エド・ウッド〜“史上最悪の監督”が撮った“史上最低の映画”が素晴らしい
『エド・ウッド』(Ed Wood/1994年)
映画作りの長い歴史の中では、「永遠の名作」「最高傑作」と称される作品が稀に生まれるが、一方で「観る価値もない駄作」「史上最低」と呼ばれるものも数多く作られてきた。
大根役者、適当な物語、チープなセット、恐ろしいほどの低予算……B級どころじゃない。はっきり言ってそれ以下だ。
中でもエドワード・D・ウッド・ジュニア監督とそのSF怪奇映画は“有名”で、「史上最悪の監督」「史上最低の映画」の二冠に輝く。
しかし、彼は自分の作った映画を「傑作」だと思い込んでいた。自分の作品に正直だった。そして何より映画を心から愛し、夢を追い続けた。そのあり方が素晴らしかった。
エド・ウッドは、1924年10月に東部・ニューヨークで生まれた。1930〜40年代に、ウエスタン、コミック、ラジオドラマに慣れ親しむ。第二次世界大戦で負傷して、旅芸人の一座に参加して西部・ロサンゼルスへ。
製作・脚本・演出を担当した演劇作品「のんきな中隊」が酷評される。その後、ハリウッドで成功を手にするため、スタジオの片隅で使いっ走りをしながら、映画作りに没頭。
1950年代に『グレンとグランダ』『怪物の花嫁』『プラン9・フロム・アウタースペース』などを製作・脚本・監督。
しかし、エドの映画が注目されたり、ヒットすることはなかった。1970年代には、アダルト雑誌でポルノ小説を書きながら食いつなぎ、次第に酒に溺れながら、1978年12月に死去。享年54。
この最低最悪の監督の名が広く知れ渡り、新しいファンを獲得するまでに至ったのは、やはりティム・バートン監督とジョニー・デップのコンビによる『エド・ウッド』(Ed Wood/1994年)だろう。
エドの“同類”を自認し、熱いリスペクトを贈るバートンは、『バットマン』や『シザーハンズ』の後に、どうしてもこの小規模な作品を撮りたくなった。ヒット作を出して、思わず原点回帰したくなったに違いない。
エドには女装趣味があり、それを表現することが避けられなかったが、ジョニー・デップは喜んで情熱的に取り組んだ。
また、ビル・マーレイやサラ・ジェシカ・パーカーらのキャスティングに注目が集まった中、往年のドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ役を演じたマーティン・ランドーの演技は特に詩的で印象深く、アカデミー助演男優賞を受賞した。
(以下、ストーリー含む)
30歳のエド・ウッド(ジョニー・デップ)は映画作りに夢を抱きながら、女優志願のドロレス(サラ・ジェシカ・パーカー)と暮らしている。だが、どこのスタジオに売り込んでも相手にされない。
そんなある日、1930年代の怪奇スターであり、年老いたベラ・ルゴシ(マーティン・ランドー)との運命的な出逢いがきっかけで、少額ながら資金集めに成功。『グレンとグランダ』を撮り上げる。映画は罵倒と嘲笑の嵐を受けた。
次に、ゲイやプロレスラーやインチキ預言者の友人たち(ビル・マーレイなど)に支えられて、『怪物の花嫁』に着手するが、ドロレスはエドの女装趣味や世界観が理解できず出て行ってしまう。
人気TVスターのヴァンパイラ(リサ・マリー)に出演アプローチするも相手にされず、孤独な生活を送るベラの体調もドラッグのせいで悪化。入院するものの、費用が払えないので、エドはベラを傷つけないように嘘をついて退院させる。二人は友情を深めていく。
良き理解者キャシー(パトリシア・アークェット)と恋に落ちたエドだったが、短いフィルムを残して、遂にベラが逝く。
傷心の日々の中、新しい金ヅルができて、『プラン9・フロム・アウタースペース』がクランクイン。友人たちやヴァンパイラも出演することになった。
ところが、撮影に口うるさい出資者たちに嫌気がさしたエドは、スタジオを飛び出して一人バーに向かう。
そこで遭遇したのは、エドが尊敬するオーソン・ウェルズ。あの『市民ケーン』を自分のやり方を貫いて世に出した、偉大な映画人だ。オーソンは自信を失ったエドに助言する。
撮影を再開するエド。情熱がすべてだ。映画は無事にクランクアップ。ベラの遺作フィルムの詩的さが美しく、プレミア上映も今度は拍手の嵐。そして、エドとキャシーは結婚を誓う合う。
もう誰も、エド・ウッドを笑うことはできない。
文/中野充浩
参考/『エド・ウッド』パンフレット
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