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C-KDI-8/桑沢全体講義デジュメ 2016年版; 「デザインに必要な眼差しとデザインの現代とは、」

文責/平川武治: 
初稿/2016年版:

今日のインデックス;
はじめに;
1)大まかなデザイン史として、; 
2)なぜ、こんな話から始めるのか?;
3)改めて、「デザインすることはどんなことだろうか?」;
4)終わりに; 
5)付録;参考サイト/

 はじめに; 2月の終わりからパリへ出掛け、友人が居るチューリッヒを訪れた。 今年で、”ZURICH DADA"が100年を迎え、この街の近代美術館で行われていた”DADA GLOBE" 展を見るためだった。 T.ツァアラやM.エルンスト、P.スゥポーたちの出会いと彼らたちが発刊したDADAの機関誌”DADA GLOBE"の展示だった。 アートにおけるDADA運動はこのチューリッヒから生まれ、その後、N.Y.と巴里へ飛び火した運動である。従って、来年は"PARIS DADA" の100年記念であり、ポンピドゥ-美術館でも久しぶりに、大々的な展覧会が行われる予定である。

 1)大まかなデザイン史として、; 
 『近代デザインは、わたしたちの生活環境、社会環境を変革することを主題に抱えてきた。そして、現在、近代デザインは社会を成立させている前提が崩壊しつつある状態を共有している。 したがって、デザインによって社会環境を変革するという提案はしにくくなってきている。変革すべ き社会そのものが、近代的な意味での社会の姿をもたなくなってきているからである。』
 想い出すに、僕が評論を始めた'84年頃から数年は”空間・デザイン”と” ファッション・デザイン”を論じる対象として評論し始めた。この時の僕のコンセプトは「人間の身空間のための被服と被覆」であった。このコンセプトはヴィエナの建築家、A.ローズの一つの評論「被服と被覆論」から影響を受けた。 彼は’11年に評論「装飾と罪悪」を書きこの一文によってその後、それまでの装飾過剰が全盛を風靡していたアールヌーボー様式が終焉を迎えるまでになり、アールデコ様式がヴィエナのセセッション運動とともに'16年の"ZURICH DADA"と翌年からの"PARIS DADA","N.Y. DADA"そして、ドイツでは’19年からの”バウハウス”の開校によって、当時の新たな装飾様式へと即ち、”デザインの領域”へ進展した。 
A.ロースは建築家でありながら、この街に多くのカフェや当時のブティックをデザインし、その幾つかは今も残っているので、僕はヴィエナが好きでよく通って彼の匂いを捜し歩いた。また、 2000年にはこの街の工科芸術大学のモード科の卒コレの審査員を2回程させて頂いた。この二つの装飾様式が誕生した直接要因は、あの産業革命に在ったことは言うまでもない。当時の機械発明と水力から電力の動力進化によって、機械生産による「複製」が出来ることそのものが新しかった時代に登場したアート・カテゴリィーであった。そして、これらの「複製品」は当時、誕生した帝国主義社会構造に於ける”ブルジョアジィー(新興市民階級者)”がターゲットになった。 この時代の”アールヌボー”と”アールデコ”の関係性によって近代デザインの有名な一つのデザインコンセプトが既に準備され、後のモダンデザインの根幹へと受け継がれる。それがミース. V.D.ローエの "Less is more" (少ないほど、豊かである)とR.ヴェンチェリィーの "Less is bore" (少ないほど、退屈である)へ至るのである。ここにもう一つ、20世紀の入り口で登場したあのW.ベンジャミンの評論文「複製化社会」はこれらの時代の社会状況を知的に深く、よく読み込んだメモリアルレヴューの一つである新しい時代としての”インペリアリズム”と”ブルジョアジィー”が第1次世界大戦を起こしたことによって、結果「近代デザイン」を誕生させる時代背景にもなった。ここで軍需産業によって開発された素材や機器が、生活空間へデザインされて落とし込まれるという20世紀的な流れが生まれた。 ここでのデザインとはのコンテンツは『機械+動力+素材+思想=生活環境とその機能性を産む』である。

2)なぜ、こんな話から始めるのか?;
  一つは、皆さんが何らかの”デザイン”を学んでいる人たちだからです。 僕の経験から暴論を発すれば、”アート・コンプレックス症候群”が従来のデザイン専門学校においても、幅を利かせて「デザインよりもアート」にプライオリティを置く傾向が、教えている先生たちにまず大いにあったということです。極論を言ってしまえば、「アート」とは自己満足と自己責任の世界。それをどれだけ上手く時代性に合わせて表現するセンスとレベルと技を持っているか? の世界でしかありません。デザインの世界はもっと、社会的で現実的です。この現実とは「時代」「社会」そして、「生活」と関わらなくては生み出せない世界です。すなわち、「それらとどのようにコミット」した生活者になるか、その生活者が生み出すことが出来るのが”デザイン”の世界です。この根幹を自信にしたところで初めて”いいデザイン”が生まれます。特に現在のような”豊かさ”が当たり前になった時代性と社会の”リアリティ”ではこの根幹が必須でしょう。みなさんの親の時代では未だ、この”リアリティ”を”夢”として思い込み頑張ればそれなりの”素晴らしい仕事”=”外国に近づけられる”の時代性だったのです。ですから、デザインの歴史を知ること即ち、アートから出発したデザインの歴史背景も大事なデザインを学ぶことへの”スキル”です。”スキル”がコンセプトを生み出します。この場合のスキルとは、過去の時代における『機械+動力+素材+思想=生活環境とその機能性を産む』を学び、現代という時代性においての『機械+動力+素材+思想=生活環境とその機能性を産む』のリアリティを考え、過去との”差異”を見つけ出し読み込み、リ・コンセプトする修練でしょう。
  例えば、21世紀の現代では、PC/ITの登場により、ヴァーチャル・リアリティの誕生とすべての情報がサテライトによって全地球規模でコントロールされるようになり、”あり得るべき距離の消滅”が始まり、「原子力や風力による新たな動力源の発展、グローヴァリズム、共存共有共生社会、脱開発、脱成長、環境自然資本主義、サスティナブル、ネイション・アイデンティティの一端としての” クール・ジャパン”、A.I.の現実化、そして、LGBTQジェンダーからポリアモリーまで、」現在の資本主義社会の継続を前提に考えられる人間の欲望が成せる可能性へ、前世紀には発想しなかっ た価値観までも登場し、人間の究極の最終欲望である3つへ、「もう一つの新世界」「もう一つの地球」そして、「もう一つの人間」が今世紀の人類の存続を賭けた、あたらな”利権ミッション”です。 ここに、新らしいデザインの可能性と役割を求めるスキルと眼差しが存在し、それを基にオリジナルなコンセプトが展開されるでしょう。

 二つ目は、デザインはアートから生まれ落ちた社会にコミットした共同体構造であるということ。 ”デザインする”とはあるべき”差異”を社会にコミットさせるためになされるべきことであり、具体的 には、『「機能」ある「モノ」を「自分文化」で「装飾」あるいは、「進化」させ、「社会にコミット」すること。』です。 ここでの「自分文化」とは、自分が持ち得た”リアリティ”から汲み出す文化力であり、”美意識”ある”感覚と感度”です。この
”感覚と感度”を尺度とした自己の勘と眼差しによって、”デザインとアー ト”の距離感を自分流にどれだけ認知するか?その距離感でデザインをするか、ここにある種の「個性」という自分なりの”オリジナリティ”が生まれる根幹でしょう。だから、「デザインはアートではなく、社会にコミットされた実業の世界です。」 実業の世界のデザインの価値とは時代が変わってもやはり、そのデザインされたモノの「早さ」 と「クール/カッコイイ!」は普遍である。これらの言葉の根幹には「時間差的価値」であり「距離」が「差異」が存在します。この「差異」への「文化力」がデザイン力のクオリティを生み出すのです。 そのために、興味ある展覧会や映画やフェスを探してゆくことの機会は日常の中に生まれる”好奇心”であり、この好奇心を疎かにしてはもったいないです。 しかし、最近の時代性になると「早い」が少し、恥ずかしさを感じ、もしかしたら、「みんなと同じ」でイイというスローな時代感が生まれてきています。そうすると「カッコイイ!」も「自分と同じ!」であればいい!が安心できるというベクトルへ変化し、現在のような”保守化の進展”の飽食期状態に至り始めているでしょう。これが、「時代が変わる」ということの”リアリティ”であり、これらを 自分の日常の中の「文化力」からどれだけ感じ、そして”好奇心”ある眼差しへ変換可能であるか?が同時代性を生み、共感につながるのでしょう。
 予測としての、これから現れてくる時代の表層はかつて、反均質化つまり、”差異”による多様性を提案した80年代のポストモダン ・デザイン、その代表的なる”メンフィス・ムーメント”は、当時の新しい感覚とテクノロジーによっ て、伝統ある木工家具メーカーが支えられたムーブメントでした。これを手本として、現代の新しいテクノロジーによって”模倣”する時代性が新しさを生むでしょう。 元々、ポスト・モダンとはモダンニズムをブリコラージュしたものでしかなかったからです。
 『資本のシステムは、自己を拡張しようと運動し続けるところにもうひとつの特徴をもっている。 そのために商品の差異を人工的に生み出すという作業をしてきた。資本主義的市場で「新しいもの」が価値をもつのは、それが現在存在しているものとの差異をつくるからである。したがって、 資本主義的な市場経済の原理によるわたしたちの社会では、あらゆる商品は「新しさ」を価値とする。商品を常に更新し続けることによって、古くなった過去を差異化し、利潤を得る。この市場における新しさをめぐる永久運動は技術的なエヴォリューションやイノヴェーションを促進する 一方で、商品に対する価値をはるかに超えて文化的な価値と結びつく。』 戦後の日本で成長した”文化力”とはこのような消費文化力です。

 三つ目として忘れてはいけないもう一つに、 ファッションやモノや空間をデザインする事のもう一つの根幹には、”コミュニケーション”がありま す。 伝えたい「同時代性」や「自分文化」それに「美意識」などと、自分と同じ、”カッコイイ”と思うモノを共有する事の嬉しさと幸せ感や安心感をモノを通じて伝達し、共有できるところにあります。ここでは、デザインされたモノを通じて見知らぬ他者との関係性の広がり即ち、”コミュニケーション”もモノが持っている機能の根幹の一つです。 そこで、「実業+”コミュニケーション”=マーケティングリサーチあるいは、 マーチャンダイジング」 という広がりも大切になってきます。この場合、「自分文化」をどの様な人たちと”コミュニケーショ ン”を取りたいか?取れるか?という広がりが実業を支える根幹になるからです。 多分、皆さんの世代は「自己確認」が大事な世代でしょう。 豊かさの広がりの中から、自分を確認出来るモノや人やコミュニティやメディアを探すのがとても大好きで大事な「自己確認世代」だと感じています。したがって、自分と同じような人たちとの”コミュニケーション”はとても上手くなってきましたが、違う人たちとは”デス・コミュニケーション”が激しい世代でもあるでしょう。 少し以前までは、日常生活に豊かさが十分に潤っていなかった世代に生まれ育った人たち、例えば”ブルータス世代に生まれ育った人たちは”差異”としての距離感を強くコンプレックスとして意識していましたから、その分「自己顕示」が強く、この自己顕示欲が創造性の一つの大きなエネルギィイになっていました。しかし、皆さんの世代は自己顕示よりも、「自己確認」のために創造性が喚起される、ここにも「時代の変化」が読み取れます。

 PCが生活什器となった現代は、情報力としてのその情報容量の多様性とヴァーチャルリアリティの世界が当たり前のように進化し,多くのSNSを使ってより、早く、広く、簡単に、自分を探せる時代性が今です。 例えば、最近のメディアを騒がす新たなボキャブラリィーとしての言葉に「勇気ある少数派」があります。 この言葉はPC情報社会が生み出した現実であり、従来の”少数派”に対して新たな価値観を持たせることが可能になった社会の”リアリティ”であり、一つの時代性です。ブログやSNSに書き込まれる小さなリアリティが共感と賛同によってコミュニティを構成するまでの現実性が現代の新しさの一つでもあるでしょう。この「勇気ある少数派」は何も今騒がれている"LGBTQ"の世界だけではなく、日常の価値観や倫理観そして、政治や言論の世界もそうですし無論、モノ造りやデザインの世界でもこの「勇気ある少数派」の新たな立ち居場所が明確になってきています。自分の作ったものをネットやインスタに上げることによって「勇気ある少数派」のライセンスを手にし、そのネット上で世界中へビジネスが可能になるという現実。ここにも、「勇気ある少数派」たちのコミュニケーションが現実に広がり、ここには「モノのデザイン」から「コトのデザイン」の時代性が読み取れ、個人が持ち得た「文化力」が大事になっています。蛇足ですが、面白い現象の一つに、今ウケているNetflixの海外ドラマのコンテンツは "LGBTQ"が従来の倫理観と対比されミックスされているものがほとんどです。(Ex.グレース&フランキーやMy Lifeなど、)その結果、”ポリアモリー”を肯定するような新たな価値観もより、大衆化するでしょう。この影響は今後、白人社会のキリスト教が生みつけた倫理観を揺らし、新たな時代へ向けてのより、広い「勇気ある少数派」たちをも含めたところでの人間性を根幹とした倫理観が生まれれば、ハッピィーな世界になるのでしょうか? 
しかしながら戦後日本社会においては”宗教喪失”という事実がありこの弊害が戦後70年を経過して堰を切ったかのように現代社会の諸事件や問題化してしまっている事実を考えると、日本では「勇気ある少数派」は単なる消費社会へ落とし込むだけの”新しい餌”でしかなく、ただ表層の上滑り現象となってしまう危惧もあります。 救いと考えたい「コトのアヴァンギャルド」の一つとして、物質面での”豊かさ”社会に生まれ育った世代たち(Z世代)がこの”表層の豊かさ”に対して”アンチ”を持ち、彼らなりの今の時代のリアリティによって「カウンターカルチャーを再び!!」世代が静かに成長し増加している現実です。サンフランシスコの高台には’60年台に創立された”エサレンInc.が未だに賑わっています。 彼らたちは自分たちの「自己肯定」をそのままライフスタイルとして「勇気ある少数派」へPC を使って呼びかけ、企業意識を持って社会にコミットする手法(NPO)も持ち合わせている世代でもあります。ここには僕たちが持ち得た”東洋思想”や仏教の倫理観が、ヨガやマインドフルネスそ して、バイオロジカルな食生活などというそれらが、”ヒッピィー文化”発祥のコンテンツとともに彼らたちの生き方「新たなライフスタイル゙」への憧憬となりここで、戦後初めて”白人文化”を救うことが可能にもなり、彼らたちとの”共生共有”が可能なかつての、ヒッピィたちのカウンター文化 のブリコラージュ化が始まるのも今後の新しい社会を生み出す”文化力”の一つになるでしょう。彼ら、かつてのヒッピーたちが望み目指した価値観や愛に関してや、ライフスタイルは確実に、「勇気ある少数派」だったからです。 
 この”対抗文化”のブリコラージュの面白さはNetFlixのドラマ、”グレース&フランキー”でそのコンテンツを愉しく見ることができます。

 最後は、皆さんが”フレッシュ”であるからです。 僕がデザイン学校の皆さんにお話しする機会をこのようにいただいたときにやはり、早い時期にまだ「デザインって?」という”初心”な時期にデザインとはの根幹を知ってもらいたいのです。そして、デザイン学校で学ぶということは、何を学べばいいのか?「モノの表層」のバリエーションを模倣造形することではなく時代とともに移り変わる「表層」の移ろいを見よう見まねで造形してもそれは
”デザインすることではない”ということ。”デザインすること”の根幹とは?即ち、実業である事を見極めることから入り、出来ればたくさんの人たちに見られ、使われ着られることの”リアリティ”ある快感を追い求めなければその愉しみや深みや広がりが持てないまた、デザインの世界の本当の醍醐味が味わえないで、退屈な作業だけに終わってしまうかもわかりません。この多くの不特定多数の人たちに関わるためのデザイン、これがデザインすることが社会にコミットするという現実になります。

3)改めて、「デザインすることはどんなことだろうか?」;
 ちょうど、80年代が終わり始める頃に、友人の紹介でミラノで 出会ったのが、佐藤和子さんでした。当時、彼女は既に、ミラノで発行されていたデザイン雑誌、” domus”の編集とそのアカデミィーの教壇に立っていらっしゃった。僕が倉俣史郎さんと知り合いで懇意にして戴いていたので、たくさんの話を伺うことができました。その佐藤さんの著書の言葉にこのようなデザインに対する的確な一文があり、僕は好きな言葉です。
  『人生の楽しさを創造すること、それがデザインだ。 だから、人々は自分の身の回りの生活空間や日常品を、楽しく美しいモノにして、ファンタジーとユーモアのある人生をつくりあげようとする。たぶん、ある種の豊かさを享受した人々は美しさや楽しさを追い求めることが自分の人生の証であると考えているからなのだろう。 また、現代におけるデザインとは、人それぞれに異なった人生があるように、どんなモノにもいろいろな物語があるものだと考える。だから、デザイナーは製品をデザインする場合、まず素材や技術や、そのモノの伝統など、さまざまな物語に耳を傾け、それらの物語の中から新しい要素を発見しようとする。そして、その新しい発見は、人間とモノとの暖かい友情の中から、時として偶発的に生まれてくる。 例えば、イタリアン・デザインは、常に工業と職人工芸が共存して発展してきた。 イタリアを代表するインダストリアル・デザインも然り、ファッション・デザインも然りである。これは イタリアのデザインが、住空間を中心とした家具インテリアと日用品そして、ファッションが、大きな比重を占めていることと無関係ではない。イタリアの建築家が、建物を設計しながら、室内の家具や照明器具などをデザインしてきた背景には、このように人間に関わりあうスペース全体を考えていくという、ごく自然な考え方がある。 そして、未来の人間の生き方に関わる建築やデザインは、常に激動する歴史の先端を走りながら、政治や社会に揉まれて生き抜いてきた。』
 (参考文献/ 「イタリア・デザイン」佐藤和子著:’95 年刊) 
特に、冒頭の「人生の楽しさを創造すること、それがデザインだ。」は、まさに現代のような時代性になると、「デザインとはどんなことだろうか?」の回答であり、これが現在の日本のデザイン産業界の根幹の時代になりました。 豊かさを享受した皆さん世代にとってのモノの機能とは、”人生を自分らしく楽しむこと”でありまた、デザイン・コンセプトでもあるのでしょう。自分たちのライフスタイルそのものをデザインするという”リアリティ”な時代性ですね。どのようなモノたちと生活し、あるいはどんな服を着れば、より、自分らしい日常性を安心して、自分らしく刺激的に、 好奇心豊かにハッピーに生活できるか?

4)終わりに; 
 この今という若い時代に「自分の文化力を自分らしく好奇心豊かに、自由な発想で自分の 中に栽培すること。 例えば、旅をたくさんする。自然と接する。他人の中に入る。好きなものを見つけ出す。恋をする。展覧会や映画に行くなどなど、」これらには多くのいろいろな「勇気」と「覚悟」が必要です。また、勇気と覚悟があればより、自分が自分らしく、より豊かになります。”壁紙デザイナー”に成らないためにも、「自分の文化力」が作品の面白さと深みを即ち、”格”を 生み出しますね。
”ありがとう。!!” 

 5)付録;参考サイト/
 自我の世紀ー1/ https://drive.google.com/file/d/0B21wVVRz_C4lMTI2MmQ0OGYtMDMyNC00ZjgwLWI3M2Mt MjU0NGY1NTU2MjZh/view?hl=ja&pref=2&pli= 
 自我の世紀ー2/ https://drive.google.com/file/d/0B66B4KNjydpDZWNhNWM0NDEtZDhkOC00OTAzLWE4OW ItODcxMzQ5ZTFjMzRm/view?pref=2&pli=1
 自我の世紀ー3/ https://drive.google.com/file/d/0B4k1cmPgvcXpNDI0MTU4MDAtMzM1MC00MTM0LWIxNjgt MTBlN2Q0YWM3NjIz/view?hl=en_US&pref=2&pli=1
 完全版(ENGLISH)
https://www.youtube.com/watch?v=eJ3RzGoQC4s
 THE FUTURE IS NOW/
https://fr.pinterest.com/jaynilovechild/the-future-is-now-by-lovechild-boudoir/
 人工頭脳学会/
https://www.ai-gakkai.or.jp/whatsai/
 アメリカのユダヤ人起業家たち/
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc200.html#01
 2016年とは/
http://www.huffingtonpost.jp/seaskywind/big-change_b_8914266.html
 ポリアモリィー/
http://wotopi.jp/archives/25144
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポリアモリー
 お金の考え方/
https://happylifestyle.com/2295.pdf
 THE FASHION POSITIVE/
https://www.indiegogo.com/projects/fashion-positive--2#/
 ソファー/
http://spotlight-media.jp/article/100524588565160654?flow=total
Freyja Sewell
 携帯ヒーター/ http://thebridge.jp/2016/03/torch?utm_source=THE+BRIDGE+All+Member+List&utm_campa ign=326fee9075-Daily_Mail5_22_2015&utm_medium=email&utm_term=0_eeca0d9f50-326f ee9075-295875237
 自転車用ポンチョ/ 
http://thebridge.jp/2016/01/never-get-wet-while-biking-using-boncho?utm_source=THE+BRDGE+All+Member+List&utm_campaign=2495de4a08Daily_Mail5_22_2015&utm_medium=email&utm_term=0_eeca0d9f50-2495de4a08-295875237
 BRESS/
http://www.bless-service.de/BLESS_new/News.html
文責/平川武治:
初稿/2016年

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