"The LEPLI" ARCHIVE 98/ 『写真家 伊島薫の新作展『あなたは美しい/NICO』展若しくは、写真の現在点について。』
文責/平川武治:
初稿/2013年4月13日:
写真/マリク シュリベ夫妻の手/マリ共和国 バマコ市:
『技術的に新しいものは、
もちろん始めはもっぱら新しいものとして現れてくる。
しかし、すぐそれに引き続いてなされる子供のような回想の中で、
新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。
どんな子供の時代も、
人類にとって何か偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。
どんな子供時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱く中で、
あらゆる種類の発明や機械装置,
つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、
もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。』
[認識論に関して、進歩の理論。]より。/Walter Benjamain
1)「ある意味で,写真の新しさそして,古さ。」/
伊島薫の久し振りの個展をAI KOWADA Galleryで見る。
今の時代の普遍的になった写真の面白さであり
或いは,写真の”墓穴”でもああろうか?
この作品の新しさとは,
“20世紀のハードウエアリング+21世紀のソフトウエアーリング
+パーソナルソフトウエアーリング”
=『あなたは美しい/NICO』と云う構図。
古さとは,’60年代後期のあの写真家、故加納典明氏が
当時,N.Y.滞在中に制作したヌード写真を想いだした。
白人女性の横たわる全裸と黒人男性の横たわる全裸写真。
真っ正面から,堂々と“外国文化”と向かい合った作品。
当然だろうが,この時代に於ける故加納典明の写真の新しさを
知っている者はかなりの高齢者であろう。
この時代の面白さにサーフしていた彼ら世代の連中たちは
この展覧会へ来ていないだろう。
また,もう一つの古さは
”又,なぜ外国人女性なのか?”と云う古さ。
例えば,先の故加納典明の写真には,
あの時代に感じさせる”カルチュアー”があの被写体の裸体そのものには
存在した時代性があった。
が,現在の日本においてあの巨大な被写体の裸体からは
どのような”カルチュアー”がメタファーされているのか?
どうも,僕は読み取れなかった。
今回の作品の被写体には”文化”があるのだろうか?と云う疑問。
そして,それ以上に気になる”8本の継ぎ目”とその裏にある作家の手仕事?
コンピューターリングを駆使したところでの
分割された超高精細画像による写真が今回の作品。
その写真の大きさと繊細さから生まれる作品の迫力と存在感は
作者の芸術意識と熱意そのものをも表している。
作品のサイズは縦2400X横9360mmの大きさのものである。
これを横9等分に分割し、一つの作品に構成されているのが
実際の作品である。
写真の現在地点とは、
当然であるが、この表層の主流は”超高精細画像”にある。
一つは,この技術を拠り所にした“レタッチ作業の進化”が
ファッション写真から広告写真において一般化している。
もう一つの写真の現時点は
”コンピューターリングソフトウエアー+パーソナルソフトウエアーリング=リアリティのハイパー-リアリティ化”である。
今回の伊島氏の作品『あなたは美しい/NICO』もこの世界である。
従って,見応えのある存在感と細部に至る表層の面白さや痛快感を
感じさせる作品である。
自心の中に染込んだモノへの表現方法?
たとえば,この作品で感じられるヒューマンテクノロジーは
あの8本の縦に入った継ぎ目です。
あの8箇所に作者の生の感覚を感じ,手仕事が読めます。
僕はあの継ぎ目に関心がありました。
なぜ,あの継ぎ目なのか?
あの素材なのか?
あの手法なのか?
そして、それらに依って隠されているところの
所謂,”作家の労働”です。
従って,幾本かの継ぎ目は作品のもう一つだと云う発想で見ました。
その結果、”新しく,古い。”と感じた僕の根幹でした。
参考サイト/AI KOWADA Gallery/
"http://www.aikowadagallery.com/ "
見た目、”外国人”起用は
僕たち戦後世代に染込んだ古さでしょうね。
”外国人=アメリカ人=カッコいい!”の世界でしたからね。
そこには当時の”外来文化”を必至で求めていた
僕たち世代の姿があり,
“横文字”と共に日本の広告産業は発展し,
これに身軽に”サーフ”したものたちは所謂,“一代”を築き上げました。
商業写真家/コマーシャルフォトグラファーもそう,
広告図案化/コマーシャルグラフィックデザイナーに始まって,
多くの広告業界からの横文字職業が
そして,服飾意匠家/ファッションデザイナーも加わって、
とても、”横文字文化”がカッコ良く、
”コピー”する時代性でもありました。
この時代には新鮮だった事実、そこに進化を求めた現実。
これも敗戦後の日本人の当時代のそれぞれの
”こゝろの有り様”でしか無かったでしょう。
そして,戦後日本の文化的環境と土壌が
この60数年で変革したのでしょうか?
2)もう一つの世界、「”4K/超高精細4K”の世界」というリアリティ/
この作品を見ていて考えられたもう一つの世界が、
“エンターテイメント”の世界での”4K/超高精細4K”の世界です。
これは既に,米大手映画会社7社を中心とする
デジタルシネマ標準化団体「DCI」(Digital Cinema Initiatives, LLC)が
提唱するフォーマットで、フルハイビジョンの4倍以上の885万画素(4096×2160ピクセル、4K×2K)の解像度のことです。
ですからハリウッド映画を劇場で見ると
既に、この世界を日常の中で娯楽化しまっているのです。
この手はもう一つ、美術館等で観ることが出来る
芸術作品を扱ったDVDフィルム群です。
これも印刷企業とのコラボレーションで現実化されてしまっています。
僕たちの日常性の中には既に,もの凄いモノが,
嘗ての、20世紀には考えられなかった技術発達の恩恵を受けて
日常化され,生活していると云う事です。
ここで面白い事とは,
もう一つの時代性としての”イメージとリアリティ”の関係性です。
既に,最近のハリウッド映画は”実話=ノンフィクッション
=持ち得たリアリティ=実話”を
その殆どの材題として、映画化がなされ,製作されています。
そして,それらは今世紀のハイパー技術、
CGから4Kまでを駆使して作られている映画が
ほとんどになってきましたね。
ここにも、嘗ての”ハイパーイメージ”から
”ハイパー-リアリティ”化が読めます。
先週、東京国立博物館に出来た、
『TNM&TOPPANミュージアムシアター』へ出掛けて,
3月で終わってしまうプログラム、
「アンコール遺跡バイヨン寺院”尊顔の記憶”」を見てきました。
この『TNM&TOPPANミュージアムシアター』は愉しいところです。
今回の「アンコール遺跡バイヨン寺院”尊顔の記憶”」は
凸版印刷が全面的に企業参加し,
彼らたちのハードウエアーを
東博の学芸員たちと東大の池内研究室の三次元計測データーを
持ち寄って製作された作品で
最新のヴァーチャルリアリティ技術で完全再現された、
目眩もするまでの50分ほどの映像でした。
規模、100万m3の世界最大級の立体形状計測データーに依って
再現された49もの石塔が林立する『バイヨン寺院』と173体の尊顔と
その世界遺産(東西160m,南北140m,高さ45mに広がる)が
みごとにヴァーチャルに再現されたフィルム。
ここまで見えてしまうのか?と云う驚きの連続が
静寂と神秘を現実より深いものにしている。
見えるはずのものが見えなかった現実を
ヴァーチャルに、3Dによって見せてくれている
この世界も現代の映像技術の高度なる発達の産物でしょう。
同時期に公開されていたのが,
『洛中洛外にぎわい探訪、舟木本屏風を歩くー京のごちそうー』。
これはこの屏風絵の実物からはあまりに小さくて見ずらい
花見の重箱の中身などを”食”を切り口に
やはり,”高細密画像”技術に依って
400年前の京文化をハイパーリアリティで見せています。
若しかしたら,伊島氏の今回の展覧会のコンテキストと
同じ発想かも知れませんね。
人肌の“毛穴”までが見える写真と
お重箱の中の当時の食べ物までが見える映像作品。
一つは伝統美と云うアーカイブをハイテクノロジーで伝承する。
もう一つは,現代と云うリアリティをハイテクノロジーで
新らたな眼差しで見せる。
この世界が今と云う現代性を生み出しているのでしょう。
そして,ここでも”新しさ”が今後の日常生活への
“リアリティ”と云う可能性を生む事を示唆した作品でした。
参考サイト/『TNM&TOPPANミュージアムシアター』
http://http://www.toppan-vr.jp/mt/
3)”異国趣味或いは、エキゾティズム”という美意識。/
次は,巴里で出会った写真の話です。
また、あのアラーキー氏が今度は“外国人女性”を縛った写真を昨年、
フランス日刊紙の別冊誌”W"で撮ってしまったのです。
もうこのレべルの世界になると、一つは単純な”見世物小屋”ですね。
所謂,”特殊性の上塗り”の世界でしょう。
ここには決して,彼の”特意性”は見当たらず
”縛り”を専門に行う日本人”縛り師”に依って縛られた白人女性を
唯、撮っていると云うまでの写真ですが実は、
その現場の空気感を彼一流に取り込んでいるところはさすがなのでしょう。
このアラーキーの作品は僕が好きで大事にしている,
”JOHN WILLIE”が撮った写真集”plusieuis possibilites"の一枚と
比較すると面白いです。
(そう言えば,どこかでこの.JOHN WILLIEゴッコをしていたコレクションがありましたね。)
ここには恥じらいと拘束観とそこから覚えるエロティズムが
空気感として漂っている世界。
下心と煽てられたはしゃぎのレベルでがんばったのだろうか、
アラーキー氏もこのJ.ウイリーの写真集をお勉強なさって
撮ったのだろうか?
しかし,この“下こゝろ”がこの世界では
“アート”と呼ばれる様になるのでしょう。
今回の“W"誌の様に,それなりのユダヤ民族のメディアと
やはり,ユダヤ民族たち写真関係者たちのお呼びに依って,
今回のアラーキよろしく、声を大きくして持ち得た度胸よろしく
立ち回り,メディア化すれば、
望むところの”フォトアートの世界”で作品が廻され
その結果、”値段”と云う解り易い”価値”が決められて、
美術館入りと云う世界へ到達出来る。
この道程と関係性を自らの世界観と技術とに依って立ち回れるか?
が、”フォトアートの世界”なのです。
これは何も”フォトアートの世界”のみに限りませんね、
ファッションの世界もそうです。
僕たち“Yellow"は所詮、彼らたちにとっては“異国人”でしかありません。
彼らたちの”異国趣味”に適ったモノ、驚かせるモノ,
そして、”はったり”が必要と云う訳です。
その“異国人”、”Yellow"がどれだけの面白い,変わった事,凄い事
カッコいい事,センスのいい事そして,頭のいい事をやってくれるか?
を求めているのです。
現在ではこの"Yellow"には中国人も既に、ウエルカムされています。
従って,アラーキーがウケた根幹はここに在りましたね。
変わらず,多くの白人たちはいつも自分たちの目線下に
その目標を置き、自分たちが”サプライズ”出来るものを待ち構えたり,
探しまわったりしているのです。
その内容そのものと、そのレベルによって
彼ら関係ユダヤ民族世界のレベルも変わってきます。
これが彼らたちが構築した世界の”アートの世界”であり,
”フォトアートの世界”でもあり、“アンティックの世界”や
また、“ファッションの世界”でもあるのです。
もっと云ってしまえば,ダンスもバレーもクラッシック音楽等も
この世界観で構造化,構築されています。
この背景には17世紀後半からのドイツ哲学が根幹としてあり,
そこから生まれた”美意識”であり、”西洋美学”が根拠性となっている
所謂,“単一文化的認識論”。
これが未だ、21世紀になっても
並々と、“主流”として流れ受け継がれているのが現実です。
残念ながら世界の”アート”と称されている,
”憧れの世界”は殆どがこの構造とこの世界が現実です。
4)”アート”という花園へ辿り着くまでの”有りうるべき関係性”とは、/
伊島氏の今回の展覧会のこの作品を見る限り,
”アート”へのご関心が感じられますが,
その為にはこの世界の”関係性”へ、“Keep in touch" 為さらなければ、
お望みの世界, ”フォトアートの世界”へは入れません。
この世界の関係者たち、ユダヤ民族の人たちを,
“アッ”と云わせるだけの
はったりと度胸と持ち得た”自分世界観”と
それを表現し得る技術と、
やはり,現代に於ける“伊島流JAPONEZM"が必要ですね。
若しくは,”資金”(即ち,金とコネ)が必要です。
そして先ず,誰にその”レップ役”を任せられるか,
若しくは,任せて欲しいと云う
ギャラリストや美術館キューレターが居るか?
そして、彼らたちとの“Keep in touch"が可能か?
5)”新しさを好奇心とする、”伊島イズム”とは、/
今の時代の“JAPONEZM"とは
先端IT技術を”ソフトウエアリングとパーソナルソフトウエアリング”に
依って、それらを自分カルチュアーで
どれだけ見事に使いこなせるか?
現代日本に於ける"Yellow-izm"を題材に
どんな可能性が作品化出来るか?
もう一つ,どれだけ今後の写真界へ影響が与えられるか?
なのでしょうね。
でも、今回の展覧会のこの作品への
作家としてのご自心が掛けていらっしゃる意気込みと
エネルギィーは凄いモノですね。
これも,一つの”伊島イズム”でしょう。
そして,確実に新しい”伊島ワールド”の一つでしょう。
僕は彼の”好奇心”が好きです。
そして、彼の実行力も好きです。努力家ですね。
この彼の好奇心がこれまでの彼の作品を生み続けて来たのでしょう。
”時代の新しさとは?”を、
写真世界で追い続けている部類なき、好奇心でしょう。
もう、その”新しさ”とは
ファインダーからレンズを覗き込んでいるだけでは
捜せない新しさと、
レンズなしで見つけられる普遍性なるモノの
“アーカイヴスのバリエーッション”の
新たな発見と云える新しさ。
“嘗て、見た事のあるもの”への新たな眼差し。
これだけでしょう。
いつの時代でも,”新しさ”は
これからの僕たちの日常性へ、大きな影響と可能性を
産業技術を通じてもたらすからです。
後、もう一つの大切な事は、
見る側にどれだけの”教養”があるか?
”美意識ある経験”が豊かか?
また,熟視された”日常”を感じるか?
の好奇心のレベルでしかないでしょう。
そして、“ハイパーリアリティ”がもたらす日常観を感じ
自心で楽しむ事なのでしょう。
僕はここにも、新たな課題として
”五感の新たなバランス化による調和”と云う眼差しが、
今後の時代を生きて行く上に必要な新たな”人間性”として
提起される事を読んでしまうのです。
文責/平川武治:早春、鎌倉にて。
初稿/初稿/2013年4月13日。