アメリカン・サイコ〜バブルで踊り続けたヤッピーの狂気の日々
『アメリカン・サイコ』(American Psycho/2000年)
日本では「バブル」という、実体のない経済的な宴が生まれたことが2度ばかりある。
1回目は、1987年〜1991年を包んだ株価や地価高騰の上に成立した時代。そして2回目は、世紀末やミレニアムという言葉で覆われていた1999年〜2000年のドットコム企業の上場ラッシュ。
それによって若くして大金を持つ者が必然的に現れる。いわゆる大人としての人間力を十分に育まないまま、金という最大の武器を手にしてしまう連中が増殖する。あの頃を振り返れば、少なくとも身近に一人や二人はいたはずだ。
ただ厄介なことに、札束は継続的な輝きのようなものを放ってしまう麻薬のような習性があり、世の中に浮遊する人間のあらゆる欲望(性や消費など)をほぼ買収することが、幼い子供がゲーム画面上のステージを次々とクリアしていくように、あっけなく実現してしまう。
そんなことが繰り返されるうちに、まるで冗談のような虚飾に溢れた軽薄な言動が、やがて実在という意味でのリアルとして息づいていく。その空気は街の雰囲気や人々の心を覆っていく。
『アメリカン・サイコ』(American Psycho/2000年)は、そんな日本の二つのバブル期ともリンクした“不快”な作品だった。
見上げてしまうほどの大金を持たない多くの人間にとって、一握りの連中が繰り広げる自己顕示欲むき出しのパーティなど、迷惑で耐えられないノイズに過ぎないからだ。
原作は『レス・ザン・ゼロ』で知られる作家、ブレット・イーストン・エリスが紆余曲折を経て発表した1991年の同名小説で、ニューヨークのウォール街周辺が舞台。
1980年代後半、証券会社のエグゼクティヴである26歳のヤッピー、パトリック・ベイトマンという男が、どんな豪勢なシティライフを送り、どんな変態的な欲望を満たしていったかをただ書き連ねてあるだけの物語だった。そこに文学的な味わい深さは一切ない。
目次も凄い。流行のレストラン、ナイトクラブ、ブランド、イベント、デート相手の名前といった単語が並ぶだけだ。
そんな中で印象的なのが、ポップ・ミュージックのアーティスト名。小説や映画では「ジェネシス」「ホイットニー・ヒューストン」「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」らが、物語の途中で突如として詳細に語られる。
主人公ベイトマンにとっては、音楽も自らの華麗なるシティライフを演出するための重要なアイテムだった(特にホイットニーの「Greatest Love of All」についての語りは感動的)。
映画は、“ドーシア”という超人気レストランの予約の可否、名刺のデザインや素材の優劣、在住マンションやスーツのクオリティなど、同世代のヤッピーたちとの張り合いに負い目を感じ始めたベイトマン(クリスチャン・ベール)が、錯乱と狂気によって弱者殺人へと囚われていく展開だが、結末は意外なことに。
音楽ファンも十分に楽しめる。クラブでニュー・オーダーやマーズ、デートでロバート・パーマー、オフィスでカトリーナ&ザ・ウェイブスやクリス・デ・バー、部屋でフィル・コリンズやホイットニー・ヒューストン、売春婦との行為でシンプリー・レッドやフィル・コリンズの曲が聴ける。メランコリックなテーマ曲はデヴィッド・ボウイ。
ニューヨークの1979年から1987年までを、「ウォール街のビッグマネーとナイトライフとコカインの時代だった」と、エリスと同時期に活躍した作家ジェイ・マキナニーは表現したことがある。しかし、そんなワイルドなパーティも、1987年の株の大暴落によって終わりを迎える。
つまり、エリスはその宴のある時期を、『アメリカン・サイコ』で備忘録的に、主人公の手記的に描こうとしたのだ。
この作品で綴られる無意味と無感動の積み重ねは、時間とともに意味を持ち始める。そしてサイコという精神を病んだタイトルが、より意味深な世界を臭わせる。
文/中野充浩
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