”平川武治のノート・ブログ/The Le Pli” アーカイヴー1/
「ブログ開設趣旨と
メゾン マルタン マルジェラのディーゼル社への売却内情あれこれ。」
文責/平川武治:
投稿日/2002-10-16版;
0)今日の提言/
先週から、映画『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』が日本でも封切られています。 ’88年のファーストコレクションから引退コレクションまでを自身のマーティンが語る、”ブランドM .M.M.物語”。
ファッション学生必見の映画でしょう。そして、何よりも、アイディアをパクることがデザインだと教育をなされてきた、なりすましデザイナーたちも必見の映画でしょう。現在のディーゼル マルジェラブランド愛好者も必見でしょう。しかしこの映画が決して、これからの”人新世”時代に生きる世代のための新しい”入り口”ではありません。むしろ、崩れてしまった、「近代の終焉」の”出口”を確認するための記録映画と見なすことが正しいでしょう。ここで、「マルタンは凄い!」を謳いあげさも、ファッション業界人ぶるメディアやバイヤージャーナリストたちがそして、日本の消費文化の新たな表層市場に成り上がった古着マーケットをボッキさす自慰行為でしかないでしょう。が、このレベルが”日本のファッション業界”そのものなのですから仕方ないでしょう。僕には、かつて、”ファッションカウンター カルチャー”が存在した時代の彼のファッションとパッションを懐かしく思い出さしてくれる映画でした。 ありがとう、マーティン!
今回の”平川武治のノート・ブログ/The Le Pli”のアーカイブ−1はこの「M.M.M.」が2002年に ”あのイタリーのディーゼル社に売却!”という突然と衝撃の事件が起こった時のリアルタイムの平川目線のドキュメントです。この映画と共にご一読くださればタイムリーでしょう。/2021-09-22記:
◯今回のインデックス;
1)はじめに、日記ふうに、
2)マルタン・マルジェラ・ブランドがイタリーのヂィーゼルへ身売り。
3)では、ブランド、”M.M.M.”とは?
4)ヂィーゼル社長がマルタン・マルジェラの株式の過半を取得。
5)一番儲けたのはヂィーゼル社の社長、レンゾー・ロッソ氏である。
6)このブランドも然りである、
***
1)はじめに、
遅まきながら、”平川武治のノート・ブログ/The Le Pli”を周りの友人たちのお陰で立ち上げました。今後、よろしく御付き合いください。永年、ファッションジャーナリストという立場をインデペンデントに活動して来ましたがやはり、我が国のジャー ナリズムが気骨無き「御用ジャーナリズム」と化してしまっていることに微力ではあるが抵抗したくこれを立ち上 げました。ジャーナリズムが本来持ちえている「第4の権力」的立場の復活と、ジャーナリズムがある種の「社会教育」を担っていると言う視点からこのホームページを始めます。
そして、この”LE PLI”を媒体にして、多くの人たちと好きなモードの世界を中心にコミュニケーションが持てればうれしいです。この初回は日記風に、僕がパリを軸にしてどのような行動をしているかも交えて書き始めます。8月の終わりから東京を離れて先ずはこの街、巴里へ。そして、アントワープ、巴里、アントワープ、チューリッヒ、アントワープ そして、コレクションのために再び巴里へ、これが今回の現在までの僕の行動。
8月27日:成田発巴里へヴィエンナ経由で出発。未だ、バカンスから戻っていない閑散とした巴里も一つの顔。8月も第4週の週末になると流石この街のバカンス好きな巴里ッ子達もこの街へ戻って来始める。彼らたちを直接的に巴里へ呼び戻すのがこの街に多くあるアートギャラリィーである。彼らたちが売り出したい作家たちの新作展覧会のオープニングレセプションである。 残念ながら、ファッションは2の次だ。今年からちょっと洒落た趣向を凝らしてのオープニングはアート好きな若者たちを喜ばせた。多くのギャラリィーがあるマレ地区の一角で、ご近所のギャラリィーが共同でオールナイト・オープニングレセプションを催したことだ。僕も30,31日の週末にはこの催しへ顔を出す。中でも面白かったのは『BINGO』展。幾人かの若手アーチストたちのポップでガゼットな作品を同じテーマで界隈のギャラリィー数軒が共同企画での展覧会。古くからの友人で、日本にも幾度かコレクション写真を撮りに来た事があるフォトグラファー、クリストファー君 が全く、新しい作品で、アートの世界へ登場し、今回の新人展で見事にデビュー。写真とコンピューターを使って微妙な皮膚感を人工的に合成した写真は医学写真の新しさの様で面白く興味を持った。この後、彼はヨーロッパ写真家美術館でアービング・ペンの新作展と共に、ニュー・ジェネレーションの世界をここでも披露している。彼に話しを聞いてみると、彼の作品に興味を持ったこの美術館が制作費用を持ってくれて今回の展覧会になったという。良いものを見る眼とその良い作家を誕生させる公共の構造がこの街には確りと出 来ていて、新人であろうが彼らたちの眼に止れば今回のクリストファーのようにデビューが出来る仕組みが結局、この国の文化の新陳代謝になっているのだろう。
2)「マルタン・マルジェラ・ブランドがイタリーのヂィーゼル社へ
身売り。」
コレクションを1ヶ月後ほどに控えた9月始め、この意外なニュースがこの街のファッション雀たちの口角を賑わせた。今、モードの世界はクリエーションよりビジネスのほうが面白いと言う典型なニュースである。我が国では海外デザイナーブランド物ではバッグのLVには及ばないが、洋服ではこのブランド『M.マルタン・マ ルジェラ』が一番良く売れている、人気度の高いブランドが身売りをした。しかも、あのイタリーのデニムメーカー の『ヂィーゼル』にである。発表されたのはこちらのファッションビジネス紙の『ジャーナルド・テキスタイル』紙。それをニュースソースとした日本的な報道が「センケン」紙と「WWDJapan」紙に発表された。当然だがこれらの記事は余りにも表層しか書かれていない。勿論、当事者たちも余り多くを喋りたくない。しかし、面白い事件である。
結果、こうなってしまったかと言う感じが僕にはした。なぜかと言うとここ3シーズン来、彼のクリエーションは今、一つだった。一時の覇気が無くなっていた。丁度、東京にやっとの念いで世界での1番店の直営店がオープンした頃から、その感じが匂い始めた。そして、多くの彼とそのチームの友人たちにそれとなく話をいろいろ聞き始めていた結果が、コレだったのかと。
3)では、ブランド、”M.M.M.”とは?;
アントワープのロイヤルアカデミィーを卒業し、J.P.ゴルチェの元で3年半、働きその後、独立したのがマルタン・マルジェラである。彼が未だ、ゴルチェの所にいた時には幾度か会っている。体格がよくいつもキャスケットを被っている物静かなナイーフな青年だった事が印象にあった。‘87年の3月コレクションを最後にゴルチェのアトリエを去り1年半の期間をその準備期間として自らのブランド「M.マルタン・マルジェラ」を発表したのが’88 年の10月のコレクション。このコレクションはよく今でも憶えている。彼のデビュー・コレクションを見た事によって、僕はこの仕事をしていて良かった幸せだと感じたからだ。僕がマガジンハウスの春原さんを誘って友人のフランス人ジャーナリストに教えてもらって行ったその会場には日本人ジャーナリストはいなかった。ポンピドゥーの裏に今でもある小さなライブハウス的なところ、「ラ・ガラージュ」で 彼は歴史的なデビューをする事となった。屋外で既に、小1時間は待たされた事、その時あのJ.P.ゴルチェもみんなと同じように待っていた姿が印象深く記憶にある。M.M.マルジェラはこのコレクションを機に、僅か5年間で高イメージを築き上げるまでの見事なクリエーションとショーを僕たちに見せてくれた。デビューコレクションは当然、資金が無いため素材はコットンのみ。永く待たされた後に登場したのがトップレスのマヌカンたち。胸を抑えて出て来た彼女たちが穿いているのがロングのタイトスカート。それから、次々に上ものがコーディネートされスーツになってタイトでスリムな、健康な若い女性の肩がまるではじけ出るのではないかと思わせるようなタイトなコットン・スーツそして、僕たち日本人に見覚えのある地下足袋を改造したシューズ。彼が近年にないデザイナーだと知ったのは僅か5年間で彼自らのパーマネントコレクションを古着を使ってクリエートしてしまった事だ。これは到底、最近のデザイナーにはいなかったことだ。そして、次の5年間で自らのクリエーションを定番化しコマーシャルラインの#6、#10などを完成させた。このコマーシャルラインが売れた。イ メージもどんどん昇華した。そして、第3期の5年目でエルメスのデザイナーと東京に直営店第1号を持ち、ブ リュッセルと6月にはこの街、巴里にも直営店を出店した。この僅か13年足らずで彼、マルタン・マルジェラは巴里のプレタポルテにおける、トップクリエイティブデザイナーの頂点に達した。 多くのデザイナーや学生たちが彼の影響を受けた。モードの流れを完全にストリートへ引き落としたのも彼だった。ショーイングのアイディアや会場選択にも彼が新しい流れを創った。そして、14年目を迎えようとした時にこの事件(?)である。
4)「ヂィーゼル社長がマルタン・マルジェラの株式の過半を取得。」;
このタイトルはセンケン新聞のものであるが現実はこうである。 話は約1年半前ぐらいから起きた。当時、マルタンの生産を請負っていた「スタッフ・インターナショナル社」が2 年前に倒産し、その後デーゼル社が買収した。ここで先ず、マルタンとヂィーゼル社の関係が出来た。東京1号店の直営店が出来た頃からお互いのビジネス戦略上で話し合いが持たれ始めた。店舗を拡張しビジネスを拡大してゆくには「資金」「生産背景」そして「物流」の充実が必要になる。ここで、「生産背景」はヂィーゼル社の小会社が請負っているのだから「資金」も「物流」もこのヂィーゼル社が望むのならこの組み合わせが一番明解な組み合わせである。その結果がこうだとはちょっとおかしくないだろうか? 「この"M.M.M."自体がブランド拡大を本心から希望したのだろうか?」という疑問から僕はこれが『真意』ではないという発想から調べまくった。あんなにも確実に5年単位で自らのクリエーションとイ メージングを昇華しながら地に足を着けたビジネス戦略をキャフルに展開してきたこのメゾンの本当の問題は何なのだろうか?その結果がこのような状況を創るのが一番の方法だったのか?誰が一番儲けたのか?エルメスはどのような態度をとったのか?
確か、昨年の12月頃にかなり多くのスタッフ、7人ほどが辞めた。この中には事実上、コレクションラインをデザインしていた女性もいた。彼女の場合も、円満退社ではなかった。一方、マルタン自身は旅行に凝っていて、多くの時間を好きな旅行に費やしていると聞いた。ここ3シーズンほど、コレクションラインがコマーシャル化し始めてきた。一方、相変わらず、コマーシャルラインの#2、#6、#10等の売上は伸びていた。ショップが出来てからかなり店頭MDが入たものが店頭に出回った。最初から大好きで見て来ている僕にとってはこの変化を感じるのは易しい事だった。何か、このメゾンの内部でも”変化”が起こっていると思い始めたのが7月だった。
マルタンがJ.P.ゴルチェの元から独立してバッカーを捜して約1年半後に出会ったのがマダム ジェニィー・メイレン。それまでの彼女はブリュッセルでかなり大きな洋品店を2店舗を経営していた。ギャルソンも売っていたし、 ヨウジも扱っていた。彼と出会った彼女は今までの成功していた洋品店2店舗を処分して彼、マルタンに賭けた。いつか,彼女はインタビューで、『彼が私の夢を持って来てくれたのです』と語っていた。 そして、‘88年10月のあの衝撃的なデビューコレクションとなる。以後、彼らたちは2人3脚でがむしゃらに働いた。特に最初の5年間は20年分以上のエネルギーを使ってチームワーク良くやって来たから現在があるのだろう。コマーシャルラインのレデイースを見るとその殆んどがマダム ジェニィーが似合う服ばかりである。だからこのブランドがその後、彼女のような多くのキャリアウーマンに人気があったことが伺える根拠がここにあった。
5)一番儲けたのはヂィーゼル社の社長、レンゾー・ロッソ氏である。;
彼らたちの約70%の株を買い占めたからである。これからこのようなブランドを新たに造るとしたら、当然、造ろうとしても不可能ではあるが、これ以上の資金と才能とセンスが必要になるからだ。マダム ジェニィーとマルタンはデザインコンサルタントとしてヂィーゼル社と年契約をした。結果、いつでも辞めたい時に辞められると言う立場を、やっと得た。当然であろうが、物凄く時期、タイミングを計算した結果の出来事であった。 "M.マルタンマルジェラ・ジャパン"の「ここのえ」はマルタン側と三菱商事との合弁での会社であるが、これがこのように整理されるまでこのM&A契約は日本側に発表されなかった。当初の『ここのえ』はマルタンと三菱そしてオリゾンチィ社との3社間で始まった。その後、直営店プロジェクトが始まるとこのオリゾンチィ社に力が無い事が解り、オリゾンチィ社を外そうと持ち株の分担を減らした。が、そうこうしている間にやはり、このオリゾンチィ社が 倒産という行き着く結果を迎えた。その後、このオリゾンチィ社の親会社ワールドもこの放蕩会社を手放した。その先がライセンスビジネスの伊藤忠へ。 従って、三菱はこの数10%ほどの株を伊藤忠から買い戻さなければならない羽目になった。 そして、それがちゃんと終わった段階でこの買収契約が発表されている。それに、仙台の最初からの大口取引先である『レボリューション』がマルタンのオンリィー ショップをオープニングした後での、事の次第でもある。全て、計算された結果の行動である。これは当然であるがこれ程迄に計算された結果の本意には裏が、何かがあるはずだ? 3ヶ月前には既に、それなりの社員たちには話があったという。では、M.M.M.ジャパンの『ここのえ』には同じように話があったのだろうか?
6)このブランドも然りである、;
多くの巴里発の海外ブランドの企業成長に我々日本人はどの国よりも貢献し、愛し尽くし、 たくさんの売上に協力してきた。彼ら、M.M.M.の14年間のサクセス・ストーリィーも同様である。日本は最大の理解者であった 筈なのに本当に今後の企業発展のための結果でこうなったのなら何故、日本企業にもアテンドが 無かったのだろうか?そして、また、エルメスと組まなかったのか? その最大の原因は?
しかし、M.マルジェラとマダム ジェニーをリーダーとした、彼らチームの見事な”仕事”である。やは り、彼らたちはプロ中のプロであった。スマートでクレバーなファッションピープルたちが駆け抜けた14年間だった。
当然である、マダム ジェニィーとマルタン マルジェラは膨大なお金を手に入れた。
「輝きそうな石。きっと、輝くと思って一生懸命磨き上げれば、それは
ダイヤモンドになった」 というアントワープらしいお話。
彼らたちは、「M M.マルジェラ」と言う”ファッション・キブツ”を構築し、そこから無限の可能性を育て上げた。その後、この”ファッション・キブツ”で働いていたと言う多くの輩たちが、他のブランドへ侵食して行った
事だろうか?
エルメスが買ったら良かったのにと言ったのは僕と元ジャルダンデモード誌のマダム アリス・モーガンだけだったと後でエルメスのスタッフから聞いたが、何故そうならなかったのだろう?
この一件はここにも一つの鍵があったように思った。エルメスとの契約は後数年残っているからだ。
「あんなにも彼らたちの売上に貢献した日本人たちは、マルタン自身が誰であるかも知らないままだ。ーAlso the Fashion is always in fake.」 合掌。
文責/平川武治:
初稿/2002-10-16記 :
NOTE/2021-09-22刊:
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