見出し画像

"THE LEPLI-ARCHIVES"/#146『ファッションが つまらないくなったという声がよく聞かれます。』

初稿/ 2016年9月 2日:
文責/ 平川武治:
写真/ Happy Hippy Sawing.

 
「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”というリアリティ」 
 ブルータス依頼原稿初版版より/平成28年八月記:

1) 『ファッションがつまらないくなったという声がよく聞かれます。』
 
そうですね、この現実にはモードそのものの世界がつまらなくなったというよりも、
魅力が無くなった或いは、面白く無くなり、ファッションが醸し出すキラキラした
ときめきが淡く薄く液化してしまったという視点。
そして、この状況が最近の日本の現代社会にチューイングされていないという視点
があります。
 即ち、「時代が持ち得たリアリティ」と「ファッションが生む出すイメージ」が
ズレ始めてしまったという社会的な現象の一つでしょう。
 嘗ての”原宿”で、風変わりな目立った格好をした「ファッション目立ちがり屋」や、
たまに乗る電車の中にも、もう「ファッション・バカ」は居なくなり寂しくなりましたね。
 そんなにファッションがダサくなってしまったのでしょうか?
或いは、世代が変わったことによって消費者の願望が変化してしまったのでしょうか?
或いは、現代社会ではファッションでカッコつけなくっても女の子にモテる時代になったので
しょうか? 
又は、 世間から”はみ出したい”からファッション・バカになるのが手取り早かった等など、
そんな時代が終わってしまったのでしょうか?

2)「あるべきはずの「差異」の「液化現象」の一つ、”豊かさ”が生み出した、「文化の普遍化」 
 もう一つの眼差しは、このファッションの世界とは”作り手”と”売り手”そして、”買い手”とその人たちの”世間”と”時代”で成り立っています。(生産と市場と時代の関係性)
この何れかがズレ始め、これら三者の関係バランスが崩れてしまったからでしょうか?
 僕流に言ってしまえば、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた」現実の一つ。
これは”グローバリズム”がもたらした象徴的”進化”の一つで、”ケイタイ以後”の現象であり、
”あり得るはずの「差異」”の液化現象の一つであり、時代の”豊かさ”が生み出した、
「文化の普遍化」でもあろう。(例えば、”スタバ”がもたらしたカフェの普遍化?)
 これは豊かさを持ち得た20世紀の人間が「あり得るべきはずの、”距離”の短縮化
=文明の進歩・発展」という命題にのめり込み過ぎた「近代の終焉」でもあろう。
即ち、「距離の消滅」の完了によって齎された「時間のパラドックス」が根幹でしょう。

3) 「あるべきはずだった距離の消滅という時代性。」
 この”距離感”は”作り手”であるデザイナーにも又、”売り手”であるディストリビューターもそして、”買い手”という消費者たちにも在ったはずのそれなりの”距離”が見えづらくなって
来てしまったからです。
 当然、彼らたちが生活している”世間”にもその「あり得るべきはずの、”距離感”」は
見えづらくなってしまっていますね。
 でも、”世間”ではこのような”誰でもが一緒の社会”が望まれ、このような社会を目指して
来たきたのが戦後の日本社会の71年の目標だったのではないのでしょうか?
 これが時代や社会が”豊かに”なったということなのでしょう。
或いは、”豊かに”なったからこのようなフラットでリキッド化した”世間”になったのかもしれません。
 戦後の日本社会は合衆国によって「押しつけられた或いは、飼いならされた”普遍性”」に
よっていわゆる、「安心、安全、快適」という”セフティーネット”が見事に張り巡らされた
”世間”が成立しています。
 敗戦後、解体された日本の階級社会はその後、倫理観無き輩たちによって「大衆消費社会」が構造化され、”消費者”と呼ばれる人たちもこの与えられたセフティネットの中で何を選ぶかの”自由”に戯れているだけの差異無き現状というリアリティですね。
 従って、ファッションとその機能である”装う”こともこの管理社会の中で普遍性を持って
しまいました。

4)「モードの普遍化とは? ファッションのグローバリズムとは、」
 この一因はグローバリズムという新しさによって、ファッション産業の構造そのものが
変革し、世界規模の大衆消費社会を対象とした「SPA方式」による
”ファッション・クローン”が生まれ、”ファースト・ファッション”が誕生し、
これが予想外に”世間”に受け入れられたことですね。
 ここでのキーワードは”トレンド”は無くならずより、フラットな「世界水準」になって
しまったということです。
 また、人間の身体構造の根幹が不変故、ファッションデザインそのものも100年以上を
継続して来て、”作り手”は全く新しい創造性が生み出しにくくなったこと、その必然性も
なくなったこと。
 何よりも、作り手が持つべき”自由”に「あり得るべきはずの、”距離感”が無くなり始め」
どこかで見たもの、誰かが持っているものの方が”売れる”という、
”Variations of the Archives"の世界に佇み、”模倣”が”習慣”を生み出すというベタな、
G.タルドが既に、1890年に「模倣の法則」で指摘した時代性に至ってしまったことは
興味深いですね、ここにも”メビウスの輪”が見える世界観です。

5) 「生活が”豊か”になるということは、その生活における価値観が変わりました。」
 例えば、ファッションという言葉の意味合いもその広がりや機能さえも、
物質的な豊かさを享受してからは服だけの世界ではなく生活様式そのものへ広がりましたね。従って、服で装うだけでなく、身体や生活環境を装うという余裕も生まれたのでしょう。
また、”豊かさ”ゆえに方法論としての術は何でも有りの世界になってしまいました。
ここには”作り手”と”買い手”にも、あり得るべきはずの、感覚的な”距離感”も無くなって
しまいましたね。
 従って、資金さえ十分にあれば、誰でもがそれなりの「壁紙デザイナー」に成れる、
何でも可能な時代性になってしまったことも”距離感”がなくなった一因です。
 かつて、オタクと呼ばれた”豊かなる難民”だった世代が今では社会の中枢へそして、
まだこの世代の一部は”自己顕示欲”が旺盛である世代ですが、
その後の世代、ミレニアム世代は”豊かさ”の充足に伴い、性欲と同じなのでしょうか、
”自己顕示欲”も減退し彼らたちはネット世代の「自己確認世代」ですね。
従って、”繋がる”ことも踏まえた自己確認をSNSやインスタを駆使してヴァーチャルな上での
「ウオリー君を探せ」に勤しんでいます。
ですから、彼らたちの足元のシューズを見ればどれだけファッション・トレンドを潜在的に
意識しているかの閃きが伺えますが、ここにも、「あり得るべきはずの、”距離感”」を
寧ろ、無くするベクトルでその”世間”という群衆の固まりに委ねた生活者となっています。
 従って、彼ら世代にとってのファッションは彼らたちのそれぞれの”塊”における
”ユニフォーム”的発想のものでしかなくなったのでしょう。
 このような典型的な「保守の進展」という時代の追い風に立ち向かって行くには
それ相当の”覚悟”(?)がいりますね。

6)「あるべき”差異”を象徴し、楽しむまでの”カウンターカルチュアー”から遠く離れて、」
 かつての、僕たちの時代には自分たちの持ち得たリアリティから”はみ出す”
すなわち”距離感”を持つ或いは、”ズレる”ために”覚悟”して生み出したものが
「カウンターカルチュアー」でした。
 このビートニック&ヒッピィー文化と称されたものが現在でも尚、使い古されています。
その検証的展覧会が今、巴里のポンピドゥー美術館でタイミングよく開催されています。(BEAT GENERATION展)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
https://madamefigaro.jp/paris/blog/keico/beat-generation.html
 
 そして、現在ではこのビート&ヒッピィー文化を生み出した”コミューン”形態が
”野外フェス”で模倣、継続されそれが日常生活の新たな習慣になろうとさえしていますね。
ここには、その表層は同じようですが、”ドロップ・アウト”し、”距離感”を持つことで
既存社会にアンチテーゼを示すことを生んだ「カウンターカルチャー」と、
時代のトレンドとしての”スロー・ライフ・スタイリング”という”距離感”無き根幹とに、
その覚悟の相違が読めるのです。
 今の若者たちにとっての「カウンターカルチャー」とは何なのでしょうか?
”ストリート=パンク”というのももう古いでしょう。音楽がまた80年代初めのラップが
流行り始めたことからそろそろ、グラフィティも出てくる兆しを感じるのですが。
 そして、やはり時代の風に立ち向かって行くには個人が持ち得た「文化度」が必然と
なるでしょう。

7)「あのブランド、CdGの「凄さ!」の一つにこの「文化度」がありますね。」
 日本からの若い「壁紙デザイナー」たちが巴里へやってきますが、彼らたちの世界には
「情報のザッピング」と「見せかけのリアリティ」がちらつくだけでその奥に在るべきものが
見えないものがほとんどです。
 この在るべきものとは、デザイナーというよりも人間個人が持っているべき「文化度」と「倫理観」ですね。それにブランドが持っている「文化力」さえも”壁紙程度”。
これではCdG HPとは勝負ができませんね。
 悔しいですが、このブランド、CdGの「凄さ!」にはこの「文化度」があり、
常に意識したファッションの世界観を結果、その”特異性”を継続し構築している、
未だに「差異感」がある企業であり、ブランドであり、デザイナーなのです。
彼らはこの「文化度」を生み出すための「文化力」を日頃から精進して「文化度」を
どのようにセンスよく、その時代性に差異化し発表出来るか?
そのための企業力も資金の使い方も”凄い”が、その結果でしょう。

8)最後に、僕が言いたかったのは、”メタファー””レトリック””アイロニィー”"アレゴリィー””ペーソス””ユーモア”などなど、」
 この時代の追い風に向かい合うためにはそれ相当の”覚悟”が必要であることと、
そのための特異性を取り戻すには、「文化力」豊かな、「文化度」が必要であり、
その文化力が現代のファッションにおける新たな”機能”となり、”自由”を生み出し
その”自由さ”が新しさを感じさせるまでの世界を、
そのブランド”らしさ”という言葉で見せてくれる、ということです。
 僕がこの30年間、巴里で好きなファッションを見続けてきた愉しさと気概とは、
彼らたちが散らつかせる文化力に痺れ、「文化度」に喜びと感動を感じて来たからです。
 この「文化度」は一夜漬けでは生まれないものです。
日頃の教養と経験と持ち得た”謙虚なるリアリティ”と”人間的なる倫理観から生まれ得る
例えば、”メタファー””レトリック””アイロニィー”"アレゴリィー””ペーソス””ユーモア”
そして、”メチサージュ”や”エステティック”と”エキゾチズム”あるいは、”パラドックス”などなど、のものですね。

9)「時代意識とは、つまるところ倫理的なるものです。/
  K.ヤスパース。」
 
これらは「壁紙デザイナー」には無縁なもの。
だから彼らたちは”アート”をカッコ良いと嘘ぶってしまうのでしょう。
彼らたちが立っていたい場所とは、「消費文化」の情報量だけが拠り所での立ち居場所で
メディアの消費社会で有名に登場したい輩たちなのでしょう。
彼らの「服」には込められた愛情が着れないものが多いのもこの証拠でしょう。
 だから、『ファッションがつまらないくなった。』とは、
”あたらしい自由”を感じさせないデザイナーたちの「文化度」の貧しさそのもので、
自分善がりもいいところ、「自己肯定」でしかないのです。 
 そこで結論的には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」へ新たなバランス感覚ーまさに”NEW BALANCE”ですね、
ここでも消費財がその新たなバランス感よりも先に、リアリティを生み出してしまった
消費文化しか生まれない東京、、、、
 だから、「あたらしい自由が見つけ出せない壁紙デザイナー」と
「あたらしい自由を必要としない消費者」という”世間”と
それらを煽るメディアが我が物顔になってしまったことが
元凶の日本のメンズ・ファッションの世界であり、『ファッションがつまらないくなった。』
の根幹の一つでしょう。
 現代日本の社会には、「あり得るべきはずの、”距離感”がなくなり始めた”世間”という
リアリティ」のみが漂っているだけなのでしょう。
 ファッションの世界も"あたらしい自由”によって、
新たな立ち居場所を教養と経験と勘とそして、倫理観と文化度によって
まず、次なる時代を見つけるべきであり、そのための歴史を知り、明日を夢見る好奇心ヘ
覚悟ある始まりを探さなければならないでしょう。
 巴里まで行って「壁紙デザイナー」の世界を見ることは
僕にとってはただの”ノイズ”でしかありませんね。
 何故ならば、もう既に「近代」は終焉。
ル・コルビジュェが”世界遺産”になってしまっているからだ。
完。

文責/平川武治。
初稿/ 2016年9月 2日。

参考/
G.タルドの「模倣の法則」/河出出版新社刊、2007年初版:
R.パワーズが書いた小説/「舞踏会へ向かう三人の農夫」/ みすず書店刊,2000年刊:

                                

いいなと思ったら応援しよう!