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『瀬尾英樹くんが夭折した。 "知覚のノスタルジアノオト-瀬尾英樹の作品を感じる前に、彼を想うために知って欲しい事”−1。』                  

文責/  平川武治:
初稿/ 2024年09月21日:
写真 / The hands of Mr.& Mrs. Malick Sidibe at Bamako on Nov. 2011 by Taque. 

「モードは夭折する。さればこそモードには、あんなに重い軽さがあるのだ。」/ 
By J. Cocteau

「瀬尾英樹くんが夭折した。」/
 
7ヶ月前の今日、瀬尾英樹くんは大好きなパリで約2年ほどの闘病生活後、
2024年03月19日に、さらなる新しい世界へ旅立たれました。
 このとても、悲しい訃報を知らしてくださったのは奥様の美希さん、3月23日でした。
 今夏、この歳であのような悲しい寂しい別れを僕よりも若くて自分の好きな世界で、
自分らしくご活躍なさっていらっしゃった才能豊かなシャイな瀬尾くんの訃報。
 多くのアントワープ卒業生の実態を知っている僕が誰よりもリスペクトしていた彼がこんなにも早く旅立ってしまった事に何とも言えない喪失感を引きずってしまっていた今年の長い
酷暑の時間でしかありませんでした。

「私の半分が突然なくなってしまいました。」
 悔し過ぎ、悲しすぎ、無念さとともに、とてつもなく泣けてしまった葬儀の僕でした。
彼らお二人は、お互いに予備校時代に出会ってから、ずーと”二人一体”で歓びも悲しみも
悔しさも不安さもともに、迷いながら”自由”を信じ、創作の歓びとともに、アントワープから
いつも笑顔でご一緒だったのです。
 その現実を僕は知っているので美希さんのこの言葉には全く、参ってしまいました。

「そして、再会の巴里、」 
 確か、2006年。彼らたちが巴里のマレ地区の始まりにあった、ムッシュ A.アライアさんの
アトリエで働き始めて少し時間がっ経った折りで美希さんも巴里で生活が始まる頃、
僕は丁度、友人が帰国するので空くシャローヌ通りのアパートメントを紹介した。
そこは長く住んだ僕のアパートからはさほど遠くなかった事もあって、彼らたちと僕との
巴里での一つの新しい好奇心豊かな関係性が始まった。
 彼がアトリエで忙しく働いていることを知っていた僕はほとんど、彼らからの嬉しい連絡を
待っていたのが常でした。

「巴里で逢える瀬尾くんとの時間は美希さんの手料理とともに、」
 僕とアントワープの不純な関係性から初期の多くのこのファッションブランド学校へ憧れと羨望と傲慢さで入学した歪な日本人も含めてファッションデザイナーと称する輩たちを職業柄多く知ってきたが、僕が本質でリスペクトできたデザイナーは数少ない。
 その根幹は殆が「メディアにお利口さんなだけのデザイナーであって、人間性と謙虚さから
生まれる”礼節”を持って対峙できる輩が少ない。」故である。
 瀬尾英樹くんはそんな世界の中では全く、礼節と感謝の心を素直に表し、笑顔で会話が
交わせられた人格と人柄を持っていた人であった。
そして決して、彼自らからは言葉を発せずいつも、人の言葉をちゃんと聞くことによって、
彼との対話が始まるので余計に僕も彼に会うと心を委ねて会話が弾んだ稀有な存在の一人で
あった。しかし、そんな彼の内面はとても強靭で自分に与えられた自由を自分で楽しむ、
繊細な行動人であったのだろう。
 だから、巴里で逢える瀬尾くんとの時間は美希さんの手料理とともに、いつも僕の脳みそとこころをマッサージしてくださる大変幸せで楽しい一時であり愉しみにしていた時間だった。

「僕はブランドデザイナーにはなりたくありません。」と僕に告げていた。
 彼は巴里に来た当初から、「僕はブランドデザイナーにはなりたくありません。」と
僕に告げていた。 
 それだけ彼は、アントワープから帰国後の東京で既に、見たくない、見なくって良い風景や人間関係を見てしまっていた故だっただろう。
 それ以上に、”物作り”を志した人間が持たなければならない「産みの苦しみ」を
自らの自由の裁量の元で望むことに本来の「自由」の価値を"血"と感じ取っていた
”創造の人”だったからであろう。
 巴里へ初めて来て、アントワープ校を受験するまでの数ヶ月を僕の巴里のアパートに荷物を
置き、西アフリカ旅行へ、彼自らが選んだバックパッカーで旅発だった。
巴里からスペインへ、そこで身ぐるみを剥がされる事件に遭遇し、モロッコへ渡りそして、
西アフリカ諸国へ入った旅だった。
 そんな彼の旅は「産みの苦しみ」を自らが体現し、経験値としての「自由の裁量」を
計測するが為の或いは、多くの好奇心と出逢うための旅だったのだろう。
彼が愛した旅とは、自分自身で”リスクとコスト”を負って自分が大切に、憧れとしている
「自由の女神」と向かい合う旅だったのだろう。
そして、その彼が出会ったであろう「自由の女神」のために瀬尾英樹は自由なる自分の
”作品”を作り始める世界を選択した。

「一番の”理解者”だったのが、Azzedine Alaïaさんだった。」
 それを許してくださり、彼の一番の”理解者”だったのが、生前のAzzedine Alaïaさん
だった。そして、瀬尾英樹の作品を最初に買い上げたのもAlaïaさんだった。
 2004年彼の卒業コレクションで、”メゾン A. Alaïa"のアート・ディレクターをなさっていた
ミラノの”10 コルソン コモ”のオーナーでもあるCarla Sozzaniと共にゲスト審査員として
瀬尾英樹の作品に接したのが彼らたちの最初の出会いであった。
 今でも憶えているのがショーの翌日、僕は彼の卒業作品の前でお二人にお会いした時に、
Alaïaさんはあの人懐っこい微笑みとともに、僕に声を掛けて下さり、瀬尾君の作品について彼の感想を語ってくださったことであった。
 「オリジナルな世界を創造している。」「全体のバランスが緻密に考えられている。」
「プリントも新しく面白い。」そして、「パターンメイキングも上手である。」
僕は嬉しくなった。
 僕がクチュリエとしてリスペクトしているAzzedine Alaïaさんが瀬尾英樹の作品に、
僅かな立ち話で、これだけの的確な感想と印象を語ってくださったので僕は興奮さえした。
<其の弐へ、つづく>

文責/  平川武治。
初稿/ 2024年09月21日。

参考サイト/ 


https://www.instagram.com/hideki_seo/






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