」の育ちからスタートし、先シーズンは彼女の高齢化とその立ち居場所を死守するという
この世代のデザイナーが誰しも向かう”最後の困難或いは、最産みの苦しみ”へ挑戦した。
4)この至難な困難さはこのブランドの前シーズンに既に、その兆候が見られた。
その大きな一つは、もう彼女が作り出すここ数シーズン来の”創造の世界”のエレメントが
使い古さ回しがされ始めたこと。
8シーズン程も続けたこの彼女の変わらぬ「特異性シリーズ」も、ある種のマンネリ化を
もたらし始め、見る者に新らたで強烈な時代感が感じられるまでには至らなくなった。
使いまわされ始めた彼女が好きな”エレメント”をファッショントレンドで出された素材を
使うことでまとめ上げられるという手法に陥ってしまった。
変わらず、続けて見せていただいている僕には、ここにエネルギィイの欠如感と
「現実から離れてしまった、」リアリティが弱まり、”ソースオブザクリエーション”そのものに新鮮味ががなくなってしまたと感じる所以である。
ここにはこのシリーズになってから常に変わらずに登場する一つのパターンがあった。
2008年にアメリカで行われた展覧会で刊行された「Maske」は彼女のコレクションの
ソースブックであったろう。
注 / "Maske" By Phyllis Galembo ,2010 by Chris Boot :
https://www.galembo.com/books
https://www.youtube.com/watch?v=Bjq3xizfCwQ
また、もう一冊、2012年にドイツで発行された、C. Fregerがまとめた
東ヨオロッパにおける民族サイトその衣装写真集、「Wilder Mann」からも最近では
影響が見られ始めた。
この「MASKE」からの1体は前シーズンまで使う素材をそのトレンド性に合わせながら
引き継がれ使われているし、多くのインスピレーションを「Wilder Mann」からも感じ取れるコレクションが多くなってきた。
注/ "Wilder Mann" / https://www.charlesfreger.com/portfolio/wilder-mann-fr/
https://mem-inc.jp/2014/03/13/140315_charles_jp/
5)このデザイナーは自らの「自伝」を作品によって語り始めたのであろうか?
確か3シーズン目まではかなり、辛く、苦しいピアーなエレメントをメタファーすることが出来たが、次なる前シーズンはその激痛はなく、先シーズンはでは、
どのようになるのだろうかが僕の一番の関心であった。
そして、先シーズンの彼女のコレクションはより、蛇足的になり、わかりやすい
”ファッショントレンド・アート的コレクション”でしかなかった。
使われたエレメントも時代との関係性からは、全く創造的な価値観は無くなり、
今シーズンの新たな新しさとして、若手デザイナーたちからぼつぼつ登場し始めた、
「without sewing」の世界観までをも感じられた。
平川的なる視点では彼女の制作チームが変わり、この制作チーム力が”弱い”あるいは、
”若い”又は、未熟もしくは、彼女がやりたいことが十分に伝わりきれずに”発車”してしまった。 なので、「このままでいいもですか?」という気持ちが後に残ってしまったのが先シーズン。
6)「CdGの川久保玲で在り続ける。」こととは、
これが今の彼女の”こゝろの有り様”であり、コレクションの魂胆であろう。
実際に彼女が取り始めた戦略とは決して、誰でもが出来ない世界「特異性」の維持である。
当時、このブランド名からしても、”巴里大好き!”な、憧れであったモードの街、巴里へ
進出して以来のブランド・デザイナー川久保玲の見られ方は、
決して、この街の”ファッション体制”に媚びない、という
寧ろ、今の真逆の一点であっただろう。
この彼女が望み続ける変わらぬ野望に大きく”ユダヤ人”というプロテクションが構築されたのがあの結婚以後であり故に、彼らたち”ユダヤ人コミュニティ”からの”喝采”も必須となった。 そのためにどのような服作りとイメージ作りをして行けば良いか?
そのための”資金”も必要。
この時に彼女が採った立ち居場所は「パリに居て、巴里から遠く離れて、」というまでの
「特異性」を構築することであったはず。
その結果と、延長が現在の彼女が「ユダヤの森」にウエルカムされ、
最近の作品群と方法になって、その”立ち居場所”が”ビジネス婚”の夫によって
守られ、今も堅持している。
7)この「凄さ」は凄い!
先シーズンの作られている作品を見る限り、
一つの見方は”リアリティ”がなくなり始めた、という視点である。
このデザイナーが持ち得た”リアリティ”と実際の作品との関係性が希薄になって来たからだ。
この根拠はやはり、
彼女の最近の「特異性」にもファッショントレンドが重なり始めているからであり、
その「創造のための発想」の拠り所が”机上”からのものが多くなってきていると
感じられるからである。
以前のこのブランドの「凄さ」とは「リアリティ」に所在していた。
時代に対してのリアリティと着る女性が感じたいリアリティとしての
「ファッションリアリティある。」
”売れるクリエーション」とは、この"ファッション・リアリティ"を創造することである。
あるいは、「リアリティを感じさせる」までのフェミニズムを軸にした「特異性」であり、
それがなくなってしまったという見え方である。
8)ヨオロッパの多くのファッション・スクールで審査員をやらせて頂いて来た、
僕の「差異」としての強かな経験から、
僕には川久保玲の現在のような「特異性」を求めるだけのコレクションのクオリティが
劣化するとその見え方は「スクール・コレクション」の域になってしまう。
ここ2シーズンの彼女の「特異性」は残念ながらこのように見えてしまった。
彼女の”実生活”からどのような時代観やそれに対する「カウンター」を持ち得ているのか?
が見えないし、感じられない。
しかし、僕がこのブランドのコレクションを'85年来の長い間見せていただいている限り
では、川久保玲というデザイナーは以前からこのような”自身のボキャブラリィー”での
「カウンター・カルチャー」は持っていなかったのが現実だった。
寧ろ、周りのメディアによって意味付けされてきたものを良い処取りする手法を使ってきた。
9) 例えば、「寡黙なデザイナー」で代表しているなりすましがこれを物語っている。
多くのデザイナーたちがメディアに映り出されることが大好きで、喋らなくてもいい事を
喋ってしまう現実からの距離感を持つこと。
それがこのブランドの「特異性」を持続させる一つの、手法でしかなく、
ここには彼女自身のボキャブラリーによる発言は存在していない。
ここで、「彼女の作品が全てを語っています。」方式のプレス対応が可能で有効打であった。
彼女がメディアへ語ることは、”時代の優柔不断さ”や自身の立ち居場所における不満足な
状況を、「PUNK」という若者世代が使い古した言葉で嘆く、繰り返し程度でしかない。
しかしながら、今の若い世代のコレクションに共通する不足分も、彼ら世代が現実の社会や時代性にどのような、どれだけの「対抗意識と感覚」を持っているのだろうか?
ということである。
彼ら世代からも使い回され、もう古くなったかつての「カウンター・カルチャー」から、
自身のボキャブラリィーによる「カウンター」を感じることが少ない。
10)この現実ではやはり、現存、活躍するデザイナーでは
やはり、CdGの川久保玲の仕事は異色であり、狙いの「特異性」を大いに感じさせられる
までの「自我」でありそれが、殆どのオーディエンスがショー後の嘆きにも感じられる
「凄いですね。」が全てとなる。どの様に、なぜ「凄い」のかは不明のまま。
そして、この「凄い!」は結局は彼女の「特異性」への”頑張り”に至ってしまう。
今、この彼女の「特異性」に何の意味があるのだろうか?
そして、この彼女の”ガンバリ”とは極論、自分のため、自分たちのための
そして、このデザイナーを崇拝する人たちへの「頑張り」でしかない。
だが、ここにこのデザイナー個人の「極・風土」としての”育ちとその時代観”を
感じてしまうのは僕だけであろうか?
当然、日本人がこの街で、この世界でこの”立ち居場所”を堅持し続けるには
彼女が為すこと、全てが至難なことである。
大変な「リスクとコスト」を払わなければならない。
従って、ここで現在のこの計算し尽くされた”企業形態と構造とその構成”が
大いに世界の「ファッション・シンジケート」においては役立っていることも確かである。
11)現在、現実として、若いデザイナーたちが見習うべきこととは、
このCdGというファッション企業のビジネス形態とその構成と
それから生まれる「関係性」そのものを必須すべきであろう。
しかし未だに、このCdGの表層に影響された「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を
患って、遅れてきた若者たちの「自己満足世代」がこのパリを訪れてくる。
12)僕はこの2シーズンのコレクションでは同じように、
ある種の「コムデギャルソン・チルドレン症候群」を患っているはずの”UNDER COVER”の高橋盾、彼のこの2シーズンのコレクションに大いなる拍手を送り、軍配をあげたい。
特に、先シーズンは見事にあるレベルを超えてしまった、
彼のポジティフな「凄さ」と「リアリティ」を体感した。
彼はやはり、”オタク世代”のデザイナーであり、それが彼の「差異」になっている。
デザイナーのジョニオくんが持ち得た若い頃からの”リアリティ”がうまくコンバインされ、
ブリコラージュされ始めたことが一つの素晴らしさを生み出す大きな要因になっている。
これがCdGの川久保先生の現在と、違うところであろう。
僕のその根拠は、彼自身に大好きなものへの「癖」と「嗜好」が”未だに青春”し、
詰まっているからだ。
見せていただき、感動と幸せ感がいっぱいだった。ありがとう、ジョニオくん!!
13)そして、先の6月のシーズンのCdG・H.P.のコレクションに現れた、
童話「裸の王様」です、いや、参りましたね。
このロジックがここに現れたかというまでの見事さ、新鮮さと可愛らしさ、ある種の
”マジック”。
今シーズンのこのブランドのアイディアは以前、'96年頃だったかと思うのですが、
A.P.C.のジャンが既に、行ったシリーズ。
ここで彼は既に、大胆に”塩ビ”を素材にブルーゾンなどを発表していた。
(その実物を僕は大好きな服の一つとしてコレクションしている。)
これの同じブランドの”オムコレクション”を見てしまうと、
このブランドの女性物と男性物は誰がいったいデザインしているのか?という、
また僕らしい、いやらしいく、穿った考えが横切ってしまう。
では、明日のショーでは、どのような世界で「特異性」を見せてくださるのだろうか?
パリ、ピクパス大通りにて、
初稿/ 平成28年9月30日。
文責/平川武治。