「引き」と「寄り」を兼ね備えたら「深い」のかも

 松田青子さんの短編小説集『ワイルドフラワーの見えない一年』はウィットが効いていた。ウィットというか、アイデアが散りばめられている。いつもメモをしていると、前に読んだエッセーに書いてあったので、そういうアイデアがこの小説にも生かされているのかなあと思いながら読んでいた。

 例えば「少年という名のメカ」。これは映画やマンガに出てくる「少年」キャラ、純粋で周りの人がみんな応援したくなるような「少年キャラ」を皮肉った話だ。注目点が意外で新鮮。

 国歌を擬人化した「ナショナルアンセムの恋わずらい」もおもしろい。あの子はなぜ私を歌ってくれないのだろう? ついに歌ったと思ったら口パクだし!とか国歌の身になった発言が笑いを誘う。スペインかどこかの国家は歌詞がないらしく、自分も歌詞さえなければ困ることもなかったのになあ、というくだりがナイスだ。

 これもうまいと思ったのが、日常のひとこまをすべて金額で表現した「週末のはじまり」。現代社会へのツッコミになっているし、たしかにに自分も「コンビニで172円と430円を買って…」と、頭のなかでは値段ばっかり追いかけているかもしれないなあと、考えさせられる。

「男性ならではの感想」も笑ってしまった。女性ならではの感想を求められ、女性ならではの感性で商品開発、なんて言葉を聞くけれど、それを男性に置き換えたらどうなの?という話。男性活躍社会とか。男女の扱いの問題を鮮やかに描いている。

 読んでいると溜飲が下がる思いがする。性差の問題や政治的なテーマなど、議論し出すと争いになりそうな話でも、こうやってウィットで表現されると「まいった」という気がしてくる。

 つまり、一歩引いた視点を与えてくれる。引いてばかりでは何も解決しないと言われれば、そうかもしれないけど、世の中には熱くなっているところに引いた視点を提供する役割も必要だ。それが例えばこの小説なのだと思う。

 ひとりの人のなかにも、引いた視点と寄った視点の両方がある。寄ったときの発言と引いたときの発言は同じ人でも違う。賛成だ反対だという寄った意見もあれば、まあいろいろあるわな、という引いた見方もできる。

 その両方を持てばバランスが取れるのだろう。「引き」と「寄り」を兼ね備えたものが「深い」ものなのではないか。なんとなくそんなことも考えたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?