印象に残る文章の背景には生活がある
前に読んだ、『文章は接続詞で決まる』という本の中に、例文のひとつとして、尾崎一雄の文章が紹介されていた。それ以来なんとなく気になっていたので、尾崎一雄の『暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇』を読んでみた。
尾崎一雄は明治生まれで、この本では昭和初期ぐらいの時代のことが描かれている。ジャンルとしては「私小説」だそうだ。
私小説という言葉は聞いたことがあったけど、具体的にどういう小説を指すのかはっきりとは知らなかった。検索して調べてみると、私小説とはつまり、自分の身の回りに実際に起こったことを書くものらしい。
それって、日記なんじゃないだろうか。日記とどう違うのか。○月○日って書いてあるかないかの違いなんじゃないか。そうなってくると、いま自分がノートに日々書いている日記のようなものも私小説と読んでもいいのか。と、そんな疑問がまず浮かんだ。
それはまあいいとして、印象に残ったのは、『虫のいろいろ』のなかに出てくるクモの話である。先の接続詞の本でも、このクモの話の部分が引用されていたな、と、読んでいて、その箇所に来たときに思い出した。
長い間閉めてあったビンのフタを開けると、一匹のクモが一目散に逃げた。一生開かないかもしれないフタが開く瞬間を待ち続けたクモは、それが開くや否や、短距離走者のようなスピードで逃げ出した、という話である。
クモの視点に立ってみたとき、果たして自分にそれができるだろうか、と想像させられる。自分は不運にもビンに閉じ込められてしまった。ビンは持ち主にはほとんど忘れ去られているようで、フタが開けられる気配がない。食べ物もなく、自分のからだも弱っていく。そんな状態のなか、号砲一発でダッシュできるような気力と緊張感を持ち続けていられるだろうか、と。
対照的に、ノミは狭いところに閉じ込められると、何度か跳ねるうちにそれが無駄だとわかれば、跳ねるのをやめてしまい、フタを開けても跳ね出てこないらしい。そういう性質を使って、ノミに芸を仕込むことができるのだ、という話も書かれていた。
そんなエピソードも含めて、全体として描かれているのは、なんとなくだらしなく、お金の余裕も無く、体の調子もよいわけではなく、でもどこかユーモラスでゆったりとした空気の流れる尾崎一家の生活だ。効率的でも生産的でもないかもしれないけど、でも、そういう状況だからこそ、このクモの一件に立ち会えて、そこに目を留め、文章として書き残すことができたのだと思う。
後の世代の、自分のような文学に疎い人の印象にも残る文章の背景には、生活ごと小説にする私小説家の一生がある。そんなことを感じたのだった。
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