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"The LEPLI" ARCHIVE 136/『繋がるための 誠実さとは? 映画「繕い裁つ人」から感じた事。』

文責/ 平川武治:
初稿/ 2015年8月26日:

 少し古い話になりますが、多分、見られた方は多いと思いますが、今年の1月後半に
封切られた映画『繕い裁つ人』を見て感じ思い出したことを書きます。
少し古い話になりますが、多分、見られた方は多いと思いますが、今年の1月後半に
 映画『繕い裁つ人』/ http://tsukuroi.gaga.ne.jp

 今の日本に無くなってしまったものや消されてしまったこゝろなどを”繋げられる”だけ
繋げて作られた映画ですが、清々しさと、こころが洗われたような気分に浸してくれた。
そして、忘れていた何かを、それがとても生活の質を感じるためには大切なものとはをも、
思い出させてくれた映画でした。
 そして、僕がよく20代後半に歩き回った神戸の北野町界隈もロケ地として使われ
僕にとっては懐かしさも相当なものでした。

 あの映画に登場する”衣装としての服”と”主役としての服”は表層の”アイコン”です。
この映画の素晴らしさのそのもは無く、登場人物の生き方と価値観であり、美意識であり
その根幹になっている倫理観とそこから生まれた誠実な生き方の断片が表層の”アイコン”
によって”繋げられた”ジグソーパズルのように物語を構成していたからこの映画はある種の
洗練さを醸し出せたのでしょう。
 勿論、それらを理解した上での衣装であり服でありスタイリングでもあるのですが、
結果、この映画では”人の繋がり”という温もりと大切さがテーマの清々しい映画でした。
 
 僕がよく言っている「関係性」の”繋がり”の発端を作リ出すのも、「モノを作る」人の
役割であるという根幹。
ここに、「デザインとはコミュニケーション」という役割の所在があることもわかります。
 よく当たり前のように言われる、モノを作ることとは「自分を表現すること」だけでは
ない。ましてや、有名になるため、カッコつけるためだけそして、儲けることなど、自我欲と
虚栄心による、自己表現のみの安っぽい「自由」ではないことをこの映画は
爽やかに、含羞を込めて作られていた映画だと僕は感動したのです。

 もう一つ、この映画でモノの存在を確かに再認識させてくれたモノがありました。
それは、”ミシン”です。その姿と、それを使う人との関係性そして、その行為によって
生まれ聞こえて来る”音”、ここでは”足踏みミシン”の音でした。
 僕も幼い時を思い出しました、よく母が隣の部屋でミシンを踏んでいる。
その隣で無心におもちゃで遊ぶ僕。
 ここにも、僕たち母子家庭の母親と子供の「関係性」を”繋ぐ”音がありました。
その音は母の言葉に変わって、安心と安らぎをそして、安心を醸し出すまでのものでも
あったことを思い出させてくれたのもこの映画でした。
 その後の僕には、丹波立杭で陶芸修行をしていた時代の”轆轤”を廻して聞こえる音も
この種類の生活の中で聞こえ、繋げる音でした。
 今のように、テレヴィジョンやケイタイやiPODがなかった時代でしたので、
当時の、"貧生”な慎みある生活の中での"音"は人のこゝろを繋ぐ”エピソード”が静かに
幾重にも優しく絡み合っていた時代性。 
 これが、昭和の「世間」の"繋がり"の普遍性でした。

 僕はこの映画を劇場へ観に出向き、映画の途中から重なってくる
このような幾つかのことがありましたが、
 もう一つ、一昨年に、東京で亡くなったC.Nemethのチャーチセレモニィーへお招きされ
ロンドンへお伺いした折に、久し振りに会った長島悠介君でした。
 それまでの長島君=アントワープという僕の中での繋がりが
完全にもう、違うシーンになり、とても成長なさって僕のこゝろを打ったのでした。

 彼が全盛時代のアントワープアカデミィーの生徒だった時に出会っています。
そのアカデミィーで気付いたことを求めて、”手に職を付ける”世界に関わりたく
その後、倫敦へ移りこの街の古い仕立て屋さんの門を叩き、”ブリティッシュ・ビスポーク”を
学んだ人で、彼が選ばれて歩んでこられた道は”英國のクラフトマンシップ”を地で行くような世界です。
 「倫理観なき世界」で築かれてしまった日本のファッション界の今後への「何か」が彼も
見つけるでしょう。

 長島悠介くんは、1980年9月16日生まれ。17歳で、イギリスへ留学。
ケンブリッジでアートファウンデーションコースを経て、アントワープ王立芸術アカデミー
モード科入学。その後、2年で中退後イギリスに戻り、”Vivienne Westwood”でインターンののち、ロンドンのビスポーク””Connock and Lockie”に弟子入り。
2011年より、店主となる。
Connock & Lockie, Ltd./84 Lamb’s Conduit Street, London WC1N 4LT
Tel: +44 (0) 207 831 2479/
http://www.connockandlockie.com

 ”理屈作りと見せ方作り”をメインに教え込むアントワープから遠く離れて
長島君は自由に使える”職人こゝろ”と英語を一つの安心道具として再びロンドンへ戻り、
「手の温もり」を感じて生きてゆく道を選んだ。
 この発端までは知っていたのですが、その後、数年間はご無沙汰でした。
そして、今回の再会がC.Nemethのセレモニーが行われた教会ででした。
これも、僕には何かの”縁”を感じました。
なぜか、この映画『繕い裁つ人』を見ていて思い出した人が彼でした。

  『倫理観が洗練さを生む』は作られたモノもそうですが、
そのモノを生み出す”作り人”にも言い得ることです。
”理屈作りと見せ方作り”に忠実にいやそれ以上に上手に都合良く立ち回っている輩たちが
その殆どである彼らの固まりからは遠くに立ち居場所を捜し、謙虚に自分の求め、
目指した道を堂々と歩んでいる一人が長島君であり、その彼の洗練された着こなしとともに、僕は彼をこの映画からたくさん思い出したのでしょう。

「ローズガーデンと言うとっても、ファッションぽいテナントビルを思い出す。」 
 余談になりますが、この映画で出てくる神戸、北野町には'76~77年に建築された
”ローズガーデン"があり、ここにコムデギャルソンが’77年に初出店したフランチャイズ・
ストアーがあったのです。そして、この”ローズガーデン”をデザインした建築家が、
あの安藤忠雄がまだ、確か、”一級建築家”に未だ、成っていない時代の彼の作品でした。
 この”ローズガーデン”で同世代の川久保玲と安藤忠雄というこの同世代人の共通した
幾つかが重なり共に、二人の接点が始まったのです。

 此処にも,”モノを作りだす人”が繋げる世界が現実になっています。
当時、川久保さんは建築としても、”ローズガーデン”をとても気に入ったが、
当時のコムデギャルソンではまだ、知名度が低かった故、出店はかなり難しかったのですが、
実際に出店を可能にするために、もう一つランクの上の”繋がり”を(?)川久保玲が
この不動産管理会社と”繋がり”持ったのも事実でした。
 参考/ 北野町ローズガーデン
https://kobecco.hpg.co.jp/36058/
https://www.hiroyukikomatsuzaki.com/rose-garden
 追記/安藤忠雄と川久保玲に"繋がり"はその後、両者ともそれぞれの経緯もあってであろう、
それぞれが適当な距離を持ち、”コムデギャルソン”のショップデザインには、安藤忠雄は
直接な関わりは持たなかった。従って、昨年の”コマーシャル フォト"誌のインタビューは
やはり、お互いが”勲章”を貰ったので、堂々とした発言のインタビューになっているので
驚いた。
 以前、同じ雑誌の誌面で行われた二人のインタビューはどこか、守らるべきお互いの
”距離感”を喋っているような内容であったので、雲泥の違いがある。
 このインタビューの”差異”は彼らの「生まれと育ちと成し遂げた仕事」を
国家が認めてくれた故の、自信とプライドからであろう。
 参考/ https://lepli.org/discipline/articles/2015/10/post_149.html

 「久しぶりで、北野町界隈を徘徊したが、」
 先日のお盆休みに、墓参を兼ねて関西へ出かけました。神戸を訪れ、以前お世話になった
金沢の21世紀美術館にいらした平林 恵さんが横尾忠則美術館へ転職なさったので
この機会にご挨拶をとお伺いし、そのついでに北野町界隈を、昔の友人たちのアトリエや
季刊誌 ”サブ編集室”の編集室を思い出しつつ徘徊し、このローズガーデンを探し、
映画の世界をも想い、僕なりの”繫がる”エピソードを繋げていましたが、
残念ながら、この”ローズガーデン”は"アツ化粧が剥げた"佇まい。
 多分、もう現在の都市環境ではこの時代風景は文化の普遍性に浸されてしまったのだろう?ある意味で、当時の”ローズガーデン”がものすごく、”流行的な建築物”だったのであろう。

 見つかったのは映画で美味しそうに食べるチーズケーキの場面のコーヒー店でしたが、
その日は休日で残念ながら、僕とは”繋がり”ませんでした。

文責/ 平川武治。
初稿/ 2015年8月26日。
  





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