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『瀬尾英樹くんが夭折した。 其の弐。 "知覚のノスタルジアノオト-瀬尾英樹の作品を感じる前に、彼を想うために知って欲しい事”−2。』

文責/  平川武治:
初稿/ 2024年09月21日:
写真/ The Hideki's favorite belongings at his funeral on 01st.Apr.'24:

 「18年前、京都駅の北陸本線のプラットホームで初めて瀬尾くんと逢った、
あの時間から変わらない彼の笑顔が僕には美しく逗まっている。」
 <其の弐>
「”黒を着る3人の小柄なエトランジェな創造者”たちが語り合う、」

 僕とAlaïaさんの出会いは確か、’87年にホテル リッツのサロンで、僕の要望で、
山本耀司と川久保玲の3人で対談をしていただいたのがきっかけだった。
以後、いつも人懐っこく笑ってくださる関係性が始まった。
 「黒を着る3人の小柄なエトランジェな創造者たち」が語り合う巴里モードがテーマだった。
丁度、この頃のAzzedine Alaïaさんは2匹の同じようなヨークシャーテイアをご自身の
ショルダーバッグに入れて、どこへでも一緒だったことも僕には楽しい微笑ましい想い出と
残っている。N.Y.コレクションにも一緒だったために、W.W.D.のフェアチャイルドに顰蹙を
買ったことも話された。
 僕はこの3人の対話の中で、Alaïaさんは饒舌家で語り合うことがお好きな人であることを知り、耀司さんは喋った。川久保さんは耀司さんを介して、会話に加わっていた。
 僕が興味を持ったAlaïaさんの話では、「シャネルは唯のスティリストであり、マドレーヌ・
ヴィオネはクチュリエであった。」とご自身がリスペクトなさっているマドレーヌ・ヴィオネへの想いをはっきりと明言なさったことだった。
 結果、Alaïaさんの作品は彼女の”ヴァイヤス”使いと、彫刻を学んでいた学生時代によって、
"マッス"として人体を一つの塊りと捉えることが出来た故に、後の見事なまでのシルエット
”ボディコンシャス”のローブが創造された事も理解できた。
 そして、山本耀司のモードのおける早熟さには一目置いていらっしゃったのも覚えている。

「彼は”モシ、モシ”という呼び名で、Azzedine の為に幸せな過酷な日々の今を生きていた。」
 
2017年11月18日、その数日前に自宅アトリエの階段を踏み外して転倒なさった突然の怪我が彼と瀬尾英樹は思いも寄らない人生を選択してしまった。Azzedine Alaïa享年、82歳没。
 あれ程までに、リスペクトする好きなモードの世界の素晴らしいクリエイターである師匠、Azzedineに仕える“モシ、モシ”とは「師匠と弟子」と言う公私ともの完璧なマンツーマン的な関係性は気がつくと順風万歩、12年間も続いていた。
 Azzedineが日本の素材を使い始めたのもこの彼らの関係性が可能にした現実の一つ。 
”モシ、モシ”が手配させられて日本の素材企業へやみくもにレターを出した時期があった。
その一つに引っかかたのが大阪にある”東光商事”だった。ラメ入り藍染デニム素材が当時のAzzedineの目に叶って、彼らのハイ・プレタラインで初めて使われた。
 デニム素材そのもの主流はやはり、「イタ・カジ」全盛時代の’70年代後半のイタリーに上質なものがあった。その後、コストの面でトルコへ生産地が移り、今ではモロッコ産が主流の
世界であるが、2010年位から品質面と価格のバランスで”日本製デニム”がハイモードブランドに認知され始め最近では、あのL.V.ロゴ・ジャガードも加わり岡山、広島周辺の産地が
ラグジュアリー・ブランド向けの上質デニムの産地になっているのが現状でもある。
 そして、以後、Azzedineが亡くなられるまで取引は続いていたという。
 
「新たなCEOがメゾンに赴任してくると、そのメゾンのデザイナーが新しく選ばれる。」
 Azzedine Alaïaさんが亡くなられてからの瀬尾英樹の"アトリエ Azzedine Alaïa"での
立ち居場所が急に窮屈になってゆく。
 「親方/パパ」が不在になってしまった集団は、お金の流れをコントロールできる人が
上に立つ。これは資本主義の世界では尋常のパワー・ルールでしかない。
それが”ユダヤ民族”の人たちがコントロールしている企業では尚更、顕著になる。
 "メゾン Azzedine Alaïa"の実情もAlaïaさんの急死後以前、バッカーであった
”RICHEMONT/リシュモン"グループの傘下に再び編入されたのが'18年だった。
この時期”リシュモングループ”は「パルファンを新発売し、巴里とロンドンに新店舗を
オープンさせ、同時期にロンドンで展覧会を行う。」という企業戦略が事前に交わされていた。
 「さあ、”メゾン・Azzedine Alaïa”はこれから本格的な"クチュール&ハイブランドメゾン"」としてY.S.L.亡き、A.エルバス亡き巴里のモード界を牽引してゆくメインなクチュールメゾンの一つとしての再出発という構想だった。
 Azzedine Alaiaが'17年11月、死去。その後、正式なメゾンデザイナーが決められるまでの
この”コロナ禍”の3年半ほどの空白時は”ファーストアシスタント・デザイナーは瀬尾英樹が
継いでいた。
(W.W.D.ジャパン/2017/12/19号記事)https://www.wwdjapan.com/articles/522842
 所謂、新たなCEOがメゾンに赴任してくると、そのメゾンのデザイナーやファッション・
ディレクターも新たな人材が選ばれる。
 これは巴里のファッション・メゾンビジネスの常識である。  
新たなCEOがトップに立った責任とは総てが、今後の”営業責任”でしかない実世界である。
デザイナー起用も、彼らにとっては実ビジネスのための”イメージング戦略”の一つである。
この世界の実態は総てが、"メディア対応が出来、メディアウケのいいデザイナー"人材が
求められる世界だ。

「エリートCEO、ミリアムが選んだディレクターはピーター・ミュリエ だった。」
 クチュールメゾンではなく、ハイプレタ・ブランドとしての再出発に、"メゾン Azzedine Alaïa"の新CEOは、同じグループ内のクロエ/CHLOEでコミュニケーションとアクセサリー
部門ディレクターを務めていたミリアム・セラーノ/Myriam Serranoが抜擢起用された。
彼女はI.F.M.を卒業したこの巴里のモードのエリートコースを歩み、抜擢された兵である。
 そのチャンスを与えられたエリート、ミリアムが選んだ次期、"メゾン Azzedine Alaïa"の
ファッション・ディレクターはピーター・ミュリエ /Pieter Mulierだった。
 この彼女の選択は王道であった。ハイブランドとしてのディレクターの役割は生前のAzzedineの見事なまでの豊富に残っている素晴らしいアーカイブをどのように時代に乗せて、再利用をし、編集しててゆくか、そのためのイメージングの再構築が主な仕事であるからだ。
 この選ばれたピーターはラフ シモンズの”右腕”いや、それ以上の役割を彼ら”二人三脚”で
このモードの世界で立ち回ってきた、嘗ては二人共アントワープのストリートボーイだった。
”ラフ シモンズ”の現在の存在はピーターとの共労がなければ在り得なかったというキャリアを成し遂げてきたセンスの良いバイ・プレーヤーだった。
 そして、初めてピーターはこの"メゾン Azzedine Alaïa"の新CEOの元での”一人舞台”主役を務めるに至ったある意味で、どこまでも”クールなラッキーボーイ”である。
 事実、ラフ シモンズとピーターが”ジル・サンダー”への突然の起用以来その後の、
ディオール、C.クラインそして、現在のプラダとアライアに至るまで彼らたちを見事にビッグメゾンへレップして来たのは”エージェント”の存在と手腕があったからだ。
 これだけの有名メゾンでのキャリアと映画にも登場している彼らたちはそれだけ
”メディア ウケ”も抜群な喋れる、もう一つのファッション・マテリアルだった。

「日本人に対しては、どんなに優秀で才能があっても”見習い”レベルでの雇用関係が常識と
いう価値観の白人企業メゾンの現状。」
 
海外の”ファッション・ブランド校”を卒業しても、その殆どが、「見習い期間」の
”3ヶ月あるいは6ヶ月しかも当然、アルバイトレベルの報酬”という卒業後の就職実情は現在も
殆ど、変わらず普遍化してしまっている。
 この知られざる現実を熟知している日本のファッションピープルは案外少ない。
海外留学をして卒業後、現地の希望するメゾンへ就職が出来、その企業からヴィザを取って
もらうまでの所謂、”正常な”雇用関係が結べるまでの「差異」としての”実力”と”人間性”を
備えた日本人が希少であること。
 もう一つは、現地メゾン企業のCEOの多くはユダヤ人たちであることから、
やはり、ユダヤ人優先を差別と考えるまでもなく当然として、自分たちのビジネスの都合で
採用するためであろうか?
それに、昨今のハイブランド・メゾンはデザイナーよりも、ファッション・ディレクターを
必要とし始めたので余計に、日本人には狭き門になった。
KENZOのケースは、故ヴァージルの紹介とFENDI時代のCEOマイケルとの関係そして、
彼らが求めるターゲットが"イエロー"主流故に現実になった。
 そしてもっと、問題なのが、日本人自身の問題である。
彼らは卒業後、現地の有名メゾンで雇用主の都合の「見習い」に甘んじることでまず、
”自己満足”に垂れる事とこの「見習い」体験が帰国すると、もう一つの強力な顔になり、
日本の外国コンプレックスのファッションメディアにたいへん役立つ使い勝手のある現実を
生み出すからである。勿論、「見習い」仕事の内容は在庫管理であれ、ボタン付けであれ
関係ないのである。
 これだけ、多くの日本人ファッション学生が巴里やロンドンやN.Y.などで学んでいるのに、「人材」として、就職斡旋を扱う日本人の日本人のための”エージェント”が無いのである。
 アントワープはたかが、90年代はじめから25年間ほどで、「人材」としてのレップ構造を構築し、ラフくんや今回のピーターの活躍に至る。
 結果、これほどまでに日本は70年代後半から外国人ファッションビジネスに両手を上げて買いまくって来たのに未だ、この構造がないという「田舎者のイエローモンキー」である。
 従って、"メゾン Azzedine Alaïa"へ、Alaïaさん自身から声をかけられて「正式雇用」が
なされた瀬尾英樹くんの場合は非常に貴重な稀な事実だったのです。

「ユダヤ民族優位主義はこのファッションの世界ではある意味、普遍的な思想である。」
 
約40年間、この巴里のモードの世界に関わってきた僕の人生の大半のキャリアにおける体験と経験からの眼差しの一つにこの視点がある。
 これは当然の事実でありこの「モードのヴァニティな世界ーJardin des Modes」は
彼らたちの家系が生み出し、守り続けて、彼らたちが生き抜いてゆくための庭であり、
世界そのものであり、今日のファッションビジネスの構造とビジネスの生業に発展させてきた当事者たちだからです。
 極論すれば、自分たち家族や家業が生き延びるためにその「根幹」を死守するための
一つに、重要なポジションであるデザイナーあるいはディレクターを誰に委ねれば自分たちが生き延びれるかの結果が現在の「ファッションの世界」であるということです。

「4月1日、福山での葬儀に多く涙した僕の涙は、」
 半年前の3月19日に瀬尾くんが亡くなられたことを知らされて僕が最初に湧き出た感情は
「悔しかっただろう。」であり、彼の御仏前で泣きまくった涙も瀬尾くんの心境を痛感したからでした。
 あんなにもAzzedineに可愛がられ、リスペクトし合っていた「親方/パパ」と「モシ、モシ」の関係性であっても、結局は「親方」の死後は見事に”部外者”にされ、会社幹部たちからは
適当に「疎外」され、そんな企業エゴに基づいた集団になってしまったこと。
 そして、この悔しさを6年程の「Azzedine亡き"メゾン Azzedine Alaïa"」になった会社で「彼、瀬尾英樹は苦しみ、悩みもがいていたこゝろと、患った舌癌に侵さてれた身体が、
彼自身、最期を読み取ったのではないだろうか?」という僕の眼差しだった。
 こう感じてしまったための涙があの彼の葬儀で号泣をした僕だったのです。
僕の彼への悲しみはこの悔しさが根幹だったのでしょう。
<其の参へ、つづく>

文責/  平川武治。
初稿/ 2024年09月21日。
 

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