C-KDI-9/桑沢全体講義デジュメ 2019年版;『意識し始めてください、「近代」の次なる時代を!』ー人間はなんのために存在すればいいのか?その役割とは? その一。
文責;平川武治;モード評論:
初稿:2019年5月:
◯プロローグ;
「モノが有り余る。
モノへの欲求度が減速した。
モノを売るという行為が変革した。
モノを売るための方法が進化した。
モノを売るのではなく”満足感”や達成感“を売る。
あるいは、”気分/Super Cool”を売る。
モノに付加する新しさとは“ヴァーチャル&クオリティ+文化度”=「LUXURY / 贅沢度」という美意識。
あるいは、サステナブルという“進化”であり、
服が持つ”機能”の新しさである。
次なる時間では、「ファッションの世界」が提案するべきことは
ファッションとはもう「衣料+装飾品」の世界だけではない。
現在のコンビニアンス消費におけるファッション消費とは、
日常化した”ユニフォーム&コモドア消費“でしかない。
ファッション人が与えるべきは、
『人生を愉しみ、喜ぶための環境と感情」の贅沢創造であり、
これからの”贅沢“という当たり前さである。
“Luxury Basic”あるいは、”Luxury Standards”をミッションとしよう。
あるいは、”Minimum Luxury"。
そして、そんな贅沢を欲求する“社会創造”である。
すなわち、「次なる、近代」の創造へ。
決して、「過剰という古さ」ではない。
では、「贅沢」とはどの様な行為が生み出すものなのか?
そして、”贅沢“とはどんなモノなのか?
”贅沢”とは何なのか?
豊かさの中で生まれ育ったあなたたち世代が感じる”贅沢”とは?
いろんな人に聞いてみよう、
“What’s means the your luxury?”』
◯考えてみたい幾つかのキーワードの解説;
*今年は「バウハウス創設100年」記念の年。
そんな「近代」が100年を迎えた証拠の一つに
「ドイツ・バウハウス校開設100年」という時代が今年です。
このバウハウスから初めて”カテゴリィー・デザイン”が誕生したのです。
それまではアートの領域であった意匠の世界が
当時の生まれたばかりの機械文明と結びつき「デザイン」という
新たな領域が創造され結果、市民生活者たちへ“豊かさ”を消費する社会を
もたらしたのです。
https://youtu.be/rg3X1vZN5TA
https://youtu.be/jGaOnSqN4gs
https://youtu.be/2uVWAS6Q6AY
http://www.bauhaus.ac/bauhaus100/
https://hataraku.vivivit.com/column/bauhaus_201810
*2016:ル・コルビジュェの17作品が世界遺産認定。
➡︎「近代」が世界遺産に。
*2016:チューリッヒ・ダダイズムの100年。
*2017:パリ・ダダの100年。
*2019:ロシア・アヴァンギャルドの100年。
最近のこれらのアニバーサルイヤーで感じることは、
➡︎「モダン・アート」が1世紀を超えた。
➡︎「近代」の終焉が進行中。あるいは、「近代は終焉」した。
➡︎では、「近代」とは?
“産業革命”(1760~1837~)によって、新たに誕生した近世に続く時代。
科学の発明と進化そして、植民地主義がもたらした新たな時代は
この“産業革命以後”、「個人」が誕生した。
そして、国政も制度も社会も生活もそして、「価値観」も変貌し
哲学が生まれ、美学も誕生、限られた自由も可能に。
➡︎「近代」の根幹とは?「構築~脱構築~再構築」というシステム循環。
ファッションでは、M.マルタン.マルジェラはわずか14年で
この”近代のシステムサイクル”を自分の美意識と世界観で展開し
ビジネス的にも成功した。
*新年号「令和」を深読みする。
➡︎「文化度」による国家間のコンペディションの時代へ、
“中国”という新たな存在を意識して、「漢語」から「やまとことば」を
選択、変わらぬ唯のアメリカの属国にならないためにも。
新たな年号である「令和」を私的に深読みをしてみよう。
発表まで多くの市井の人たちも巻き込んで新年号の予想がメディアを
賑わかせていた。が、結果は予想外の年号として、「令和」が発表された。
この予想外の根幹は従来のように、“漢語”からの選択ではなく皇室史上、初めて「万葉集」の“やまとことば”から選らばれたことである。
ここに全ての意が介されている選択の年号となったと読む。
「令和」とは一般的には、
「人々が和やかにこゝろ寄せ会う中に文化は花開く。」と意味であろう。
僕はここで、今回の「令和」は今後の国体としての日本が
アジアにおいて、政治的、経済的にもイニシアティブが取れないことを
認識した上での決断と読む。
今後、日本國は中国に追い越されたアメリカの属国でしかないという
読み。従って、もう中国の言葉に頼らず、
日本の“やまとことば”から選ぶという手法を選択したのだろう。
そして、今後日本が中国に勝る事とは、「日本の文化度」を意識し、
磨き、継続して行く事であるという新たなる結論と希望が
込められた決断であろうと深読みする。
もっと、うがった「漢語」読みをすれば、
「上から目線的な、好戦的」という意味合いも考えられるであろう。
が、今回の決定にはやはり、対中国からの完全独立化により、
「やまとことば」からの選択という深読みが良いであろう。
政治的、経済的な競争よりも、自由な精神と豊かさの元で育ててゆく、「文化度」で競い合ってゆける平和な文化資質を湛え備えた国家を望むと
感じる方がクールであろうし、美しいであろう。
国家も「文化度」をより豊穣させるという
自由な、新しいミッションを選択したと解釈しよう。
そう望みたい。
*「時代が変わる」とは?
➡︎「豊かさ」の変化である。
結論は、「生活の豊さ」が量から質へ“変化”する現実を読むことである。
時代が変わると言うこととは、やはり、生活環境において“豊かさ”が
新たな時代を生み出す事である。
人々は豊かさを求めて労働に勤しむ。
“時間的なゆとりとモノの豊かさから、教養の豊かさ“へ。
そして、“感覚の豊かさとクオリティの豊かさ”へ、
最後には豊かさと言う“価値の変革”までによって一つの「時代が変わる。」
ここでは“時間とモノの量から質へ”そして、“質からゆとりへ、”
そして、最終的には“豊かさの価値観”が変わる事だ。
従って、「豊かさの変化と変革」の現実を見届けていれば、
「新しさ」が読めるし、何を求めているかも予測が可能である。
これらは「モノ」だけの世界では無く、
そのモノが生み出す生活の「自由な時間と環境や状況」と
感覚までが持ち得た、”豊かさ”を充足と満足させてくれるまでが、
その時代の「新しさ」と呼ばれる結果となる。
*「デザインするということは?」ここでファッションを
デザインするとはを再考してみよう。
➡︎例えば、もう一度考えて見る価値がある「モノ」の進化として
考える「服」のデザイン世界とは?
ファッションにおける服も「モノ」である。
「モノ」は時代とその生活者ともに「進化」する。
では、「モノの進化」すなわち「服」の進化あるいは、
「服」の技術革新という視点もこれからの新しさには大事な視点になる。
前述のように、“時代が変わる”事とはそれぞれの時代に生活している
人間の豊かさから持ち得た「自由度」から生まれる
“ゆとり”あるいは、精神的な余裕性が社会を変革することに他ならない。
しかし、デザイン・ビジネス全般においては未だに、
モノの表層あるいは、見え方と機能のみに、十分に引っかっている。
”あらたな時代“が提示してくれる新たな”ゆとり”から生まれる
思想や価値観から掘り起こしそれらをデザインに落とし込むまでの
文化的プロセスが軽薄で単純であり、
為されるデザインによって生まれ変わるモノの”表層のニュアンス”
即ち、シーズン毎の“トレンド”と呼ばれている「壁紙」の張り替え作業の
繰り返しが市場化しているのに過ぎないのが
現実のファッションデザインの世界になってしまった。
もう一つに、「ファスト・ファッション」の登場によって、
リアル・ファッションとは単なる「アイテム・ファッション」になり下がりより、分かりやすい着やすいアイテム・コーディネート・ファッションが
時代の顔になってしまったことも原因であろう。
「モノ」の進化として考えられていた時代の「服」には”着まわし“の
センスと楽しみで着こなせる服が主役であり、
この生活感がモードそのものまでも、”進化“させていた。
が、ファスト・ファッションによって誰でもがより解り易い日常服が
市場とSNSとメディアを占領し始め、
従来の”おしゃれ“な感覚としての”着まわし“で着こなす服が
グローヴァリズム以降、世界のモードからは殆ど姿を消してしまった。
しかし、今だに「モノ」の進化として考えられた「服」は
その時代の”ヒットアイテム=トレンド”である。
それが顕著なのが今シーズンの「トレンチコート」だろう。
ここでファッションの世界は「トレンド」という消費感覚に因りどこった
ビジネスのための巡回システムがこの世界のビジネスの根幹であり、
モノとしての「服の進化」から逃れてきたという現実もあろう。
しかし今や、この21世紀の「バーチャル」に始まり、A.I.やビットコインの時代である。
そろそろ、これからの世代達のためにもこのファッションの世界も改めて、
”モノとしての進化“へ新たな目を向けるべき時代性が来ているようだ。
時代の豊かさがもたらす新たな生活環境に対峙した服。
技術革新と進化それによって生まれる新たな機能性と
そこに必然とされる新たな素材やパーツ類など
そして、ミシンに頼らない縫製技術と新たな組み立てシステムや手法などが
総合化されて、初めて新たな「モノとしての服」の進化の姿が誕生する。
このシーンが、今一番ファッションの世界でも問われ始め
新しさを生み出し、それなりの若いクリエーター達に
その兆しが感じ始めまた、現れ始める時代性をも感じる。
たとえば、歴史を省みても「近代デザイン」が登場した‘20年代終わり、「ホック・ボタン」に変わって登場した「ジッパー」や「ナイロン」素材
などと、「ロックミシン」の進化などが現在のファッションにおける
「モノ」としての「服」の進化を大きくもたらした時代であった。
これらによって、人間的なる”ボディーシルエット”が可能になり、
モードも着る女性たちをも大いに”進化”させた。
シャネル・スーツが今尚、このブランドの定番となって売れている現実やCdGの80年代後半の5年間程には川久保玲の生み出した女性服にも
多趣多様な服の進化があった。
それに刺激と反撃を加えて登場したのが、M.マルタン マルジェラ。
ミラノのスピーガーの通りの裏道にあったおばちゃん服のプリーツ屋さんに頻繁に通い、とうとう身勝手に意匠登録したイッセイのプリーツ・プリーツにせよ、戦後モードを振り返って見ても
その時代時代で、ヒットアイテムとなって売れた服は
やはり、“進化”から生まれたものがほとんどである。
近年では、今、デザインの渦中になってしまっている元M.M.M.で、
一番売れ続けているものは何か?
それは日本の地下足袋を進化させた“たびシューズ”である。
そして、服の進化系はストリート発からも読み取れる。
最近では、”コーディガン“なるカーディガン+コート丈のはおりもの。
或いは、ビューティフル ピープルが売りまくった
ボンパージャケットのミニ版もこの“進化”に入るだろう。
もう一つの世界では、二宮慧やYUIMA NAKAZATOが挑戦している
世界もこの「進化」を根幹にした自分世界への高き挑みだ。
また、現代ではたとえば、JUNYA MENがどうして、何故
“コラボ・コレクション”をこれだけ長く続けているか?
従来のファッションの目線で見ていると、もうほとんど彼のコレクションはコラボから始まり、コラボに頼りそして、コラボによる
“消化不良”を起こしている世界でしかないのだが、
今だに現状が継続されている現実には、
「誰が彼とのコラボを望んでいるか?」
そして、「何を必要としてされているか」
そして、彼ら世界規模のナショナルブランドが
「その根幹に欲しているものとは?」を深く読むことで理解ができる。
その答えは、彼ら世界の大手ナショナル・ブランドは自分たちの
生産システムとその規模を利用し、
未来への、「モノの進化」をビジネスの根幹として、
彼らコラボ・デザイナーに託しているにしか過ぎないのだ。
「時代と共にモノも進化する。」というコンテンツの元に
彼らたちは常に、「新しさ感」が必須であるからだ。
最近のパリの若手デザイナーでは、「GmbH」を僕は挙げる。
このチーム・ユニットが持っている時代観と新しさを感じる
彼ら達の感受性の繊細さと、それを「服」に落とし込むまでの
知的プロセスとシステム発想が”新しいニュアンス”を生むコレクションだ。彼ら達の進化のアイテムの一つには“補正下着”のモード化が見る事が出来る
しかし、残念ながら日本から行政絡みの、”ご褒美パリ“でうつつをぬかしパリ上陸を勘違いしている若手ブランドやコレクションブランドの殆どは
パリのファッション広告塔のこれ見よがしの”トレンド”を「上書き」する事がデザインだと勘違いしたレベルのセンスと教養でしかない輩たちである。
これは仕方なであろう、日本のファッション教育やその行政関係者たちは「デザイン」=「装飾する事」=「模倣」=「後出しジャンケン」が
根底の教育や指導が未だに、風靡された世界でしかないからであろう。
これは戦後の豊かさがもたらした日本社会の“文化”の領域が
「消費社会のための消費文化」でしかないのもこの要因であろう。
判りやすく言って仕舞えば、
「有名になり、儲かるため」の手法でさえあれば良いだけの世界が
時代とともにより顕著になってきた時代性だと読める。
従って、「デザインされたもの」が全て消費社会へ
すぐさま飲み込まれてゆくための”壁紙デザイン”とその上書き速度と量が
要求され、”売れているモノ”を探すだけの「後出しジャンケン」が
日本における従来からの「デザインすることとは?」の現実でしか無かったからだろう。
実際の職場ではどの様にその“時代が変わる”状況変化というリアリティに応じて、”デザインする事”をフィジカルに考えが為されているのだろうか? 現実はMDという機能によって、「売れているもの」を情報としてあつめられ、そのバリエーションを“トレンド・デザイン”と称しての「壁紙世界」でしかない。
この傾向はここ数シーズン来、より顕著になって来ている。
<その二へ、続く。>
文責/平川武治。
初稿/令和元年5月5日。