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"The LEPLI" ARCHIVE 99/ 『砂山健さんのことをたくさん想いだそう、 7月8日。』

文責/平川武治: 
初稿/2013年7月 9日:

 この文章を久し振りで乗る、”Paris-Zurich”間の車中で書いている。
僕はこの電車が好きだ、車窓からの風景が美しい。
田園風景をこよなく飽きもさせずに
時折、小さな可愛い街風情が過ぎ又、広大な田園が広がる。
四季、それぞれにそれらの田園にまた違った風景が現れる。
今は緑と枯れ草の調和がアブストラクトに美しいところへ
運河の水路がのどかさを漂わせている。
太った羊が群れを作って静かに干し草の周りを動いている。
その田園には広がった空が栄え雲が穏やかに遊んでいる。
これがフランスという国の農業国である証拠を
じゅっくりと美しく見せつけてくれる7時間程の旅。

 もう幾度もこの線を利用した。
今ではこの線は従来線になってしまって、
一般客は新しく早いTGVに乗らされてしまう。
丁度、日本で言えば快速を利用した
”青春18切符”旅行の心地である。
 もうすぐ、ル-コルビジュェのロンシャン教会の
白い、雲のような塔と上屋根が
それも殆ど一瞬にであるが見える。
これが見えると“LUCKY!!"。
見過ごしてしまうと
何か大切なものを落としてしまった時の気持ちになって、
そのままZurichまで行ってしまう。

 この教会へも小さな駅で途中下車して
長い坂道を上りその突然の、
目前に広がる見慣れない姿を見たい為に
幾度も通った。
完全にここには彼の世界が生き就いている、
躾けと知性が存在する
おおらかな空間世界である。

 今日書きたかったことは、
確か、故”砂山健”のご命日であるという事を
昨夜から思い出していたのだが、
今朝又、再び、巴里東駅でこの思いにおそわれるように
彼に恋しさを覚えたからだ。
 「そうだ、砂山さんの事をいっぱい想いだそう。」

 彼が自ら選んだ選択肢からもう20数年が経った。
その日の1日の時間という流れが
どのように流れたのかを今でも良く覚えている。
 朝に始まる1日はこの日も変わらず始まった。
そして、1本の電話。
そこからその日があのように悲しい特別の日になり始めてしまった。

 今という時勢に成ると彼、故”砂山健”を知る人も少なくなったであろう。
お元気でいらっしゃれば僕よりも10歳ほど年長であったから
もうかれこれ、80歳近い。

 僕にとっては“師”であり続けた人だった。
彼の耽美主義的でありながら、
アイロニカルな審美眼と
その言葉の選び方の小粋さと巧さに
僕は憧れ、彼から多くを学ぼうと
幾度か尋ねたことがあったのを思い出す。
一時、彼の文を幾度も読んでその文章を手本に試みた。

 当時、僕が編集し、発行していた「Bric -Collerge」にも
毎号、彼に執筆していただいていた。

 とっても、お洒落な人だった。
お洒落に煩かった。
所謂、戦後の”モダンボーイ”であり、
その若きの時は“美少年”でいらした。
 僕が彼と出会ったのは確か、
’69年か’70年の始まりだったであろう。
彼が熱心に、その当時の『週刊平凡パンチ』誌で
所謂、元祖”街頭スナップ”を仕事として
大阪へ居らした時であろう。

 当時はメンズファッションがどっと、巴里から堰押すように
僕たちの街へ大きなうねりを持って流れ出した、
その堰を切ったのが高田賢三さんの巴里での存在と
あのYSLであった頃、
当時のお洒落な若者たちは
”VAN”のアメリカンIVYの流れに乗るか、
やっと情報が流れてき始めた、
巴里を中心にした”ヨーロピアンエレガンス”の流れに乗るかの
選択そのものが”お洒落”を意味した時代だった。
 これは東京以外では未だ、”EDWARD"を着ていた人は少なく、
その殆どがアイビー族“VAN"の時代であり
少し、“JUN"が流行っていたころの話しだ。

 僕が覚えている当時の砂山健さんは
YSLの最新のサファリジャケットにロングブーツ。
大阪と言う地方者の僕は
こんなカッコいいお洒落を東京の人は
もう、やっているんだという印象だった。
 それ以後、彼は殆どを男性ファッション誌の編集者として
関わる人生を送られた。
あの『NOW』誌の創刊にも関わりその後、
『Men's Hi-Fashion』の立ち上げを始め
多くのメンズファッション誌のファッションエディターとして
また、『銀河』誌にも関わり
その後、流行通信社が『X-MEN』という
今でも、決して見劣りのしない新しいタイプの
メンズ誌の編集長を任されて3年間、
猛スピードでこの初めての編集長と言う立場を
愉しく、カッコ良く猛烈なエネルギィイで駆け抜けた人だった。

 当時、彼のアシスタントをしていた2人は
今はもう、メンズ誌編集者としては
それぞれがそれぞれの道を立派に歩んでいらっしゃる。
僕は彼が当時のファッション業界誌の一つ『ファッションヴィレッジ』誌に
彼がデビューし当時の”Y'S”と”CdG”の東京でのショーを
論じている文章が好きで
今も残してある。
その当時の彼の、”Y'S”と”CdG”への眼差しは的を得た
今へ通じる論評であった。

 早い時期からの同性愛者であった。
今でこそ、このファッションの世界では
“ゲイ”が堂々とした市民権を持ち得て
それが在る意味、大きなステータスにまでなってしまっているが、
彼が編集長として最後に関わった『x-men』誌当時の
’80年代初めでも未だ、この業界でさえ偏見が強く、
その詰まらない、まったくの狭軌な資質の人間性の
眼差しが世間一般の同性愛者へのそれであった。
 
 その結果が、彼が一つの世界観を出していた
『X-MEN』誌の編集長を辞させられる大きな原因に迄に
追い込まれてしまったのだ。
 ポジティフで教養もエロスも存在したメンズ雑誌だった。
これは当時のメンズ雑誌にしては革命であった。
世間では、今でもその大半がそうであるように、
『女に持てる為のお洒落』誌がカッコを付けていた全盛期だった。
 
 例えば、巴里の”ピエール&ジル”たちを
日本で最初に取り上げたのも彼であった。
敢えて、”白人モデル”という時代にあって、
東南アジアへ出掛けて当地のカワイイ少年をキャスティングした
フォトページも彼が最初。
「GOLD」や「PARADISE」という特集を組、
兎に角、編集長自らがスタイリング迄に
口を出して自分でやってしまっていたほど、
この当時にしては画期的な愉しく巧い
スタイリングコーディネートだったことを覚えている。

 今では、若い頃にスーツを着たことの無いスタイリストが
流行だからと突然に、ブランドものスーツを
安くしてもらって着込んでスタイリングしているような
おちゃらけな世界ではなかった。
そんな連中も今ではそろそろ禿げ掛かって来たから
余計に面白いギャグにもならない漫画世界が今も続いている。
故”砂山健”が生きていたらどう嫌みを言うだろうか?
と、時折考える事もある。

 流行通信社が当時、新たに市ヶ谷に新社屋を建てた。
その空間を利用して、彼は『X-MEN』誌のパーティを
ディレクションし開催した。
題して、その名も『PINK-PARTY』。
大勢のPINKを着た男たちが東京中から集まった。
いい女たちも集まった。
愉しく艶っぽいパーティだったことを今でも良く覚えている。
 その後、僕がPINKを着るようになった動機はここからである。
今でこそ、CdG.H.P.が当たり前のようにピンクを使っているが
その当時のCdG.HommeはVANの裏返しか、継ぎ接ぎでしかなかった。

 金子国義氏や高橋睦郎氏たちも集まった。
懐かしさがその想い出を余計に大きく膨らませる。
金子国義氏がカバーの絵を1年ほど手掛けていた。
贅沢なイメージングだった。
’80年代を艶やかなファッションシーンとして描いた
アントニオ ロペスやペーター佐藤氏も登場した。
僕が当時は未だ、アパレルに居た時代だったので、
僕の職場に立ち寄ってくださっては愉しい、
面白いお話を残して帰られていた。
中でも、ヴィスコンティ映画を共に、
よく語った事が印象深い。

 その朝、文化出版局の美濃田編集長から電話が入った。
『健ちゃんに連絡を取りたいのだけど繋がらないの、あなた知ってる?』
そして、その日の午後再び、文化出版局から、秋元さんから電話が入った。
『砂山さまがお亡くなりになられたそうです。』

 当時、『x-men』誌を辞められてから
故郷の鶴岡市で一人住まいのお母様を危惧為さって
東京を離れられた砂山健さんの電話の取り次ぎを
僕の青山の事務所のようなところでさせて頂いていた。
まめにご連絡を下さっていた彼からの連絡が
暫く無い事に気を病んでいたので
僕もそれ迄も幾度かの電話とfaxをしていたのだが、
 
 その後、お母様からの悲報を受け取った。

 その春、3ヶ月ほど前の、
"TAKEO KIKUCHI"コレクションが西麻布であり、
ご一緒したのが彼に会った最後となった。
 横断歩道を歩きながらショーについての
幾回か交わした会話が最後だった。
今でもその内容を覚えている、不思議なものである。

 彼は”青色”がお好きだった。
彼の鶴岡に残されてしまったあの“青い部屋”は
今も僕の記憶に彼の声高々な笑顔と共に
鮮明に残っている。
 
 3度ほど墓参をした。
久しく訪れていないので帰国したら鶴岡へ行こう。
月山へも足を伸ばそう。
 その後、残された、お母様の事が気に掛かるが、

 『どうか、健さん、おおらかにおやすみください。
きっと、そちらでも可愛い子たちに囲まれているのでしょうね。
ご冥福をお祈りいたします。』

文責/平川武治:ZURICH市にて、。 
初稿/2013年7月 9日。

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