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追記、『瀬尾英樹論ー"知覚のノスタルジアノオト"。 僕たちの関係性のために。 』   

文責/平川武治 ・モードクリニュシェ:
初稿/ 2015年06月06日:

 追記:「はじめに、」 
 「本原稿は、瀬尾英樹くんと僕との関係性ゆえに書き上げたものでした。
それは当事者あるいは創造者と傍観者という関係性と、その在り得るべき距離感を差異とした
眼差しで書き上げたものです。
 瀬尾英樹くんと僕がお互いの差異を認識し、リスペクトしあえる証の一つになったので
あれば嬉しい限りだと確信している。」/追記:2024年09月21日、鎌倉にて。

 「凡て、感覚の中になかったものは、悟性の中にはない。」
"All, things were not in the sense, not in the understanding.”

−−− 中世の学僧の言葉。出展/森有正著『バビロンの流れのほとりにて / 流れのほとりにて』

 『 瀬尾英樹がこの世界へ入りたく迷っていた入り口で僕たちは出会いました。
ですからかれこれもう、15年ほどの繋がりです。
そして、瀬尾英樹は41歳である。 しかし既に、多くのものを学び、世界の多くを旅し、
多くの人間の営みを見てきた人であり なお、見続け学びつ続けている人である。
 いわゆる、静かなる当事者、ある或いは行為する青年僧の姿さえ覚える。
このような彼が持ち得た大いなる自由な時間の堆積から彼はより、鋭い好奇心と感覚を
修練し、多くのものを躰得してきている。
 結果、こゝろをいつも拡げ、澄み渡らせている。
そんな彼が創り出そうと踠いている彼の世界をそして、作品を見ていると
彼のポジティフな狂気までもが彼の澄み渡った笑顔から見えてくる。
瀬尾英樹が創造する世界の根幹には、決して、傍観者の眼はなく、当事者としての苦悩と
狂いが作品になり、自心のこゝろの有り様、”HAPPY CHAOS”を生み出している。
 彼のような”当事者”の眼差しを持って、異文化を堆積して作品を生み出そうと
狂い踠いて いる人間は特に、今の日本人のこの世代には少ない貴重な人間の部類に入る。
 当事者が創り出す世界と、傍観者が創り出す世界には自ずと発している気骨が違う。
瀬尾英樹の作品の特徴はその形態とそこに埋め尽くされた記号或いはボキャブラリィ-
そして、施された色彩にある。
これらの根幹もやはり彼の旅という異文化のエピソードが狂気の中でもがいている、
余るほどの断片の一部でしかないであろう。
 特に、彼の描くテキスタイルのグラフィズムにはカレイドスコープの如くその様が煌く。
この発端は僕も立ち会っていたアントワープ王立芸術学院の卒業作品に既に、見ることが
出来た。
 モードの世界では”新しさ”と”独自性”が確実にその優劣を決める大いなる一つである。
彼の卒業作品にはその総ての”新しさ”がオリジナルに造形化されていた。
形態、パターンメイキング そしてグラフィズムと造形それに、この時使った音楽までもが
新しくコレクション全体に独創性豊かな世界展開されていた。
 この彼が創造した新しさは”モード”というカテゴリィーからは無論、この時点で既に、
はみ出していた。この彼の”はみ出し”は正しく収められたモードのコードの繊細さと
対峙させ、活かされ、一つの新しい世界観が構築されていた。
 彼の最終審査に加わったクチュリェ、A.アライアの眼にも止まった。
以後の彼が持ち得た A.アライアとの新たな、確かなる関係性が生まれその後、9年間という
この世界の絶対服従という理不尽さの中で長く珍しい、彼ら達の信頼深き関係性が
継続している。
 瀬尾英樹が持っている他面にこの現実がありそこに、”老師と修行僧”の関係を
僕は見てしま う。
 現代のモードと芸術の関係は、ある時期までのモードには芸術に繋がる入り口が
存在した が、現在はその繋がりが有りそうなだけであって、寧ろ、以前よりも遠くなった。  そこでは、モードの世界の創造性に大きなブレーキが掛かってしまったからである。
その要因の一つは、 ジェンダーでありもう一つは、”身体”と言う肉体性である。
以後、モードは確実にあるべき 方向へと液化し始める。
 そして、”芸術”と対峙するもう一つの方向、”広告”という大きな 現代社会のうねりへと
流動化してしまった。

 では、瀬尾英樹の世界では”モードにおける芸術とは”或いは、”芸術におけるモードと は?
”具体的にはどのような関係性とテンションが仕組まれているのだろうか?
 「着れそうで着れない服」と「着れなさそうで着れる服」という両義性の隔たりの中で、
どれだけの距離観と、どのように自分の世界観ある自由さによって、
どのような世界を造形出来るか?
 瀬尾英樹は自らの現実の経験を,緻密に繊細にそして大胆に、別の次元に変形昇華させて,思想と観念と感受性を持って狂気を彷徨うまでのテンションを産む。
 この距離感と彷徨いが彼の芸術という”立ち居場所”そのものであり、その作品が広告という名のモードから遠くそして、気高くも危なげなバランスで崇高に自立している。
 これが、瀬尾英樹の作品に漂う、自心の有り様の美しさであり美そのものである。

 パリのセーヌ河畔に僕の大好きな美術館、Musée du quai Branlyがある。
瀬尾英樹の作品を感じる度に、僕は世界の民族がどのように”美”を自分たちの生活に 生かしてきたかを忘れないためにもこの美術館を訪れたくなる。

 そして、思い出すのが、”老師 A.アライア"も料理がお好きだった故、
ダライ・ラマ第14世の言葉、
「愛と料理は、危険を顧みない奔放さで取り組むこと。」
Approach love and cooking with reckless abandon.
合掌。 』 

文責/平川武治 モードクリニシュェ:
鎌倉にて、平成27年六月六日記:
参考ギャラリィー/Taguchi Art Collection

 追記−2/ 
 先日の”巴里ファッションウィーク2025S/S”における、コムデギャルソン、川久保玲さんの
作品は「瀬尾英樹くんへのオマージュだったのでしょうか?」と思ってしまった僕ですが?

参考サイト/ 


https://www.youtube.com/watch?v=I-XpjB4Or6Y&t=81s


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