物語の前にある「今ここ」
タイトルからしておもしろそうな、津村記久子さんの『浮遊霊ブラジル』を読んだ。
津村さんの本はどれもおもしろい。それは話の筋はもとより、ディテールが好きだからだろう。細かい描写が時代を反映していて、エッセーのように読める。
例えば、この本だと、都会のコンタクトレンズ屋の店員が店の前を掃除して集めたゴミのなかに、街頭で配られるポケットティッシュの消費者金融の広告の紙が混じっているとか、地方の町で溝にうどんの切れ端が流れているとか、「自然農」なんていう時代のちょっとしたキーワードがさりげなく登場するとか。小説だけど、自分と同じ時代を生きている人や世界を感じさせてくれる。
津村さんの小説はリアルな世界よりも解像度が高い。だから、自分が見ているようで見ていなかった世界を見せてくれる。それも小説の役割というか、人生を豊かにしてくれるというのは、そういうことなのではないかと思ったりした。
ところで、先日読んだ『嫌われる勇気』という本で、人生を物語に見立てるのはたしかにおもしろいかもしれないが、それにとらわれてはいけない、というようなことが書かれていて、ハッとさせられた。今ここを生きなければいけない。過去をコントロールすることはできないから、過去に引きずられて今これからを生きることは無益だ、という話だった。
この津村さんの短編小説集のなかにも「とにかく物語を食い散らかす人生だった」という言葉が出てくる。死んでしまって地獄に行った小説家が口にする言葉だ。津村さんもやはり「物語」を作ることについて、思うところがあるのだろうと思う。
物語よりも「今ここ」が大事なのだろうか?
個人的に去年、人にインタビューしてそれを文章にまとめる、ということをいくつかやってみた。そのとき思ったのは、今聞いている答えのなかに次の質問のヒントがあるということだ。だから、今話してくれていることに集中する。自分の処理能力では、しゃべりながら最終的な文章の構成を考えたりはできないので、苦肉の策だったのだけれど、結果的に物語を意識するのではなく、今ここを意識することに役立ったかもしれない。
ただ、文章にすることは多かれ少なかれ物語にすることだ。何かしらの物語がなければ、支離滅裂になってしまう。たぶん順番の問題なのだろう。先に「今ここ」が来て、そのあとに「物語」を考える。まず物語があってそこに現実を当てはめることはしないようにする。その意識が大事なのではないか、と、この2冊を読んで思ったのだった。
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